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富士宮ボーイ掲示板より引用
>>42320
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今般の「教義条項改正」管見――広宣流布拡大運動の視点から――
2014年11月に開催された「創価学会全国総県長会議」で、原田会長により「創価学会会則 教義条項」の改正が発表されました。その内容は、同年同月8日付け『聖教新聞』に掲載された通り。
そして2015年、1月29日と30日の両日にわたり、そうした原田会長による発表について、創価学会教学部による「会則の教義条項改正に関する解説」上下が公表されました。
これら一連の発表・公表の中で大きな位置を占めるのが、これまで「日蓮大聖人出世の本懐」とされてきた「弘安2年10月12日御図顕の大御本尊」、いわゆる従来「戒壇の御本尊」と呼称されてきた御本尊に関する“新たな”見解の提示です。この見解の提示によって、日顕宗(往時の「日蓮正宗」)の間では、現今、言ってみれば「狂喜の様相を帯びた宣伝活動(創価学会のメンバーに脱会をいざなう活動)」が展開されている模様です。彼らにすれば、「今こそ信者獲得の『稼(かせ)ぎどき』」という意識があるのでしょうか、自らが崇拝の根本としているはずの「大御本尊」を「商売道具」にして。それを見事に物語る「売り口上」がこういった体(てい)のもの――「創価学会は大御本尊を否定した!」(すなわち「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい、うちは『大御本尊』が根本だヨ! 『大御本尊』根本がうちのウリだヨ!」)。
こんな「売り口上」、彼ら日顕宗の徒輩は、創価学会に向けてしか言えない。だって、他の日蓮宗各派は、もともと「大御本尊」を認めていないんだもの♪ 嗚呼! なんと、さもしき日顕宗かな! そして、自らの根幹に関わる法義について、その片鱗をも知らぬ無知蒙昧の日顕宗! 自らの「大御本尊」を「モノ」ないしは「物体」と見なす日顕宗!
かつて、私はこちら [リンク割愛] のページで「1.大御本尊について:1972年(昭和47年)の指導より」という項を綴りました。また、こちら [リンク割愛] に「672.法体についての『あれ?』」ならびに「674.大御本尊御図顕の意義についての『あれ?』」なる記述の記録を残しております。
そうした観点からすれば、彼ら日顕宗の徒輩は日蓮大聖人の御本尊が創価学会戸田第二代会長が獄中で悟達するに至った、いわば「虚空会宇宙」として現出する「法体」の文字化であることを知らない――すなわち「文字即法体」の法義を知らない。当然、日蓮大聖人の御本尊の尊厳性と関わるはずの「諸法実相」また「譬喩即法体」の法義についてもまるきり無知である。それでいて、お目出度くも「『大御本尊』は永遠だヨ!」・「地球が滅んでも『大御本尊』は影響を被らないヨ!」・「だって『大御本尊』こそが無始無終・永遠不変の『法体』それ自体なんだからネッ!」とのたまっておられるわけです。「成住壊空」はおろか、小学校の1~2年生が熟知している物理法則すらも分かっていない。
(ついでに言っちゃえば、そんな彼らは、創価学会が壮大な規模で世界広宣流布運動を実践する中、自在無碍(じざいむげ)かつダイナミックに日蓮大聖人のご精神を展開していることに、到底ついてゆけはせず、「創価学会は『まだ』教義が確立していない」(原点の壮大な展開・流動性について「まだ」だって――ぷっ♪)・「我々宗門 [日顕宗] は、元来、教義が確立しており、それは永劫に変わることはない」(「地球が滅んでも大御本尊は滅びない」といったような教義のこと?)と叫んでいる次第です。)
――さてさて、そんな憐れにしてさもしき日顕宗の御仁らに、以下、ふたつのプレゼントを贈って差し上げましょう。
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その1.戸田第二代会長の悟達に関する文言をめぐって
この度の創価学会における「教義条項の改正」について、日顕宗は、姑息(こそく)きわまることに、「池田名誉会長の意向を無視した執行部の暴走によるものだ」と喚(わめ)いています。果たしてそうかな~? 以下、戸田会長の『人間革命』・池田SGI会長の『人間革命』および『新・人間革命』における戸田会長の獄中における虚空会の悟達に関する記述を見てみましょう。ここで、引用中の二重かぎ括弧および下線は、筆者ふうふうによるものです:
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戸田会長著『人間革命』下(聖教文庫:1972年10月,253頁):
「彼 [巌さん=戸田会長] は、数限りない大衆と一緒に虚空にあって、金色燦爛たる『大』御本尊に向かって合掌している自分を発見した。」
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池田SGI会長著『人間革命』第4巻(聖教新聞社:昭和43年7月,18頁):
「彼 [戸田会長] は自然の思いのうちに、いつか虚空にあった。数かぎりない、六万恒河沙の大衆の中にあって、金色燦然たる『大』御本尊に向かって合掌している、彼自身を発見したのである。」
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池田SGI会長著『新・人間革命』第17巻(聖教新聞社:2007年11月,22頁):
「[戸田会長は] 日蓮大聖人が地涌の菩薩の上首として、末法弘通の付嘱を受けられた法華経の虚空会の会座に、牧口と共に連なり、金色燦然たる御本尊に向かい、合掌している自分を感得したのだ。」
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お分かりかな? 同一の場面が描かれるに際して――『新・人間革命』における、戸田会長が牧口初代会長と共に虚空会に在ったことの記述は、さておきます――創価学会が宗門を擁護していた時代に著された戸田会長の『人間革命』・池田SGI会長の『人間革命』では「『大』御本尊」と表記されています。ところが、宗門が日顕宗と化して「信徒破門の大罪」・「破和合僧の大罪」を犯した以降に表わされた『新・人間革命』では「大」の文字を見ることができません。「御本尊」なのです。多少の参照事項として、当該『新・人間革命』第17巻の発刊は2007年11月、その前の第16巻の発刊は2006年10月でした――ことは、この1年間の間です。しかしながら、更に言えば、『新・人間革命』は、私が本稿を記している現在、1998年以来、今日までに26巻が発刊されています。一体、そのいずれかに、いわゆる「戒壇の御本尊」を特化して記述された箇所があったでしょうか!? 少なくとも、私ふうふうが知る限りでは、そうした箇所は、ありません。
これでも、日顕宗が喚くがごとく、今般の「教義条項の改正」は「池田名誉会長の意向を無視した執行部の暴走によるもの」なのでしょうか? わかりやすいです。あり得ませ~ん♪ 所詮は憐れ無様にして姑息な日顕宗――「池田会長を慕う学会員をも、商売の客として、残らずからめ捕ってやろう」として愚劣なる手練手管(てれんてくだ)を弄(ろう)しようとしている――これが「見え見え」という次第です。そうではないでしょうか?
えっ!? 「これは単なる脱字ではないか?」ですって? と~んでもない。2013年4月に池田SGI会長によって『人間革命』第4巻の改訂版が発刊されました。その中の記述ではどうなっているか? はい、次を比較して頂きましょう:
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池田SGI会長著『人間革命』第4巻(聖教新聞社:昭和43年7月,18頁):
「彼 [戸田会長] は自然の思いのうちに、いつか虚空にあった。数かぎりない、六万恒河沙の大衆の中にあって、金色燦然たる『大』御本尊に向かって合掌している、彼自身を発見したのである。」
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池田SGI会長著『人間革命』改訂版第4巻(聖教新聞社:2013年4月,26頁):
「彼は、自然の思いのうちに、いつか虚空にあった。数限りない、六万恒河沙の大衆の中にあって、金色燦然たる光を浴びて、御本尊に向かって合掌している、彼自身を発見したのである。」
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――ご覧の通りです。改訂版で「大」の文字が取り除かれています。
その上で――。本稿の上記第3段落で、私は「教義条項の改正」について「“新たな”見解の提示」と「新たな」を「“ ”」で括りました。そう、実際は、ことは昨年や一昨年のことではなく、短く見て2007年から、長く見れば日顕宗による「信徒破門の大罪」・「破和合僧の大罪」からのことと見なされるのでした。
