2011.11.04 Friday
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ひらひらと舞い散り地面を薄桃色に染めていくのは、
異常気象の所為か例年より幾分早く咲き誇った桜の花びら。
周りを見渡すと、まだ少し肌寒いのか、
身をすくめて苦笑いを浮かべあっている同級生たち。
3年間お世話になった高校の卒業式。
薄汚れたコンクリートの壁や体育館のすえた匂い。
それらに想いを馳せて目頭が熱くなる。
しかしやはり、僕のこの鼓動は、
そういった感傷とは別の想いに駆られて高鳴り続けている。
式のため、体育館へ向かって渡り廊下を歩く人込みの中に、
絹のような艶やかで、長い黒髪が風に揺れているのを視界に捉える。
この日本という国において、
その光景は別段変わったものでもなんでもない。
しかしその凛とした歩き姿に胸が締め付けられるのは、
なにも彼女に特別な感情を抱いている僕だけではあるまい。
道行く誰もが、彼女の内側から溢れる力強い美しさに気付き、心を奪われる。
その足取りは規律めいた厳格さを感じさせると同時に、
全てを包み込む慈愛をも周りに印象付ける。
僕は今日、彼女に告白する。
「式も、無事に終わったな」
そう言いながら、部室の道具の整理を進める彼女は、桐島文(あや)。
物心付いた頃からの幼馴染であり、そして僕の片思いの女性でもある。
彼女は自らが部長を務めた女子剣道部の最後の責務を果たそうと、
防具などを一つ一つを手に取り、そして丹念に磨いている。
床に正座で座る彼女の背筋は、いつも見惚れるほどに美しい。
「そうだね文ちゃん。しかし部長さんも大変だね」
「なに、当然のことだ。立つ鳥後を濁さずというだろう」
彼女はそう言って、優しく微笑んだ。
長く美しい黒髪。
透き通るような、しかしどこか力強ささえ伝わる白い肌。
何者にも媚びることのない、彼女の誇り高さがよく表れている大きな釣り目。
彼女の言動は、常に凛とした風格が伴う。
絵に描いたような大和撫子。
おまけに剣道学業共に、全国トップクラスの文武両道の才女ときた。
しかしそれを不公平だとは言うまい。
僕は彼女が才能の上に胡坐をかくような人間でないことを、
この世界で誰よりも知っている。
「大学に行ってもよろしく頼む。
まぁ、私のような女と一緒だと色気も何もないが、
そこは幼馴染の腐れ縁だと我慢してくれ」
彼女に色気が無ければ、この世の殆どの女性にもそれは存在しないと断言できる。
とはいえその色気とは、いわゆるグラビアアイドルが持つような即物的なものではなく、
まるで抜き身の日本刀のような、ともすれば背筋を凍らせるほどの、華。
そう。
僕は彼女と一緒の進学先を選んだ。
理由はいわずもがなだろう。
とはいえ彼女とは違い、スポーツも勉強も平均の僕には、
それこそ眠る時間を惜しんでの努力が要された。
そこには文ちゃんの協力の要請もあったが、
それは惜しみつつもやんわりと断った。
放課後、彼女と二人きりで勉強などしようものなら、
頭に入ってくる英単語なんてたかがしれている。
「それにしても、良作の努力には驚かされたよ。
いや感服した。やはり私の自慢の幼馴染だ」
鼻息を荒くし、胸を張ってそう言う彼女の言葉に嘘はない。
当然嫌味でもない。
彼女はどこまでも誠実で実直な人間なのだ。
「文ちゃんだったら勉強しないでも合格してたんじゃない?」
それに引き換え僕ときたらこうだ。
身長や見た目も平均以下。
口下手で、友達だって少ない。
何も悪いことなどしていないはずのに、
どこか世間に後ろめたさすら感じてしまう。
そんな劣等感の塊だ。
そんな僕が、彼女のような人を好きになったのは、
当然の摂理のようでもあるし、喜劇のような皮肉すら感じる。
「何を言う?例えそうだったとしても、自分の努力を卑下する必要なんて無い。
少なくとも、良作は私の誇りだ」
彼女はなんのてらいも無く、真っ直ぐと僕の目を覗き込み、そう口にする。
その彼女の表情全てが僕にとっては正視に堪えがたいほどに美しい。
今は座っているが、立てば身長も僕とさほど変わらない。
胴体と同様に手足もすらりと長い。
まるでTVで見掛けるモデルのようだ。
当然男子からの人気は凄まじい。
普段から文ちゃんの在籍する教室の前には告白の機会を伺う男の行列。
放課後には校門前で他校の男が列を成す。
つい先ほどの卒業式だって、
最後のチャンスに望みをかけた男子達を、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、
ようやく道場に逃げ込んできたのだ。
僕にとっては雲の上どころの存在ではない。
気弱で、何の取り柄もない僕がいじめられなかったのは、
正直文ちゃんの唯一の男友達であったという部分が大きかったんだろう。
僕を苛めると、彼女に嫌われる。
そういう風に思われていたんだと思う。
彼女の方から下校の誘いを受ける唯一の男子だった僕には、
男子達から羨望の目が向けられてはいたけれど、
そこに一切の嫉妬が混じってなかったのは、
周りの目から見ても、僕が彼女とどうこうなるとは、
誰も思っていなかったからだろう。
それでも、やはり僕は彼女が好きだ。
いつからだろうか。
わからない。
物心が着いた頃からずっと一緒で、
小学校の頃は、どちらかといえば姉のように慕っていた。
思春期に入ると、周りの男子から文ちゃんの評判をよく耳にするようになる。
