日常生活において私はあまり口に出して愚痴を言わないのだが、私の中には少しずつ溜まっていく澱がある。
ある程度の量になると溢れて、あっぷあっぷと溺れそうになるため、迷惑だろうとわかりつつ吐き出させてくれる相手に言葉をつらつらと並べたメールを送る。返事は要らない。ただ「吐き出した」というだけで私の心はだいぶ軽くなるからだ。こんな相手をしてくれる友人には感謝している。
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4日前。
「私よりも長生きして下さい。以上!」ただそれだけを書いたメールを友人へ送った。
「えっ?死ぬの?」ただそれだけの文が返ってきた。
それを見て私はふふっと笑い「このメールを今日書いている意味がわかってるくせに」と心の中で呟いた。そして「死なないけど、心はだいぶ見失ってるかもー」の言葉とともにそれに続く一言だけの愚痴を友人へ返信した。
返事はこなかった。と言うより先ほど書いたように、私は愚痴の後のメールをあまり必要としていない。むしろ「愚痴らせてくれてありがとう」とか思っちゃっているのでそれ以上を望んでいない。
静かに消えていく。それだけで良いのだ。
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そんなことも忘れていた昨日。
カフェレストランで昼食をとったのだが、私達の右隣は子連れではあったものの、長い友人同士と思われる女性が楽しそうに話しをしていて、左隣はこれまた学生時代からの友人と思われる女性3人が弾んだ様子の会話をしていた。
そんな光景を眺めて「近くに昔からの友達がいたらなぁ」と私は少しの寂しさを感じてしまった。ものすごく辛いとかそんなことではないけれど、あんな風に少しずつ溜まったモノを消化出来ることが羨ましいと思ったのだ。こどもを通して知り合った方はどうしてもこどもの話になってしまうので、そうではなくもっと下らない、どうでも良い話をして笑いたいのだ。
そんな思いを抱き、ほんのちょっぴり、ワントーンだけ暗くなった色合いの中に包まれていた時に友人からメールがきた。
文章はない。画像のみだった。送られてきた画像に引っかかる部分があったものの、まさかね…と思い、そっとメールを閉じた。
10分後。再度、友人からメールがきた。同じように文章はなく画像だけだった。だが、この画像は大きく私の心を動かした。ああ、そういうことかと確信出来たのだ。
もう1度メールがきた。3枚目の画像。それとともに添えられた「元気出た?」の言葉に大きく頷きながらちょっとだけ泣いた。
近くにいなくても、そっと見守ってくれるあしながおじさんみたいだと思った。
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冷静になって考えてみたら、数年前、新橋の ホルモン屋で違う友人と飲んでいる時にポロっと愚痴を言ったら「そう言うのもっと言って。そんな時のために私達がいるんでしょ」と言われ泣きそうになったことを思い出した。
私の周りには触れられる距離ではないけれど、静かに手を差し伸べてくれる人達がいるのを忘れかけていた。
あの日。
空も海も繋がっていて同じ地球上にいるとわかった日。
今日も明日も明後日も。
出来るだけ長く同じ地球上に立っていましょうね。
私もキミも。この文章を読んで下さったあなたも。