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【戦後70年~大空襲・証言(6)】「このままでは死んでしまう!」びしょ濡れの布団かぶり火の粉の中へ「火だるまになって倒れる人も…」吉田昭子さん(78)=東京都府中市在住

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【戦後70年~大空襲・証言(6)】
「このままでは死んでしまう!」びしょ濡れの布団かぶり火の粉の中へ「火だるまになって倒れる人も…」吉田昭子さん(78)=東京都府中市在住

昭和20年5月25日深夜にあった「山の手大空襲」の記憶を語る吉田昭子さん=2月5日、東京都府中市(石井那納子撮影)

 私たち3人が炎の下を逃げ惑っていたとき、両親や姉たちも大変だったようです。自宅を守ろうとぎりぎりまで消火活動を続けたけれど、火の勢いは強まるばかり。母は妹を守らなければならないし、姉は預金通帳や印鑑など貴重品を風呂敷に包んでそれぞれ逃げたといいます。父は防火用水だけでなくドブ水までかけて火を消そうとしたと話していたけれど、結局自宅は焼け落ちてしまいました。

 なぜそうまでして自宅を守ろうとしたかといえば、それまでの経験から、空襲後の焼跡にはあっという間にバラック小屋が建って、借家や持ち家、土地の所有者が誰なのかなんて関係なく、どさくさに乗じて住居を得ようとする人がたくさんいることを知っていたからだと思います。家族も多かったし、住む家さえあれば、何とか生きていかれると考えたのでしょうね。

運動マットに家族8人、避難生活は“空腹”の思い出

 渋谷は一夜にして焼け野原です。どうやって両親や姉たちと再会できたのか、記憶が断片的だから詳細は思い出せないのだけど、次に覚えているのは、体育館での避難生活ね。

 私たちは渋谷区代々木西原にあった「東京体育専門学校」の体育館で1週間以上にわたって避難生活を余儀なくされました。両親たちに会えたときは、みんな助かったんだ、生きていたんだとほっとしました。

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