それとは反比例するように、学校社会で存在感が薄まっていく僕。
僕の存在意義など、彼女に恋に落ちた男子から、
やれどんな男性がタイプだとか、
どんな映画が好きかだとかを聞かれるだけの情報屋だった。
僕の告白は、万が一にも上手くはいかないだろう。
進学先が一緒なのに、この関係が壊れてしまっても良いものかどうかなど、
指摘されるまでもなく散々と悩んだ。
でも、この想いを伝えたい。
自分が卑屈で、矮小な人間だとはわかっている。
でも、せめて、好きな人に、好き、と想いを伝えることが出来るくらいの人間にはなりたい。
胸を張って撃沈したい。
そうして、少しづつでも良いから、
彼女と肩を並べられる人間に近づきたい。
「文ちゃん」
「ん?何だ?」
道具の整理を終えた彼女は、
腰を上げて僕の方へ向き直った。
窓から漏れる風は彼女の髪を揺らし、
桜の匂いを運び僕の鼻をくすぐった。
僕は頭を下げた。
「ずっと好きでした」
ああ。
大昔に、ご先祖様達が殿様の前で腹を切った時も、
こんな感じだったのかな、と思うくらいの非現実感。
呆れられるかもしれないけれど、
僕にとっては、それくらい、決死の覚悟だった。
それにしても、なんと不細工な告白だろうか。
脈絡もなければ気の利いた演出もない。
頭は沸騰している。
ぐつぐつぐつぐつ、脳漿が煮だつ音すら聞こえてきそうだ。
足も手も震え、もう自分の身体じゃないみたい。
でも、後悔は無い。
自分を誇らしく思える。
もう結果なんてどうでも良い。
どうせ振られるのはわかり切っていた。
それよりも、生まれて初めて、自分を褒めてあげたい。
生まれて初めての告白。
予想だにしなかった充足感。
ようやく自分を好きになれそうだ。
顔を上げる。
自然と文ちゃんの顔を覗き込む。
彼女は頬を掻きながら、
「……まいったな」と呟いた。
ただの幼馴染と思っていたであろう僕から、
突然の告白を受けて困惑の表情を浮かべる。
それとは対照的に、言いたいことを言い切って、
晴れやかな気分になった僕の心中は、
とても穏やかで、そして冷静だった。
「ごめん。急に」
「いや、いいんだ。確かに吃驚はしたがな」
そうか、と彼女は呟くと、大きく息を吐いて
「その、どうして私なんだ?
同学年の友人と比べても、女らしさなんてどこにも見当たらないぞ?」
困ったように笑い、そう言った。
「確かに女の子っぽくはないかもね」
僕もつられて笑う。
いつの間にか、笑っていた膝は止まっていた。
いざ死地に踏み込んでみると、案外落ち着けるものだと実感する。
「でも、どの女の子よりも魅力的だと思う。
うん。だから、好きになったんだ」
好きな人に、好き、という言葉を投げかけるのは、
一度経験してしまえば、それはとても楽しいものだった。
きっとバンジージャンプのようなものなんだろう。
文ちゃんは僕の言葉にいまいち納得がいかないように腕組みをし、
「む、そう言われると、照れる」と珍しく顔を赤らめた。
「言われ慣れてるでしょ?」
反対に僕は、軽口を叩く余裕すら出てくる。
「そうでもないさ。他人から言われるのと、
幼馴染の良作から言われるのでは重みが違う」
そう言うと、彼女は天を仰いで、もう一度「ふぅ」と息を吐いた。
「私は、正直、恋愛とかそういう事がよくわからない。
友人達のようにデートをする暇があるのなら、
剣道の練習に打ち込みたいと思う」
「だろうね」
僕は理解ある相槌を返す。
「男性に対して、小説や映画で見るような淡い気持ちなんかも抱いたこともない」
そうだろう。
彼女の色恋沙汰など聞いたこともない。
だからこそ、僕の想いに対する答えなどわかりきっていた。
僕はその現実を受け止める準備をする為、
逸る鼓動を諌めるように深呼吸した。
「しかし、私も女だ。たまに自分ですら忘れてしまいそうになるがな」
そう言いながら、自嘲するように笑い、言葉を紡ぐ。
「理解も無ければ経験も無いが、興味が皆無というわけでもない」
「え?そうなの?」
思わず驚愕の声を出す。
僕のそんなリアクションが面白かったのか、
彼女は思わず、といった風に吹き出す。
「それはそうさ。言っただろう?私も女なんだ」
「いや知ってるけどさ」
驚くことでもなんでもない。
しかし、普段の彼女からは、そんな態度は全く伺うことは出来なかった。
「興味津々、というほどではないんだがな」
彼女は照れくさそうに、頭を掻く。
「それでな、私はずっと思ってたんだ。
いつか男性と交際するにしても、
それは一体どんな人なんだろう、と」
「よく告白されてるじゃない。よりどりみどりでしょ」
「有り難いことだ。私のような無骨な人間に想いを馳せてくれる。
しかし残念なことに、私は彼らとは付き合うことは出来ない」
「どうして?学年トップクラスの人気男子ばっかりだったじゃん」
自分のことを一先ず棚に置いておく。
「私は、恋をしたことはないが、きっと誠実で実直な人間が好きだ。
しかしそんなものは、たかが数回の会話、いや、一年一緒に居たところで、
容易にわかるものではない」
「だから、付き合って理解を深めあうんじゃない?」
なんだか、話がずれてきた、とは思うものの、
あの文ちゃんが、恋愛を真面目に語っているのが、
なんだか面白くて僕はそれに付き合う。
「そうだな。それも大事な事なんだと思う。
交際を経て、他人を理解し、そして自己の見聞を広める。
素晴らしいことだとは思う」
ただ、と彼女は続ける。
「それが徒労に終わることもあるのだろ?