ついでに言えば、日顕宗は2013年から刊行されている池田会長の『人間革命』の改訂版について「『戒壇の大御本尊』の『大』を、ぞくぞくと省いている」とかくっちゃべってもいる模様です。例えば、こんなとこなんか:[リンク割愛] 。ばっかみたい。これって、気付くのが遅すぎるよ♪ 少なくとも、2007年から5年もの間、一体、何してたの? どこを見てたの? てか、そんなことをのたまってもいいのかな~。だって、それって、当該の「教義条項の改正」が「池田名誉会長の意向を無視した執行部の暴走によるもの」って言い草を、自ら否定してしまうんじゃない? それで「商売」なりたつの? な~んてね、他人事ながら、一応、心配しておいてあげよう(笑)。
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その2.日寛上人の本門戒壇論をめぐって
「教義条項の改正」の上っつらだけ読んだ日顕宗の徒輩は言います――「創価学会は日寛上人を棄却した」(趣意)と。このような発言に、私としては、呆れ果てて思います――「なんとまあ、厚顔無恥も極まるところ、よく言えるもんだぜ」と。そして「あほか?」と。
先ず、創価学会は、あくまでも「日蓮大聖人の『ご精神』に直結の宗団」です(断わっておくけど、天台大師が言う「文字法師」でもないからね♪)。たとえどんなに卓抜したものであろうと「釈論」に直結するものではありません。
これを前提として、いま改めて日寛上人の『六巻抄』(聖教新聞社,昭和35年)から「本門の戒壇」について論じられた部分(98-107頁)を読んでみましょうね。その部分で、日寛上人は、日蓮大聖人におかれて身延山がいかに重要な地であったかを重々に言明されています。その上で、身延山を聖地とすることを退け、時に応じて大石寺を聖地とされています。なぜか? 「大御本尊」が存在しているから? なるほど、表面上はそのように見えます。けれど、本質次元では、違うんだな~、これが。はい、お応えしましょう。それは、よく言われることですが、身延山が謗法の地となったためです。いい? 「大御本尊」の存在以前の問題ですよ♪ 以下、いくつか引用して差し上げましょうね――下線部分は私ふうふうによるものです:
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101頁:
「[身延山は] 蓮祖大聖九年の間一乗妙法を論談し摩訶止観を講演せるが故に霊山金山洞にも劣らず天台銀地峰にも勝る、天台の所謂『法妙なるが故に即ち処尊し』とは是なり、然るに正応元年の冬・興師離山の後・彼の山已に謗法の地と成る、云うても余り有り歎きても何か為ん、彼の摩梨山の瓦礫の土と成り栴檀林の荊棘と成りしにも過ぎたり」
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101-102頁:
「問う [中略] 波木井抄二十三に云く『何国にて死に候とも墓をば身延の沢に立てさすべく候』[中略]/答う汝等法水の清濁を論ぜず但御墓所の存無を論ず」
(※このあと日寛上人は日蓮大聖人の墓所は大石寺にありとされているが、それ以前の問題として上記を述べられている。)
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102頁:
「問う有は謂く宗祖の云く『未来際まで心は身延の山に住むべく候』云々、故に祖師の御心、常に延山に在り、故に知りぬ是れ最勝の地なるをや、/答う延山は本是れ清浄の霊地なり所以に蓮師此の言有り、而るに宗祖滅後地頭の謗法重畳たり興師諌僥するも止めず蓮祖の御心寧ろ謗法の処に住せんや」
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わかるかな? 日寛上人におかれて「日蓮大聖人がご存命の間、身延山は最重要の聖地であった」という根本的なお心があったわけです。それを立証するために「本来 [身延山は] 霊山にも勝る」・「法妙なるが故に即ち処 [身延山] 尊し」とまで言われています。しかるに、「謗法が一切ことごとくを打ち砕きないがしろにしてしまった」(趣意)と仰せです。
このご見解を見る時、次の一節は、日顕宗において、一見「殺し文句」の様相を呈しています――「富士山は是れ広宣流布の根源の故に、根源とは何ぞ、謂く本門戒壇の本尊是なり」(105頁)。しかしですね、日寛上人の往時における大石寺の清浄は、もはや木っ端微塵に砕かれ、あげく天魔の巣窟になってしまった。日寛上人のお心に即せば、大石寺は、その大昔、日寛上人の時代には「霊山金山洞にも劣らず天台銀地峰にも勝る」地であったかもしれない。「法妙なるが故に即ち処尊し」であったかもしれない。しかし、今は、その実態おおうべくもない魔の巣窟となってしまった。その現在にあって「大御本尊」の存在を云々することは「汝等法水の清濁を論ぜず」と弾呵される地に他ならない場所となってしまった。
