『ワイヤー・イン・ザ・ブラッド』アンドリュー・グリーヴ “Wire In The Blood” Andrew Grieve |
レンタルDVDで鑑賞。
まず、素っ裸の男が磔刑に処せられているような、血みどろホラー系のジャケがイカしてます。
加えて内容はサイコ・サスペンスもので、描かれる事件は「残酷な拷問を受けて殺された、全裸死体が次々と発見された。しかも犠牲者はいずれも30歳前後の壮健な男性」とくれば、こりゃあ私としては見るっきゃないってカンジでしょ? 実際、ソッチ系で趣味を同じくするジープロのろん君からも「見ました〜?」って聞かれたし(笑)。
とはいえ、実はこれは劇場用映画ではなくイギリス製のTVシリーズなので、当然のごとく、それほど過激な描写はございません。イカしたジャケも「イメージ写真」の類らしく、本編にそういうシーンはない。ホラー味・スプラッタ味は皆無で、そういった描写そのものは、このテの映画の嚆矢である『羊たちの沈黙』なんかと比べてもずっと大人しいんで、心臓の弱い方でも安心してご覧いただけます。
お話しの大筋は「心理学専門の男性教授が、女性警察官に協力して、連続猟奇殺人の犯人をプロファイリングしていく」という「どっかで聞いたような話」ではありますが、それなりに途中で飽きさせることもなく無難に引っ張っていきます。TVシリーズ的にキャラを立てるためか、何かとゴチャゴチャと枝葉が多いのは、まあ楽しくもあり、時に鬱陶しくもあり。
では、お目当ての拷問マニア向けの鑑賞ポイントをば。
前述したように比較的大人しめのTVモノなんで、拷問マニアが一番「見たい!」と思うようなそのものズバリのシーンは、ぶっちゃけたところありません。ただ、それでも要所要所で、それなりに「好き者のツボ」も押さえてくれます。
一番グッときたのは、「犯人が警察にビデオを送りつけ、それには誘拐された警察官(いちおうジム通いもしていて体格も良く、笑顔もカワイイ人好きのする好青年)が、カメラに向かって泣きながら自己紹介した後に惨殺される光景が映っていた」というヤツ。この無惨味・残酷味は、なかなか良ろしい。
犯人が、「座部のない椅子の下部に、金属の円錐に有刺鉄線を巻き付けたものを取り付け、それで肛門を串刺しにする」ような拷問器具を手作りしているディテールとか、「気を失った男の服をハサミで切り裂き、全裸にした後、手足に拷問用の枷などを順々に装着していく」といったプロセスの描写があったりするのも良い。これ、拷問マニア的にはけっこう重要。自分のマンガでもそうなんですけど、こういった「拷問の準備段階の描写」が、一コマでもいいからあるのとないのとでは印象が大違い。
クライマックスの「全裸男性への古典的な吊り責め」シーンが長めなのも、ポイント高し。加えて受刑者の胸のおケケがフッサフサなので、個人的なポイントはさらに倍。
ってなわけで、直截的な描写はほとんどないにも関わらず、それでも拷問マニアを自認していらっしゃる方でしたら、意外に楽しめると思いますよ。具体的に「見せる」シーンは少なくても、セリフでどういう拷問をされたか(謎の器具で無数の火傷を負わされていたとか、関節が外れていたとか、性器が切り取られていたとか)説明はしてくれるので、あとは脳内で補完しましょう。過度な期待は禁物ですが、レンタルで借りるぶんには、充分にオススメです。
ついでに、ゲイ的にマジメに気になった部分についても書いておきます。
概してサイコ・サスペンスものって、とかくゲイやら性同一性障害やらが絡んでくるものが多い。で、自分たち(の仲間)が「ヘンタイの殺人鬼」みたいに描かれることに、いい加減に辟易しているゲイたちが、抗議したり批判することも珍しくない。そのこと自体に関しては、複雑だし長くなるのでここでは触れませんが、とりあえず、この作品もその例外ではない。やはりセクシュアリティの話が幾つか絡んでくる。
ただ、ちょっと興味深かったのは、そういった問題に関して、制作者側もおそらく注意深く取り扱っているらしき節が伺えることです。
例えばセリフに出てくる「同性愛者」を指す言葉が、ケース・バイ・ケースで「ゲイ」「ホモセクシュアル」「クィア」などと使い分けられている。で、「クィアの殺人事件」と言った若い刑事に対して、主人公の学者が「差別的だ」とたしなめたり、同じ主人公のセリフで「トランスジェンダーだ、トランスベスタイトじゃない。これは重要だ」なんてのがあったりする。
しかし残念ながらそういったニュアンスは、日本語字幕では全くといっていいほど拾われていない。「ゲイ」も「ホモセクシュアル」も「クィア」も、字幕では全て「ゲイ」一つに統一されてしまい、「トランスジェンダー云々」というセリフも、字幕では「トランスベスタイトじゃない、これは重要だ」に該当する部分がスッポリ抜け落ちている。
後者に関しては、まあ字幕の限界もあって仕方ないことだとも思いますが(けっこう早口のシーンでしたし)、前者に関しては、ちょっと考えるべき余地が残されているような気がします。
まあ、下手に「オカマ」とかいう言葉を使うと、それはそれでまた、その言葉を使用すること自体が差別的であるといった批判が出てくる可能性があります。とりあえず全て「ゲイ」にしておけば、差別云々といった問題は起こりにくいので、無難な選択ではあるでしょう。これもまた一種の配慮が働いた結果であるともいえます。
ただ、この場合の「蔑称としての『クィア』を使った人間に対して、『差別的だ』と批判が出る」シーンで、「クィア」の訳語を「ゲイ」にしてしまうと、それを受ける「差別的だ」という反応の意味が通らなくなってしまう。やはりここは訳語も「オカマ」か何かにして欲しかった。言葉が使われ方次第でネガティブにもポジティブにもなるという点でも、「クィア」と「オカマ」は良く似ていますしね。
言葉の差別的な用法の一例をきっちり描けば、少なくともそれによって、観客が言葉と差別の関係性を学んだり、差別的だとされる言葉の使用法について考える手助けになる。しかし、いわゆる「放送禁止用語」のように、差別的だとされる用語の使用自体を完全に禁止してしまうと、そういった学習の機会は永遠に訪れない。それどころか、それはまるでこの世界にそういった差別が存在していないように見せかけているだけであり、ある意味では表面だけを取り繕った一種の欺瞞ともいえます。同じ「デリケートな素材を取り扱うに際しての配慮」として考えると、この二つのもたらす結果の違いはかなり残念です。
もちろん「ゲイにとって侮蔑的な言葉」を「ゲイを指す一般名詞」としては「使わない」という配慮は、それは充分に歓迎するところではあります。しかし「ゲイにとって侮蔑的な言葉」を「絶対に使わない」もしくは「使えない」という配慮(もどき)によって、ゲイが侮蔑されているシーンを表現することすらもできなくなってしまっては、これはやはり本末転倒だと言わざるをえないでしょう。