それどころか、お互いを傷つけあい、悲惨な別れを経験する友人達もいた。
勿論それを含めて、恋愛というものの醍醐味なんだろう。
ただ私は、さっきも言ったとおり、そこまで恋愛に興味が持てない。
剣道を犠牲にしてまで、多大な時間と労力を割くつもりもない。
そんな生半可な気持ちで交際を許可して、
万が一にも相手を傷つけてしまっては、元も子もない。そうだろう?」
「そう、かもね」
彼女らしい、真面目で思いやりのある考えだとは思う。
ただそれでも、今なお鳴り止まない鼓動を鑑みると、
やはり恋愛は、それだけの価値があるのだと、熱弁を振るいたくもなる。
誰かを好きになる、ということが、こんなにも素晴らしいことなんだと、
友人として、彼女に教えてあげたい。
「だから……」
いつも歯切れの良い彼女の言葉が、珍しく淀んだ。
だから、僕とも付き合えない。
そういうことなんだろう。
しかし、ようやく彼女の口から漏れた言葉は、
僕の予想を斜め上に超えていた。
「だから、良作と、付き合ってみようと思う」
「は?」
「彼女になる。と言ったのだ。良作の。私が」
右手で僕を指し、左手で自分を指しながら、
身振り手振りで、倒置法を使ってそう説明した。
「どうして?」
思わず、そう問い返してしまった。
本来ならば万歳を繰り返し、血涙を流し喜ぶはずのこの展開。
僕の思考を覆ったのは、疑問。
「私は、良作が実直で誠実な人間だと知っている。
それこそ、胸を張って誇れるほどにな」
「でも、僕なんかで、いいの?」
最低の質問。
何のために告白したんだ、と自分を殴りたくなる。
しかし思いがけずに舞い込んできた話に、
僕の思考回路はただ混乱の一途を辿っていた。
「良作なら、私の性質を理解してくれている。
剣道に打ち込もうが、今更文句もないだろう?」
不敵な笑みを浮かべてそう言う。
「そっか……ありがとう」
「なんだ。あまり嬉しそうじゃないな」
「いや、OKしてもらえるとは微塵も思ってなかったから」
「それじゃあどうして告白したんだ?」
「ただ、伝えたかった、って感じかな」
「そうか……」
彼女は目を閉じ腕を組むと、数秒黙り込み、
そしてまた目と口を開いた。
「やはり、良作はすごいな。
私がもし好きな人が出来ても、きっとそれを伝える事なんか出来やしないだろう。
それも玉砕覚悟とは。やはり、自慢の幼馴染だ。
いや、彼氏、というべきか」
「そうなの?」
「そうさ。意外と臆病なんだ。私は」
「それは初耳だな」
「そうか?あの時だって、良作は勇敢だったじゃないか。
ああ、そうだ。思い出した。
そうだな。やはり、私は良作と付き合うべきなんだろうな」
彼女は一人うんうんと納得したように頷いた後、
「これは私の勝手な推測だが、良作は自分のことを卑下していないか?」
「まぁ、我ながら情けない男だとは思うよ」
「そんな事はないさ。自分の弱さと向き合うことが出来るのは、
奥底が強い人間だけだ。
良作がそんな強さと優しさを持った人間だと、私は知っているよ。
ま、とにかく、これからもよろしく頼む」
彼女はにか、っと笑うと、僕に右手を差し出してきた。
どこか狐につままれたような気分で、その手を握る。
そんな僕達の間を、桜の花びらが祝辞を上げるかのように舞い落ちてきた。
とにかく、そんなわけで、僕達は恋人同士になった。
卒業式から一ヶ月。
晴れて恋人同士になった僕らには、
それこそ桜色のような甘い生活が待っていた、
はずだった。
しかし現実は厳しい。
今まではまるで兄弟のように育ってきた幼馴染が、
いきなり男女の関係になることはなかなかに難しかった。
別に問題があるわけではないし、
大学入学前の春休みに至っては、
毎日のようにデートをしていた。
しかし未だに手を繋ぐことすら出来ない。
勿論僕の慎重な性格(弱気という表現がより正確だろうか)
に起因する部分が殆どだろうが、
それと同様に、お互いが異性と交際することに慣れていない、
(というか初めて)という事実も、
僕らの間に恋人、という空気がなかなか流れない事実に拍車をかける。
「まったく……」
大学の近くで一人暮らしを始めた僕の部屋で、
細い顎と首を軽く傾げて、文ちゃんは一人言のように呟く。
「どうしたの?」
「今日も大学の友人に揶揄された。
私たちはとても恋人には見えないそうだ」
少し落ち込んだ様子で、彼女はそう言った。
それとは対照的に、僕はついつい笑みを零してしまいそうになる。
そりゃそうだろう。
日本の美を象徴したかのような文ちゃんの隣を歩いているのは、
まるで空気を擬人化したかのような僕。
誰もが芸能人とその付き人とでも思うだろう。
「仕方ないよ」
「仕方ないはずがない」
彼女のその言葉には、微かな苛立ちが見えた。
「心外だ」
珍しく語気を荒めながら緑茶を口に運ぶ。
僕にとってはその友人の指摘はもっともだと思うし、
何より文ちゃんがこういう態度を取ってくれるのが嬉しいためか、
穏やかな気持ちで眉間に皺を寄せる彼女を眺めていた。
僕にとって意外だったのは、恋愛に対して淡白だったはずの文ちゃんが、
こうして僕の存在を軽んずられるのを、心底嫌がっていることだ。
恐らくは、それは恋愛感情というものではなく、
身内意識からくる擁護に近いんだろうな、とは個人的に思う。
文ちゃんと付き合いだし、不思議なほどに、
僕は冷静に彼女と向き合うことが出来ている。
「まぁまぁ。僕と文ちゃんが付き合っているのは事実なんだからさ」
そう諌めると、彼女はバツが悪そうに
「……む、そう言われると、私が駄々をこねてる子供みたいじゃないか」
と、薄桃色の小さな唇を尖らせる。
その仕草が身悶えするほどに可愛らしい。
僕だけにしか見せない表情。
それだけで、僕は恍惚に包まれる。
夢見心地でそんな文ちゃんを眺めていると、
彼女の白い指先が、そっと僕の指先に触れた。
それは、茶碗を置いた動作で、偶然にそうなっただけのこと。
ふと僕達の視線が合う。