この冷厳なる事態のもと、「広宣流布」を微塵たりとも考えない日顕宗においては「富士山は是れ広宣流布の根源」という言葉は断然無縁のものであり、「うちには『大御本尊』があるヨ~」というふざけた戯言(たわごと)は、自らをして、ますますもって明白なる「邪教の団体」としてアピールすることに他ならないものと言ってまったく差し支えないでしょう。
繰り返しますが、創価学会は、あくまでも「日蓮大聖人のご精神に直結の宗団」です。たとえどんなに卓抜したものであろうと「釈論」に直結するものではありません。けれども、日寛上人のお心に照合しても、創価学会が、まさか日顕宗と同様に「戒壇の御本尊」なんて言えます!? これまた再び――あり得ませ~ん。
※ちょっと補足しておこうかな。私たちはね、「釈論」を根本とする立場ではないけれど(何度もごめんね♪)、日寛上人の「広宣流布」への『ご精神』は、今後とも仰ぎつつける立場です――それは、いま、創価学会にこそ継承されているという認識の上でね。
さてさて、私からのこのような「ふたつめの贈り物」の括りとして、今までにも指弾されてきた、永劫に消えることのない「日顕七つの大罪」を、いま再び、列挙しておきましょう:
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1.相承詐称の大罪――宗門を乗っ取った「偽法主」
2.破和合僧の大罪――大功労の学会の破壊を策謀
3.不知恩・先師に反逆の大罪――「正本堂」を破壊
4.三大秘法破壊の大罪――「大御本尊」を「偽物」呼ばわり(※ほんと、こんなことやっていながら、な~にが「ウチは『大御本尊根本』がウリだよ~」なんでしょね♪)
5.宗門私物化の大罪――豪遊・豪邸・大散財
6.謗法与同の大罪――禅寺に墓・身延に迎合
7.二枚舌・大妄語の大罪――最高裁で2度も断罪さる
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以上、今般の「創価学会会則 教義条項」の改正とそれに伴う日顕宗の「狂喜の踊り」(?)について、ふうふうなりの私見でした~♪
(^^)y
――おっと。本稿全体の締めとして、余談ながら、私の思考を一言させて頂いておきましょうか。それはですね、上に縷々(るる)記した内容からも、私は、もとより「初めに『大御本尊』ありき」という私見では原理主義(ファンダメンタリズム)の立場あるいはカルト的な立場には、ま~ったく与(くみ)しておりません――思い描いただけでも気色悪い(う~:嫌)。「初めに『創価学会』ありき(全人類の宿命転換)」か「初めに『日顕宗』ありき(第六天の魔王への隷属)」かの二者択一です。当然、私の立場は前者「はじめに創価学会ありき」、すなわち「全人類の宿命転換」ありき。それは、日蓮大聖人の「ご精神」の全体がいずれに横溢しているか、という判断に基づくものです。
(無論、「そのため(世界広布のため)には『戒壇の御本尊』の問題を解決しないと・・・」というワンステップを置いてひとところに逡巡して留まる趣味もありません。個々人の領域を凌駕し、創価学会という教団の総体が、日蓮大聖人のご精神のままに全面「閻浮提広宣流布」に向かうところ、因果の理法の必然として組織の全体にもたらされる御本尊をこそ本来の「本門の御本尊」と考えます――思えば、昔はそれがたまたま「戒壇の御本尊」だったんですけどね♪ 念のため(!)――私は「戒壇の御本尊」の真義を論じているのでは、全然、ありません。言われる「戒壇の御本尊」は、過去において、創価学会の広宣流布の原動力となっていた頃は、本当にかつ正真正銘の「本門の本尊」であった、しかし、今は、日顕宗という魔群(邪宗教団)のゆえに、もはやそうではなくなってしまった、という立場です。 ※その点から言えば、往時に論じられていた「弥四郎国重」・「奉書写之」も、今は、論じる意義が、いかほどにあるのかなあ――広宣流布との関連の上で・・・。そんなところかな(笑)。)
――いやいや、なんとも冗長になってしまいました(詫&苦笑)。ともかくは(!)、「世界広布新時代 躍進の年」の開幕――この砌(みぎり)に際して、今般の「教義条項の改正」を新たなる広布の地平を開くものとして、共に広布に励む尊い創価学会の方々と、殊更に寿(ことほ)ぎたいと思う私です。
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今後の評論用資料として引用のみ
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