大竹文雄の経済脳を鍛える
2014年8月14日 反競争的な教育が助け合いを減らす?

私たちが競争社会を嫌う理由
私たちは市場競争の社会に生きている。消費者としては、より安く、優れた製品を選ぶのは自然だ。消費者としてみれば、生産者の間で厳しい競争があればあるほど望ましい。もちろん、生産者の間での競争が問題を引き起こすこともある。消費者に生産物の質がよく分からない場合が典型だ。時々、質の低いものを売って儲けようとする売り手が現れてくる。しかし、競争があまりない場合でも、売り手には常にそのような動機がある。むしろ、競争がない場合の方が、消費者は高くて質の悪いものを買わされる可能性が高い。製品やサービスを供給する側が、競争を通じて切磋琢磨してくれることは、私たち消費者にとって、ありがたいことは明白だ。
それにも関わらず、競争社会と聞くと、何かとても悪いもののように私たちは感じてしまうのではないだろうか。できることなら、競争はない方がいい、となんとなく思ってしまう。それは、私たちが競争をさせられるという供給者の立場に立って考えてしまうからだろう。競争があれば、競争に直面している生産者は、いつも油断することはできない。競争相手が誰もいなければ、少しぐらい手を抜いても大丈夫だ。生産者にとって、利益を最大にする方法は、競争相手がいない状況を作り出すことだ。誰にもまねできない技術で製品を作る。他の競争相手は入ってこられないような環境を作り出す。労働者にとっても同じで、必要とされる職種であって競争相手が少ないほど、私たちは高い所得が得られる。
つまり、供給者にとっては、競争はない方がいいけれど、消費者にとっては、競争があった方がいいのだ。つまり、自分だけは競争させられないで、他の人たちが競争している状態がベストだということになる。当たり前のことだが、誰か一人がそういう状況になることはあっても、すべての人がそういう状況になることは論理的にありえない。すべての人が同じ状況に直面するという条件をおけば、誰もが競争しない社会になるか、誰もが競争する社会になるか、のどちらかしかありえないのは明白だ。経済学が明らかにしてきたことは、誰も競争しない社会よりも、誰もが競争している社会の方が物質的には豊かだということだ。だからこそ、私たちは独占禁止法という法律をもって、生産者が競争を避けることができる状況を作らせないようにしてきた。
「努力より運」の価値観
できれば自分は競争には巻き込まれたくないにも関わらず、競争社会が支持されるには、いくつかの条件が必要だろう。中でも、競争に参加する機会が均等に与えられていること、努力すれば競争に勝つ可能性が高くなることは大事だろう。いくら努力してもコネや運で結果のほとんどが決まるのであれば、本当の競争にはなっていない。能力があっても競争に参加することができないのであれば、やはり公正な競争ではない。
人生で成功するには運が重要だという価値観が広まるのはどういう状況のときだろう。Guiliano and Spilimbergo(2014)によれば、18歳から25歳という若い年齢の頃に不況を経験すると、人生の成功は努力よりも運によるという価値観をもつ傾向にあるという。
一方、緒方・小原・大竹(2012)によれば、日本では少し状況が異なる。彼らは、前年から比べて大きく不況になった年に卒業した男性は、「人生の成功が努力よりも運による」という価値観をもちやすいということを発見している。不況の時に労働市場に参入しようとすると、求人が絶対的に少ないため、どれだけ努力してもいい仕事に就けないということを実感するだろう。そうすると、人生は努力ではなく、運によって決まるという価値観をもつようになるのも自然だろう。特に、自分の先輩の就職の時は景気がよくて特に努力もせず就職が決まったのに、自分が就職するときは不況になってしまった世代は特にそのような価値観をもちやすいのは納得できる。
「互恵性」を広めるには
競争社会を支持するからといって、私たちは足の引っ張り合いをしているわけではない。競争に勝ったり負けたりするのは、努力の要因もあれば運の要因もある。私たちは、運によって勝ち負けのほとんどが決まるのはあまり望まない。運・不運で決まる部分については、事前に保険契約で確定させておくこともできる。また、困った時にお互いに助け合うという互恵的な社会規範があれば、逆に安心して競争に打ち込めるかもしれない。
そのような社会規範は、家庭だけではなく社会全体で広まらないとなかなかうまく機能しない。直接的な互恵性の規範だけでは、狭い範囲の保険機能にしかならない。誰もがお互い様であって助け合うような社会であるためには、世の中の人が間接互恵性という規範をもっている必要がある。「情けは人のためならず」の正しい意味を社会全体で共有していないと、社会規範として機能しなくなってしまうからだ(注)。