触れ合ったままの指先。
僕は勢いにまかせて、その指に、自身の手を重ね、そして握った。
一瞬、二人の時間が止まる。
彼女は真っ赤な顔のまま、睨み付けるように僕の顔を覗く。
一文字に結んだ口は、何かの決意を表しているかのよう。
僕は、何も考えないようにした。
そうしないと、きっと脳の血管が火山の噴火のようにあちこち破れてしまいそうだったから。
ひたすら無心で、顔を近づける。
文ちゃんは、その宝石のような瞳をすっと閉じた。
僕も目を閉じて、息を止める。
するとなんとも形容のしがたい、甘く良い匂い。
どうして、女の子はこんなに良い匂いがするのだろうか。
そんな事を考えていると、
まるでこの世の優しさとか、暖かさといったものを、
凝縮して具現化したかのような柔らかさを唇に感じる。
お互いの唇が触れ合った瞬間、
僕はなぜか、両親に対してえもいわれぬ感謝を感じていた。
生んでくれてありがとう、と。
もっとこのままでこうしていたい。
そう願わずにはいられなかったけれど、
そろそろ呼吸を止めるのも限界だ。
このまま死んでしまうのも幸せだけど、と半ば本気で考える。
名残惜しくもなんとか顔を離す。
まるで冬場の朝の毛布のような依存性。
ゆっくりと呼吸を再開しながら、目を開けると、
そこには同じように瞼を持ち上げようとしている文ちゃんが映る。
当然目が合う。
照れくさいのか、彼女は一度視線を斜め下に逸らし、
そして数秒逡巡した後、助けを請うような上目使いで、
「……なんだか、思っていた以上に、照れくさいものだな」
と呟いた。
僕たちはその後何度もキスを続けた。
たった二人きりの部屋。
実は僕にはバイトの時間も迫っていたんだけれど、
それを口に出さず、
飽きることなく唇を重ねては離しを続けた。
十回ほど、唇を重ねたり離したりした頃合だろうか。
初めての頃から、あまりがっついても、嫌われると思い、
僕は一度大きく顔を離した。
すると、彼女は不満そうな表情を浮かべ、
「……もっと」と囁いた。
その表情と口調は、僕の理性を取り払うのに充分すぎた。
この日僕は、人生最初で最後のバイトのずる休みをした。
店長に嫌味を言われることを億劫に思いながらも、
そんなものはどこ吹く風と、
ただひたすらと、無言のまま、文ちゃんと唇を合わせ続けた。
「べつに呼吸しながらでもキスくらい出来るだろ?」
そう口にしながら愉快そうに口端を吊り上げるのは、
大学から友達になった安藤芳樹君。
見た目や言動はいかにも今風の大学生。
勉強やバイト、サークル活動はわりと真面目で好感の持てる同い年の男子。
赤みがかった長い茶髪を片手でかき揚げながら、
「ま、初めての彼女で、付き合って一ヶ月くらいだっけ?しゃあないか」
とまるで諭すかのような口調で口にした。
けしてその風貌は突出して整っているとも言い難いが、
すらりとした高身長に清潔感のある垢抜けた服装。
そして何より、僕のような根暗の人間をも懐柔できる、
人懐っこい三枚目キャラは、大学生活が始まってまだ一ヶ月も経たないのに、
その人脈は驚くほどに伸びていた。
今も大学のキャンパスを二人並んで歩くと、
色んな種類の人間に話しかけられる。
見るからに体育会系の先輩だったり、
パンダのようなメイクの女の子だったり。
彼はその全てに、笑顔で対応し、
そして相手もまた、彼にさらに好意を持つかのように笑っていた。
「芳樹君はすごいね。友達多いね」
「へ?いや別に、そんなもん普通じゃね?」
「普通じゃないよ」
少なくとも、僕にとっては友達なんて、
いつの時期も片手で数えられるほどしか居なかった。
それもその一つは文ちゃんだし、
それ以外も、大学に進んでからは連絡も取っていない。
「ばっか。すげえっていうのはな、良作ちゃんよ?
ああいう馬鹿みたいにイイ女と付き合ってる男を言うんだよ」
と芳樹君は、遠くの方を指差した。
そこには、誰かを待っているのか、
校門に寄り添うように立つ文ちゃんの姿があった。
桜はもう散ってしまったけれど、
緑色の葉っぱが風に運ばれ彼女の周りを舞い、
ただでさえ見惚れる彼女の立ち姿を、
より一層儚いものへと飾り立てていた。
「相変わらず、あの子は背筋が綺麗だな」
芳樹君は苦笑いを浮かべながらそう言った。
周りには地べたに座っている女の子もいるので、
彼女の凛とした姿勢が余計に際立つ。
ふと彼女の視線がこちらを向いた。
すると澄まし水のようだった静かな彼女の表情に、
ほんのひと差しの笑みがこぼれる。
胸の前で軽く手を振りながら、
こっちに向かって小走りで近寄ってくる。
彼女の足が地面を蹴る度に、
黒く長い髪がまるでシャンプーのCMのように揺れる。
「お疲れ。良作」
「あれ?文ちゃんこれから部活じゃないの?」
大学に入っても当然のように剣道部を選んだ彼女は、
すでに即戦力扱いで早くもレギュラーの座を掴んでいた。
「いや、それが急に休みになってな。
それで良作とお茶でもと思って待ってたんだ」
うっすらと微笑みを浮かべる文ちゃん。
いくら古風な彼女でも、携帯電話くらいは持っているが、
あまり使おうとはしない。
「あらら。もしかして俺ってお邪魔虫?」
「ああ、安藤君か。こんにちは」
「こんにちは桐島さん……って今まで気づいてなかったのね……」
「そういうわけじゃないさ。ところで、もしかして良作と遊びに行くところだったのかな?」
「ん?ああ、まあね。でも別に良いよ。折角の休みに旦那取るのもしのびねえしな」
「あはは。悪いな、そうして貰えると助かる。
これから大会に向けて練習が激しくなるからな。
こうして良作と暢気に遊べるのも、暫くは難しくなりそうなんだ」
「それじゃ仕方ない。お邪魔虫は退散するよ」
「悪いな。安藤君」
「良いってことよ。その代わり今度俺ともデートしてよ」
「一緒に剣道の練習なんてどうだ?」
「うへ。やめとくよ。じゃな、良作」
「あ、うん。ごめんね」
