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【戦後70年~大空襲・証言(6)】「このままでは死んでしまう!」びしょ濡れの布団かぶり火の粉の中へ「火だるまになって倒れる人も…」吉田昭子さん(78)=東京都府中市在住

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【戦後70年~大空襲・証言(6)】
「このままでは死んでしまう!」びしょ濡れの布団かぶり火の粉の中へ「火だるまになって倒れる人も…」吉田昭子さん(78)=東京都府中市在住

昭和20年5月25日深夜にあった「山の手大空襲」の記憶を語る吉田昭子さん=2月5日、東京都府中市(石井那納子撮影)

 避難生活は快適とは言い難いものでしたよ。固い運動マット2枚に家族8人で肩を寄せ合ってね。畳2畳分の広さがあるかどうかのスペースよ。本当に息苦しかった。体育館には千人近く避難していたのではないかしら。

 食糧として、何度かカンパンが配られたことがありました。ひとりカンパン3~4枚と、唾液を分泌させて食べやすくするためのコンペイトーが数粒。だけど、こんなものでは満腹感なんて得られないでしょう。

 明大前駅の近くにあった米蔵が焼けたと聞くと、母親たちはいちもくさんに体育館から米粒拾いに向ってね。そこで手に入れた米で一度だけおむすびを作ってもらったこともありましたね。焦げくさいお米だったけれど、カンパンより断然おいしかったことを覚えているわ。

空襲の負傷者救ったのは「関東大震災の海外からの支援物資」

 3月10日の下町大空襲で覚えていることといえば、当時、日赤の看護学生だった姉が「目の回る忙しさ」って話していたことかしらね。幡ケ谷にも遺体を運んできたそうだけれど、私はまだ小さかったからひとりで出歩くことも少なかったし、遺体を運ぶトラックを見た記憶もないのです。

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