“昭和の妖怪”岸信介―戦前との連続性
1957年は、東条内閣の重要閣僚として日米開戦の詔勅に署名し、戦後A級戦犯として逮捕された岸信介が首相になり、戦争の指導層が戦後も引き続いて日本の指導層となった象徴的な年となりました。特殊日本的な「戦前との連続性」です。ナチズムを生んだドイツでは、戦後に旧ナチの幹部が政界の指導者として復活することは決してありえないことでした。戦争国家体制と民主主義・人権の抑圧は不可分の関係にあります(治安維持法体制)。この体制の責任者が日本の指導者となったことは、現在に至るまで日本のあり方に多大な影響を与えています。
岸は山口県の官吏の家に生まれ、大資産家である実家・岸家の養子となりました。島根県令などの要職を務めた政治家である曽祖父の残像が幼い頃から色濃く刻み込まれたと言われます。東大時代は、当時の右翼のトップリーダーだった北一輝や大川周明に面会を申し入れ、深い影響を受けました。天皇制絶対主義を唱える憲法学者・上杉慎吉に見込まれ後継者にと誘われましたが、当時の農商務省に入り、戦時統制経済を立案・推進した「革新官僚」を代表する存在となります。間もなく、東条らと共に満州国の5大幹部の1人として植民地経営を指導、軍・財・官界にまたがる広範な人脈を作り、政治家としての活動の基礎を築きます。東条内閣では商工相、軍需次官を歴任し戦時経済を指導しました。
45年9月、岸はA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収監されました。しかし、アメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)、多くの戦犯と共に不起訴となり釈放されます。さらに、52年4月、単独講和条約の発効に伴って公職追放解除になりました。直後に復古的な「自主憲法制定」を最大の目標に掲げることを主導して「日本再建連盟」を設立、翌年には衆議院議員になりました。56年の自民党総裁選では巨額の資金をばらまき、金権総裁戦の原型を作りました。首相は60年の安保国会後に退陣しましたが、以後も田中角栄と並ぶキングメーカーとして、89年に90歳で没するまで政界に隠然たる影響力を及ぼし、「昭和の妖怪」と呼ばれました。岸の政治の最終的な目標は最初から最後まで「自主憲法の制定」でした。
岸は晩年のインタビューで語っています。「大東亜共栄圏は随分と批判があったけど、根本の考え方は間違っていません。日本が非常に野心を持ってナニしたように思われるけど、そうではなく…」(塩田潮著「『昭和の怪物』岸信介の真実」)。
戦前との連続性は今、戦争を知らない世代によって「日本の伝統・文化・歴史の尊重」というスローガンで語られています。
岸に代表される政治家については、@戦前との連続性の他、A戦前はファシズムに傾倒して国民を「鬼畜米英」に誘導したことと対照的に戦後は民主主義を標榜しアメリカへの従属を推進した無節操(非連続)、及びB戦争責任が話題になりました。日本国憲法については「押付け」が論じられています。しかし、GHQによる「逆コース」の支配(「逆押付け」)がなく、日本の民主化が促進されていたならば、戦争を指導・推進して内外に天文学的な犠牲者を出した政治家・官僚の政治的・道義的な免責はあり得たのか、問題となるところです。
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