爽やかな笑顔を浮かべ、手を振り去っていく芳樹君を眺める。
「悪かったな。折角友達との約束があったのに」
彼女のその言葉に苦笑いで答えるものの、
優先順位でどちらに軍配が上がるなんて明白な話だ。
芳樹君には悪いけれど、僕は彼女の手をそっと握ると、
「じゃ、行こうか」
と声を掛ける。
文ちゃんは頬をさっと染めると、無言で微かに頷いて、
視線を伏せると手を優しく握り返してきた。
彼女の細く白い指先や、手の平の暖かさが、
心の奥底で、芳樹君にうっすらと感じていた劣等感を薙ぎ払ってくれる。
それから半年後。
やや肌寒さを感じるようになった十月も半ば。
もうすっかり陽が落ちてしまったという時間に、
珍しく僕のアパートに来客が訪れた。
とはいえ彼女の来訪は予定通りで、その事自体に驚きは無い。
「や、やぁ。こんばんは」
玄関先でそう微笑む文ちゃんの頬はやや引きつっている。
「こ、こんばんは」
僕の頬も同様に、まるで河豚の毒に冒されたように痺れている。
「に、荷物、ここ置くな?」
「あ、ああ……う、うんどうぞ」
お互い声を震わせたまま、ぎこちないやり取りを経て、
そして食卓を挟み、お茶を入れる。
「外、寒かった?」
「ん?あ、ああ。そうだな。夜は流石に冷えるようになったな」
「もうすっかり暗いしね、やっぱり迎えに行くべきだったかな」
「いや心配は無用だ。これもあるしな」
彼女は先ほど置いた荷物に視線をやる。
そこには彼女の愛用する竹刀。
「うーん。でもやっぱり次からは、夜来る時は迎えにいくよ」
文ちゃんの腕は確かだろうが、やはりそれでも心配だ。
彼女は僕のそんな気持ちを察したのか、
「そうか……そうだな。ありがとう」
とはにかんだ。
何となく気まずい静寂が訪れる。
「あ、あのさ……」
男として、それを打破するため一歩踏み込んだ。
「ん?」
「大丈夫だった?その、ご家族とか」
「ああ、だから言っただろう?両親とも海外旅行だと」
「そ、そっか。うん。そうだったね」
「あ、ああ」
そう。文ちゃんの家族が海外へ旅行に行った。
彼女は家族の誘いを断り、
その日、僕の家に泊まりに来ることを決意した。
初めてキスした日の感動は今でも鮮明に憶えているが、
胃液が逆流しそうな緊張感は、あの時とは比較にならない。
今夜、僕は、文ちゃんとセックスをする。
勿論そんな約束を明確にしたわけじゃない。
しかし、泊まりに来る、と彼女から誘ってきたということは、
きっとそういうことで、僕は男として覚悟を決めなければならない。
とはいえまだ何もしていない。
なのに喉はからからで、手も震えている。
どれだけお茶を喉に通しても乾きは取れない。
向こうも同じように思っているのだろうか。
僕たちの間に、重苦しい空気が流れ続ける。
お互い視線を伏せたまま、時計の針が進んでいく音だけが部屋を支配する。
こんな時、いったいどんな会話をするべきなんだろう。
今日の昼間、芳樹君にアドバイスをしてもらったのは、
ベッドの中での『実践編』だけで、
それまでの空気作りまでは聞いていなかった。
『合コンのお持ち帰りじゃあるまいし、
両想いで付き合ってんだから押し倒しちまえばいいんだよ』
そんな言葉を思い出す。
僕は流石にそれは違うんじゃないかと思い、
でもどうすればこの静寂から開放されるかを考えた。
考えた結果。
自分の想いを、そのまま伝えることにした。
「文ちゃん」
僕の声に、彼女は顔を上げる。
どこか、まるで叱られた子犬のような表情を浮かべる。
「……ん?」
「好きだ」
彼女はまた顔を伏せると、
「……それ、卑怯」 と呟いた。
よく見ると、耳が真っ赤だ。
告白の時も思ったが、思いの丈を正直に言葉に発すると、
不思議と覚悟を決めれる。
僕は腰を上げて、そして彼女の隣に座った。
彼女はぴくりとも動かない。
手を取り、握る。
握り返してくる。
暖かい。
残った片方の手で、彼女の顎を掴む。
まるで晴天の日の湖のように、潤んだ瞳と視線が合う。
しかしそれは、すぐに瞼によって閉じられた。
重なる唇。
そのまま体重を掛ける。
なんの抵抗も無い。
彼女の長く美しい髪が、僕の部屋の床に広がる。
「良作……ベッドに」
普段の様子からは想像も出来ないほどの、
弱弱しく、そしてか細い彼女の声。
背中に腕を回し、上半身を起こすのを補助する。
その場に二人で立ち上がり、
そして数メートル先のベッドに向かう。
たかが数秒なのに、まるで永遠のように感じられた。
文ちゃんをベッドに腰掛させると、
一度キスをして、そのまま押し倒した。
「あの、電気……」
僕は無言でリモコンを取り、彼女の要求どおり電気を消した。
もう心臓は爆発寸前。
もしかしたら本当はもう爆発していて、
これは臨死体験の幻なんじゃないかってくらい心拍数が上昇を続ける。
キスをしながら、彼女の胸に手を延ばす。
一瞬、その手を遮る彼女の両手。
しかしすぐに、彼女自身によって、妨害していた手がどけられる。
僕は彼女の覚悟と羞恥を感じながら、
その乳房をカーディガンの上から触る。
初めて触れる、彼女の乳房。
どこまでも沈んでいってしまうんじゃないかと危惧してしまう程に、
それは柔らかく、そして深く僕の手を受け入れていく。
こんなに柔らかいものがあるなんて。
ただ柔らかいだけじゃなく、まるでゴムマリのように僕の手を弾き返す。
両手で彼女の乳房を愛撫する。
まるで子供のように。
それはいつまでも触っていたいと思わせる甘い感覚。
彼女は恥ずかしそうに顔を横に向けて目を閉じている。
しかし彼女の整った鼻からは、微かに荒い呼吸音が聞こえ出している。
僕は彼女のカーディガンのボタンを、
窓から零れる月明かりを頼りに一つ一つゆっくりと外す。
少しづつ目が暗闇に慣れてきた。
上着の下のTシャツを捲り上げる。
初めて見る彼女の上半身の素肌は、
現実感が無いほどに白く透き通っており、
そして儚いほどに細かった。
非力な僕でも、力いっぱい抱きしめたら折れてしまうのでは?
