【コラム】ポスコ初代会長、朴泰俊が見た日本

ポスコが危機に陥ったとき、彼は日本に向かった
過去を忘れない日本人は惜しみなく韓国を助けた
その「大物の時代」を読むと、今の韓日関係はあまりにも貧弱だ

 1983年8月、李秉喆が後輩・朴泰俊を日本の保養地に呼んだ。「ブーメラン効果」を盾に日本の鉄鋼業界が光陽製鉄所建設への協力を拒んでいたときだった。その保養地には当時の日本政財界の大物・瀬島龍三や、その十数年前に浦項製鉄所建設を支援した日本鉄鋼業界の父・稲山嘉寛が一緒にいた。彼らから「協力する」との約束を取り付けた李秉喆は「ほかの言葉はいらない。『感謝している』とだけ言いなさい」と朴泰俊に言った。朴泰俊は「胸のつかえが取れたようなスッとした気持ちだった」と述懐している。

 李秉喆もこうした壁を乗り越えていた。その5カ月前に発表した歴史的なサムスンの半導体投資は、中核技術を提供した日本の半導体メーカー・シャープの果たした役割が大きかった。日本が海外に半導体技術を提供した初のケースだったのだ。李秉喆は「シャープの格別な好意だった」「シャープを国賊だと酷評する企業もあった」と述べている。韓日の架け橋となった瀬島龍三は回想録に「韓国は統一される。日本は(過去を)反省し、韓国の感情を受け止め、自由と民主主義を柱とする統一韓国が誕生できるよう協力すべきだ」と回顧録に記した。

 朴泰俊は日本で肉体労働に従事しながら子どもを育てた父の最期を看取れなかった。日本の首相候補だった有力政治家との夕食の約束を反故(ほご)にできなかったからだ。マイナス成長にあえいでいた1980年、韓国にとって日本の支援はそれほど切実なものだった。その日、朴泰俊が国益のため約束を反故にしなかった日本の政治家は安倍晋太郎、つまり現首相・安倍晋三の父だ。安倍晋太郎は生涯、韓国との友好に力を注いだ。翌日、朴泰俊は「泣くな。一生懸命に生きた」という父の遺言を知った。

 「大物たち」の時代だった。もちろん、当時も確執はあった。しかし、大きな流れは大物たちが胸に抱く「大義」を基準に動いた。豊かさを手に入れ、切実さがなくなったせいだろうか。国が老いて包容力がなくなったせいだろうか。あの時代の記録を読むと、今の韓日関係は小さく薄っぺら、幼稚で拙劣だ。(文中敬称略)

〈朴泰俊ポスコ初代会長のエピソードは小説家イ・デファン氏『世界最高の鉄鋼人・朴泰俊』(2005年改訂第12刷)によるものです。このコラムに出てくる朴泰俊前会長のエピソードはほとんどこの本から引用し、ソン・ボク延世大学名誉教授ほかの『泰俊イズム』を参照しました。李秉喆サムスン・グループ初代会長のエピソードは自伝『湖巌自伝』(2014年第2刷)」を引用しました。瀬島龍三・元伊藤忠商事会長の回想録は『幾山河:瀬島龍三回想録』(1995年第2刷)から抜粋・整理したものです。〉

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)国際部長
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