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【戦後70年~大空襲・証言(5)】
「寒い日だったが、焼夷弾で地面が温かかった」石渡元治さん(80)=東京都板橋区在住
自宅は東京都王子区(現北区)にありました。当時は10歳。東京大空襲があった昭和20年3月10日は南の空が真っ赤になり、昼間のように輝いていました。しかし、空襲の恐ろしさを実感させられたのは、その直後、焼け跡の整理のため駆り出された父のげんなりして帰宅した様子と、その話からでした。
黒こげの遺体をトラックに運び込む仕事を1日中やらされ、食事ものどを通らずやつれた様子でした。「これじゃあ、もうだめだ」。父がささやいた言葉は今もはっきりと覚えています。
空襲は自分たちの身にも降りかかってきました。4月13日夜、城北大空襲に遭ったのです。陸軍造兵廠(しょう)や被服廠を狙ったものとされるけど、実際には周辺に暮らしていた私たち一般市民の頭上に焼夷(しょうい)弾の雨を降らせたわけです。
空襲警報が出たときには、すでに焼夷弾が降り始めていた。町会長兼防火責任者だった父が町会事務所から自宅に駆け戻り「ここにいたら危ない。リヤカーに積んである荷物を引っ張って、(自宅の1キロほど先にある)俺の実家の裏にある横穴防空壕(ごう)まですぐ逃げろ」と命じて、すぐに引き返していきました。
鍋や釜など家財道具はすでにリヤカーに積んであったので、それを引っ張り出してすぐに逃げました。私がリヤカーを引き、姉は弟2人の手を引き、母は一番下の弟を背負ってリヤカーを後ろから押してくれた。
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