そんな危惧すら抱かせるほど、
彼女の肢体は細く、そして美しかった。
儚く、脆いものほど美しく見えるのは何故だろう。
僕が日本人だからだろうか。
彼女の肌と同じくらい白いブラが見える。
それはその下にある、彼女の乳房によって持ち上げられ、
美しく形を保っていた。
ブラを押し上げてどかそうとするも上手くいかない。
すると文ちゃんは無言で背中を反らし、
そして自らホックを外してくれた。
僕がブラを彼女の胸元からどかすと、彼女は腕で胸元を隠した。
無言で、その腕に手をやると、一瞬の抵抗があった後、
腕はどけられ、そして彼女の胸元が露になった。
綺麗だ、と不意に口から言葉が漏れた。
文ちゃんはそれを聞いて、「ん……」と恥ずかしそうに呻く。
月明かりに照らされた、一切の何も纏っていない彼女の上半身は、
目が眩むほどに美しかった。
感動で泣きそうになってしまいそうにすらなる。
儚いほどに細くくびれた腰とは対を為すように、
存在感のある肉丘が二つ並んでいた。
なんとか丁度手の平に収まるか、というほどのそれは、
仰向けに寝ていても、お椀のような盛り上がりは崩れることもなく、
そしてそれぞれの頂上には、その豊かな乳房に似合わない、
小さく、そして薄い桃色の突起が乗っている。
「あまり、見ないでくれ」
恥ずかしそうに文ちゃんがそう言った。
いつもなら真っ直ぐにじっと目を覗き込んで話してくる彼女は、
潤んだ瞳を横に反らし、弱弱しくそう呟く姿はどこまでも可憐だった。
僕は何も纏っていない乳房に手を伸ばす。
服の上から触るのとは比較にならないほどに柔らかい。
うっすらと汗ばんだ彼女の肌は、僕の手の平に餅のように食いついてくる。
どれだけ触っても崩れることなく、
ぷるぷると震えながら元の形に戻っていくその様子は、
ただの物理法則に従っているだけなのに、僕の鼻息を荒くした。
不意に僕の指が彼女の乳首に触れる。
「あっ」
幼いことからずっと一緒なのに、
一度も聞いたことが無い声をあげて彼女は身を捩った。
凛とした、どちらかといえばハスキーないつもの声とは違い、
それは聞いただけで頭が溶けるかのような、
甘く切ない声だった。
目が合う。
まるで悪戯がばれた子供のような、見開いた彼女の瞳。
それはすぐに僕の視線から逃げるように横に向けられ、
「や、やだ……」
とまるでか弱い女の子(?)のような声をあげた。
先ほどから時折見せる彼女の恥らう姿は、
僕の男としての本能を強烈に刺激する。
僕は溜まらず片手を彼女の下着の中に滑り込ませる。
薄く柔らかい陰毛の感触に続き、
油でも触ったのかと勘違いしてしまいそうなほど、
ぬるっとした感覚。
女性の身体とは、こうまで柔らかいものなのか。
感嘆を通りこし、軽い恐怖まで感じてしまう。
下着を脱がし、彼女は完全に生まれたままの姿に戻る。
月明かりに照らされた彼女の裸体は、
まさに芸術品で、それに欲情することは罪悪感すら抱くほどだったが、
それは同時に強烈な背徳感を僕に植えつけた。
すでに僕の頭はくらくらと揺れていた。
どこか半分夢見心地。
なんとか正気を保ちつつ、彼女の両足を開く。
そこでふと昼間の芳樹君の助言を思い出す。
『ゴムは男のエチケットだぜ?」
僕は慌ててベッドから立ち上がり、
そして机の引き出しから薄緑色の、
タバコほどの箱を取り出す。
僕がその中身をいそいそと着けていると、
(情けない話だが、事前に何度も着用の練習を重ねていた)
その様子をベッドに横たわったままの文ちゃんが、
なんとも言えない表情で眺めていることに気付く。
視線が合い、慌てて目を逸らしあう僕達。
もう一度ベッドの上へ。
彼女の膣口に、僕の陰茎をあてがう。
その際に、すっかり暗闇に慣れた僕の目は、
殆ど陰毛の無い、ピンク色の彼女の膣を捉えた。
「い、挿入れるよ?」
彼女は、眉間に皺を寄せながら僕を見つめ、そして無言で小さく頷いた。
すっと腰を前に出すと、文ちゃんの腰が浮いた。
「い、痛い?」
彼女はぷるぷると首を横に振った。
しかし唇を噛み締めたその表情は、
どことなく不安気だ。
僕は一呼吸置いて、再びゆっくりと腰を前に突き出す。
締め付けられる感触を味わいながら、
亀頭が完全に彼女の中に埋もれた。
その際、何か破れる音がした気がした。
見下ろしてみると、鮮血がシートを染めていっている。
大した量ではないが、それは僕に不思議な感情を与えた。
大雑把にそれを表現するのならば、感動、だろうか。
文ちゃんはやはり唇を噛み締めたまま、僕をずっと見つめている。
上半身を倒し、文ちゃんと抱き合うような体勢に。
唇を重ねる。
文ちゃんは少し安心を取り戻したように微笑み、
「好きだ」と囁いた。
その瞳からは、一筋の涙が流れた。
彼女の涙を見たのは、いつ振りだろうか。
大昔に、一度、見たことが有る気がする。
