かくれキリシタン:存続の危機 長崎・信徒発見150年
毎日新聞 2015年03月14日 14時17分(最終更新 03月14日 14時57分)
禁教時代を生き延びたキリシタンが幕末に宣教師に信仰を告白した「信徒発見」から17日で150年を迎える。節目を前に、舞台となった長崎では教会群が世界遺産候補になり、祝賀ムードが漂う。その一方で今も「かくれキリシタン」の信仰を守り続ける人々がいることはあまり知られていない。時代の変化とともに後継者が減り、存続の危機にある。【石塚淳子】
長崎県平戸市の生月(いきつき)島壱部(いちぶ)地区にある川崎雅市さん(65)宅には弘法大師、仏壇と並んで、聖母子を描いたとみられる掛け軸が下がる祭壇がある。聖水の入った瓶も並ぶ。川崎さんは朝夕、祭壇の前のろうそくに灯をともして正座し、かくれキリシタンの祈り「オラショ」を唱える。「一日無事であるように、また、一日を無事終えられたことを感謝してマリア様に祈ります」と言う。
同市生月町博物館「島の館」の中園成生学芸員は「かくれキリシタン信仰は仏教や神道と併存している。私たちが正月に神社に行き、結婚式は教会で、葬式は仏教でというのと変わらない」と話す。
日本へのキリスト教伝来は1549年。以後、キリシタン大名が生まれ信徒数は急増したが、豊臣秀吉のバテレン追放令に続き、江戸幕府も禁教令を出し、信徒を弾圧した。キリシタンたちは表面上、寺の檀家(だんか)になりながら信仰を守り続けた。禁教令から250年の潜伏時代を経て、日仏修好通商条約の締結で幕末の長崎を訪れたフランス人宣教師が、かくれキリシタンから密に信仰を告白された。それが西欧諸国に伝わり「宗教史上の奇跡」とも言われた。
信徒発見後、多くのキリシタンがカトリックに復帰したが、「かくれ」の信仰を維持した人々もいた。当時はまだ禁教が解かれず迫害を恐れたことや、潜伏時代から続く伝統を守りたいと考えたこと、寺への恩義から戻れなかったことなどが理由だったとされる。
その後、禁教の解除後も「かくれ」信仰は守られたものの、今も伝承されているのは長崎県内の生月島(平戸市)、外海(そとめ)地区(長崎市)、五島列島の一部だけだ。生月島では1960年に約1万1500人いた人口の半数以上が信者だったが、現在は人口約6000人に対し約300人。若者が島から流出し「信仰の内容が厳しく信者をやめてしまう」と川崎さん。