では、どうすればそのような信頼感や互恵性についての社会規範を広めることができるだろうか。一つの方法は学校教育である。Algan, Cahuc and Shleifer(2013)によれば、学校教育においてグループ学習を取り入れているほど、協力することを重視し、他人を信頼するようになるという。同様のことは、日本のデータを用いてIto, Kubota and Ohtake(2014)で分析されている。小学校の時に、グループ学習などの参加型教育を経験した人ほど、利他的で、互恵的な考えをもち、所得再分配政策を支持する。
競争よりも協力を重視する教育の一番極端なものは、様々な成績の順位をつけないというものだろう。日本でも運動会で順位が明確になる徒競走を種目に入れないとか、仮に徒競走をしても順位をあえて付けない、極端な場合は手をつないで全員一緒にゴールするというようなことをした小学校もあった。そういう教育慣行を小学校で受けた人たちは、競争を嫌い、互恵的になっただろうか。Ito, Kubota and Ohtake(2014)の分析結果は衝撃的だ。反競争的な教育を受けた人たちは、利他性が低く、協力に否定的で、互恵的ではないがやられたらやり返すという価値観を持つ傾向が高く、再分配政策にも否定的な可能性が高い。おそらく教育が意図したことと全く逆の結果になっているのではないだろうか。
競争による差を見えなくする教育の思想の背景を指摘した苅谷(1995)の議論を読めば、その謎は解けそうだ。平等主義教育と聞くと「手をつないでゴールへ駆け込む運動会の徒競走シーン」をイメージするが、その背後にある考え方として苅谷(1995)は「『ほとんどの子が100点をとるような力を本来もっている』のだから、授業のやり方や教育の内容次第では、『全員が100点』をとれる。それが、『正しい』教育であり、そう『しなければいけない』ことだと考えられている。」と指摘する。
つまり、「学力差を生まれながらの素質の違いとは見なさず、生得的能力においては決定的ともいえる差異がないという能力間、平等感を基礎としている」のだ。「このように能力=素質決定論を否定する能力=平等主義は、結果として努力主義を広め、『生まれ』によらずだれにも教育において成功できるチャンスが与えられていることを強調した。・・・(中略)・・・だれでも、努力すれば、教育を通じて成功を得られる。だからこそ、だれにでも同じ教育を与えるように求める。その結果、より多くの人びとが同じ教育の土俵の上で競争を繰り広げることになった。教育における競争を否定する一方で、皮肉にも、能力主義教育を批判する議論が、教育における競争に人々を先導する役割を果たしたのだ。」と、苅谷(1995)は、平等主義で反競争的な教育が、逆に、教育における競争を激化させたという皮肉な結果をもたらしたと指摘している。
Ito, Kubota and Ohtake(2014)の研究はさらに皮肉な結果を示している。反競争主義的で協力をもたらそうと考えた教育が、能力が同じという思想となって伝わると、能力が同じなのだから、所得が低い人は怠けているからだという発想につながったのではないだろうか。能力が同じなら、助け合う必要もない、所得再分配も必要がない、ということになってしまったのではないだろうか。やり方を少し間違えると、教育は意図したものとは異なる価値観を子どもたちに与えてしまうかもしれない。競争と助け合いの両方が大切だという価値観をうまく伝えていく必要がある。
(注)「情けは人のためならず」については、「『情けは人のためならず』と豊かさ」(2013年4月17日のコラム)を参照。
<参考文献>
Algan, Yann, Pierre Cahuc and Andrei Shleifer (2013) “Teaching Practices and Social Capital.” American Economic Journal: Applied Economics, 5(3), 189-210.
Ito, Takahiro, Kohei Kubota and Fumio Ohtake (2014) “The Hidden Curriculum and Social Preferences”, RIETI Discussion Paper Series 14-E-024
Giuliano, Paola and Antonio Spilimbergo (2014) “Growing up in a Recession,” The Review of Economic Studies, 81, 787-817.
苅谷剛彦(1995)『大衆教育社会のゆくえ:学歴主義と平等神話の戦後』中公新書
緒方里紗・小原美紀・大竹文雄(2012) 「努力の成果か運の結果か?日本人が考える社会的成功の決定要因」 『行動経済学』第5巻、137-151頁
(2014年8月14日)
(日本経済研究センター 研究顧問)
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