彼女の体温を身体全体で味わいながら、
美しい、と心の奥から思った。
僕はそんな彼女と、もっと重なりたくて、もっと奥まで交わりたくて、
残りの陰茎を、あくまでゆっくりと彼女の中に押し込んだ。
「んっ……く」
彼女は苦しそうに呻いたが、僕の情欲はもう止まらなかった。
最後まで、僕を彼女の中に埋め込んだ。
早く、一つになりたかった。
僕達は見つめあい、言葉にすることもなく、
お互いそう想いあった。
彼女の中は、熱く、そしてきつく僕を締め付けていた。
初めてのセックスは、それほど気持ち良くない、
という話をよく聞くが、とんでもない。
彼女の柔らかく豊満な乳房の感触を自分の胸で感じながら、
陰茎を膣の奥まで重ねるという行為は、
一瞬で僕を射精までいざなった。
そのまま体重を彼女に預ける。
本当は早く抜かなきゃいけないんだろうけど、
文ちゃんも両腕を僕の背中に回し、
そしてきつく抱き寄せてきた。
「終わり……か?」
「うん。ごめん」
「どうして、謝るんだ?」
僕はくすっと笑うと、
「もう終わり?って聞かれると、なんだか情けなく感じる」
「そういうものか?早く終わってくれて、むしろ良かったが」
「あ、ごめん。痛い?」
そう言い、彼女の中から外の世界に戻ろうとすると、
「いや、いい。もう少し、このままで、いたい」と文ちゃん。
僕も同意見で、黙ったまま、重なり合い続けた。
彼女が呼吸をする度に、彼女の胸の穏やかに上下して、
それに伴い柔らかい感触が、密着した僕の胸を甘く刺激する。
「不思議、だな」
その状態のまま、彼女がそう呟いた。
「何が?」
「今だからこそ、正直に言おうか?」
「うん?」
「良作と付き合ったのはな、本当はな、ただ良作との関係を壊したくなかったからだ」
「うん」
僕は彼女の暖かさと、柔らかさを感じながら、その言葉に耳を傾けた。
「でも今は、はっきりと言える」
彼女は、下から僕の頬を両手でそっと包み、
「好きだ。愛してる」と囁いた。
僕達は一度唇を交わし、そしてどちらからともなく、
再度愛の言葉を交わし合った。
まだ幼い僕達のその声はか細く、
そして風が吹けば消えてしまいそうなほどに非現実的なものだったけれど、
でもそれは、僕たち二人が未来を共にするであろうことを確信しあうには、
充分すぎるほどの想いが込められていた。
これ以上の幸せは、きっと狂った世界でしか味わえないだろうと、
そんな恐怖感にも似た多幸感を味わいながら、
僕達は重なったまま、初めてのセックスの余韻に浸りあった。
翌日。
講義が始める前のがやがやとした喧騒の中、
僕は頬杖をつきながら昨晩の甘い思い出を反芻していた。
それはともすれば砂糖をふんだんに使ったパイのように、
胸焼けを誘うほどに甘味を帯びたものだったが、
それくらいの代償は覚悟の上と、僕は記憶の中の、
文ちゃんの匂いや柔らかさを頭に思い浮かべる。
「よ。良作。ここ良いか?」
聞き慣れた声にふと顔を上げると、そこには芳樹君の姿があった。
「ああうん。勿論」
「桐島さんは?いつもこの講義は二人で並んで座って受けてなかったっけ?」
そう言いながら腰を下ろす芳樹君に、
「ちょっと遅れるみたい」と嘘をついた。
いやあながち嘘でもない。
遅れるのは事実なのだ。
ただそれをあたかも彼女本人から聞いたように答えたのが、
偽りといえば偽り。
昨晩、あれから僕たちは裸で抱き合い、
お互いの肌の感触を確かめ合うようにじゃれあった。
勿論僕は男だし、そんな事をしていれば再び勃起する。
それを文ちゃんは珍しそうにまじまじと観察し、
そして僕の承諾を取ると、恐る恐る手で優しく弄りはじめた。
それはまるで学校の帰り道に、野良猫の頭を撫でる小学生のようだった。
そんなくすぐったい刺激を受けながら、
僕は正直もう一度彼女の中に入りたいと思ったのだが、
まだ破瓜の痛みも引かないであろう頃からそんなにがっつくのは、
あまりに思慮が浅いと思い言葉に出せなかった。
僕がそのまま彼女の手の中で果てると、
彼女はやはり好奇心と恥じらいの狭間に揺れる眼差しで、
射精の様子を見届け、そして指についた精液をじっくりと観察していた。
そんな事が、それからも一晩中続いた。
ようやく一つになれた興奮からか、僕たちは何かを語るでもなく、
ただ裸のまま、ベッドのうえでお互いの身体を突付き合ったりしていたのだ。
くすくすと笑いながら、お互いの脇腹とか、太ももとか、乳首とか、性器とかを、
まるで子供のように触りあっていた。
それは性的なものではなく、あくまでスキンシップの延長線上のものだったが、
やはり僕の陰茎は何度も勃起して、
その度に文ちゃんは興味深げに撫でたり扱いたりして僕を射精に導いた。
流石にフェラチオまではしなかったけど。
(というかそういう行為を知っているのだろうか?
