日本が韓国を統治していた時代に日本で青少年期を過ごした元ポスコ名誉会長・朴泰俊(パク・テジュン)=1927-2011=は「一生忘れられない」思い出を本に記録した。水泳大会で1位になったが、朝鮮人だという理由で非難されて2位に下げられたことや、米軍の爆撃があった日、防空壕(ごう)で起きたことなどだ。「防空壕は秩序がきちんとしている。この日はお年寄りたち、特におばあさんたちが立ち上がった。『若い人は奥に入りなさい。危険な所は私たちが守る。どうして本を持って来なかったんだい? 若者は本を開いて勉強しなさい』。防空壕の入り口にテントが張られ、若者が集まった一番奥にはろうそく2本がともった」
朴泰俊は1位の座を奪われたとき「はらわたが煮えくり返ったが、我慢して自分自身を落ち着かせた」と書いている。防空壕でおばあさんに叱られたときは「植民地の大学生の胸に染み入り、故国に対する責任感を呼び覚ました」と述懐した。日本が与えた怒りには耐える一方で感動は受け止め、祖国のための原動力にしたのだ。
朴泰俊が後に浦項総合製鉄(現・ポスコ)を興すに当たり、「恩人」と呼んだ日本人が数人いる。その一人は当代日本で最高の思想家と言われた陽明学者・安岡正篤だ。総合製鉄所プロジェクトが米国・ドイツ・英国・イタリアに断られたとき、韓国は日本に助けを求めるしかなかった。全責任を負って東京に向かった朴泰俊が真っ先に会ったのが安岡だ。日本政財界の「見えざる手」とされる大物だったからだ。
安岡は「過去を反省して、韓国を助けることが日本の国益」という韓国観を持っていた。安岡はまず、技術協力のカギを握っていた稲山嘉寛・日本鉄鋼連盟会長の所に朴泰俊を行かせた。そして岸信介元首相ら政界の大物とも次々と会えるようあっせんした。朴泰俊の情熱に安岡の誠意が助けとなり、あいまいだった日本政府や日本企業の態度は熱い支持に変わった。ほかの先進国同様、日本が韓国を無視していたら今のポスコはなかっただろう。
これとよく似た話をサムスン・グループ初代会長の李秉喆(イ・ビョンチョル)=1910-87=も残している。留学のために乗った連絡船で1等船室の近くに行ったときだった。日本人刑事が行く手を遮り「朝鮮人が1等船室に行くカネがあるものか。生意気に」とひどいことを言った。李秉喆は「後に事業に打ち込んだのは、民族の怒りを胸に深く刻み込んだあの小さな出来事があったからだ」と自伝に書いた。
李秉喆は廃虚となった終戦直後、東京の古びた理髪店での出来事も書き残している。「この仕事はいつからしているのか」と聞いたところ、店主は「私が3代目なので、家業としてはかれこれ60年くらいでしょうか。うちの子も継いでくれたらと思うのですが…」と答えたという。李秉喆は「『日本は滅びない。絶対に再起するだろう』とそのとき思った」と書いた。