文ちゃんの清楚な口が男性器を咥えるところを想像する。
それはあまりにも背徳な興奮を刺激しすぎて、
僕の下半身には瞬時に血液が集中した)
そんな事が何度が続くと、文ちゃんは無邪気な目で
「もしかして、もう一度したいのか?」と尋ねてきた。
「でも痛くないの?」と尋ね返すと、
「ありがとう」と文ちゃんから唇を重ねてくると、
そして耳元で、「好きな人に求められることが、苦痛なものか」と囁いた。
その後結局2回戦。
とはいえ、最初と同様で、挿入と同時に果ててしまったので、
彼女への負担は軽くすんだものの、射精後ということも相まって、
何となく情けない気分に陥ってしまった。
「ごめん」という僕の謝罪に彼女はきょとんとした表情を浮かべ、
「だから、何で謝るんだ?」と不思議そうに笑った。
再度男として不甲斐ないと謝罪の意味を説明すると、
彼女曰く、「これは愛を確かめ合う行為なんだから、想いやりがあればいい。
そして良作は、私の身を案じてくれていたんだから、それ以上の幸福はないよ」
と微笑んでくれた。
そんなこんなで、いつの間にか夜空は薄っすらと明るみを帯びていた。
隣ですやすやと寝息を立てる文ちゃんはあまりに可憐だったので、
寝ずに鑑賞を続けて、やがて朝焼けを迎えた。
今も文ちゃんは僕の部屋で寝ている。
当然書置きは残してきた。
「なんかクマ出来てね?徹夜でもしたんか?」
芳樹君が僕の顔を覗きこみながら、そう口にした。
「え?ああ、うん。まあね」
「ふうん。珍しいな。良作が夜遊びね……ん?あっ!」
芳樹君は手を叩くと、
「もしかして、しちゃったとか?」と人なつっこい笑顔を咲かした。
僕はその大きな声に周りを見渡すが、
他の学生は自分たちのお喋りに夢中のようだ。
彼は「あ、わり」と僕と同じように周りに視線を泳がすと、
「で、どうなんだよ?」と小声で尋ねてきた。
「え?あ、まぁ、うん、あはは」とお茶を濁すことで肯定すると、
芳樹君は僕の背中をばんばんと叩きながら、
「そっかそっかー。良かったな。で、どうだった?」
「どうだったって……」僕の顔は瞬時に赤くなる。
「そうかそうか。くー。羨ましいな。男だったら一度くらいは、
あんな女の相手してみたいよなー。あーくそー」
笑顔のまま身もだえする芳樹君を見ても、
僕は彼に優越感など抱けるはずもなかったが、
それでも以前のように、自ら自身を卑下することもなかった。
昨晩の行為を経て、少しは大人になれたのかもしれない。
そろそろ講義も始まろうかという時間。
背後から慌しい足音が聞こえてくる。
それは次第に僕たちの席に近づき、そしてやがて止まった。
荒い息遣いに顔を上げると、
「酷いじゃないか良作」と苦笑いの文ちゃん。
僕も同様の笑みを浮かべる。
「お、桐島さん。おはよ。ごめん旦那の隣取っちゃったよ」
「ああ、安藤君。おはよう。申し訳ないが、その席譲ってもらってもいいかな?」
「いや、いいよ。僕がそっちに行くから」
丁度僕が二人に挟まれる形で席につく。
文ちゃんは腰を下ろすと、僕を責めるような視線で一度睨み、
しかしすぐに表情を和らげ、机の下でそっと僕の指を握った。
もう片方の隣では、そんな僕達の挙動を知ってか知らずか、
芳樹君がにやにやと僕を眺めていた。
講義が終わると、芳樹君は大勢の友人知人に囲まれて消えていった。
それを見送りながら、
「芳樹君は人気者だなぁ」と感嘆するように一人ごちると、
「なに、人望も確かに大事だが、必ずしも友人の数が人の本質を決めるわけじゃないさ。
人生は弔問客獲得レースではないからな。
良作の魅力は、私が誰よりも知っている。それじゃ不満か?」
と薄い微笑みを浮かべて文ちゃんはそう言った。
勿論素直に嬉しいのだが、やはりどことなく、
自分に不足している能力に不満を感じる。
しかし以前と違うのは、それは劣等感からくる卑屈ではなく、
自分を高めたいという向上心。
文ちゃんの彼氏に相応しい男になりたい、というものではなく、
彼女と共に高めあって生きていきたい、という意志。
他人に感謝こそすれど、自身を卑下していくのはやめようと、自然に思えるようになった。
僕は彼女の手を取り、そしてキャンパスの中を堂々と歩き出す。
誰もが、不釣合いなカップルだと、呆れたように口端を吊り上げるが、
そんな事はもう気にもならない。
文ちゃんは、僕の彼女だと、胸を張って言える。
それにしても、とは思う。
「やっぱりあそこまで人気があるのは羨ましいを通り越して尊敬するよ」
「ん?安藤君のことか?」
「うん」
「まぁ人懐っこいからな。ただ……」
「ただ?」
「いや、なんでもない」
「何?言ってよ」
「いや失言だった。気にしないでくれ」
「駄目だって」
珍しく狼狽する彼女の様子を楽しみながら問い詰める。
「ん、なんだ、私は、あまり好ましくない」
「芳樹君を?」
僕は少し驚いて文ちゃんの顔を覗きこむ。
彼がこの世を救う聖人君子とも思えないが、
わざわざ嫌いになるような人がいるとも思えなかった。
「良作の友人関係に口を挟みたくなかったんだ。
気分を害したのなら謝るよ」
「いや別に……」
対人関係に関して好みというものは如実に出るものだ。
それは仕方がない。
全てが予定調和と固定概念で決まるのならば、
そもそも文ちゃんのような女性は僕と付き合ってはいない。
だから僕は好奇心で、その理由を彼女に尋ねた。
「どうして?」
文ちゃんは眉間に皺を寄せるよ、
「何故だろうな。ああいった軽薄な雰囲気は元々好まない」
「ん〜、軽薄っていえばそうかもだけど、でもちゃんと話してみると中身がある人だよ?」
「そうだな。それはわかっているんだが」
文ちゃんにしては、どうも歯切れが悪い。
色々思うところがあるのだろうと、それ以上の追求はやめた。
僕は特に気に留めることもせず、次の講義の話題を振った。
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桐島文は、心中に思う。
(安藤芳樹が良作に向ける眼差しは、
時折明らかに彼を見下しているような空気を感じる)
それを全く感じていいない良作に、それを指摘しても口論になるだけだ、
と吐露したい気持ちを内に秘めるに留まった。
最初は被害妄想かと思っていたその感覚は、
恋人の友人という付き合いを経るにつれ、
明らかな確信へと変わっていった。
それは良作を心から愛する彼女に対しての最大の侮辱であり、
内心彼への嫌悪感を日々募らせるばかりであったが、
その当の本人である良作は、むしろ彼への羨望を増すばかり。
自身にはない明朗かつ対外的な性格に惹かれているのだろう。
それを彼女は歯痒い気持ちで日々眺めていた。
彼女は千の言葉を持っても語りつくせないほどに、
恋人の魅力を知っているのに、
その当人がよりにもよって自分が嫌悪感を抱く人間に惹かれていく姿。
そして良作の美点を評価しない世間への不公平感は、
安藤芳樹に対する好評価に対して、
八つ当たりのように反発してしまう。
とはいえ、やはり何の根拠もない敵対心を、
恋人の友人に向けるのはしのびないと、
彼女はあくまで友好的に接しようとは努める。
しかしやはり、安藤芳樹から感じる、
どこか蛇のようなぬるりとした狡猾さは、
剣道で培った彼女の直感を時折強張らせていた。
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Comments
いや、分かりやすいのでいいのですが・・
作者のblogで本出すーみたいなこと言っていますが
それまでにはPN決まるのかな?