あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

ポケットの窓から - 2015.03.14(ポケットの窓から)



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さいわいびと - 2015.03.13(作品)


「さいわいびと」 2002 F0

はる 4999 (残すところ後1)
 いよいよ明日が5000です。何のことはない夢のように過ぎて行きます。↑の絵は一番最初の「さいわいびと」です。これは私のシンボルマークにもなっているものですね。羽の生えた人間は天使とか妖精と呼ばれますけれど、私は「さいわいびと」という言葉を作りました。たぶんどこにもない言葉だと思うのですが、どうでしょう。元々は「さいわいすむとひとのいう・・」から何となく取ったものです。5000のイヴを祝ってこの「さいわいびと」を飾りましょう。

2005年たりたさんの「さいわいびと8」のブログです。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=17826&pg=20051229


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無制限 - 2015.03.12(作品)


「無制限」F10
2013

はる 4998 (あと2)
 公募展を観ている人からなぜ大作ばかりなのかという感想があった。たしかにそうだよなぁと描いている私も思う。大きな会場だからそれに似合う大作でないとというのも一つの理由か、大きな絵でないとその作家の本当の実力が分からないから、というのもあるか。年に一回大作を描いて団体展に出品して会場に飾られることを自分のレーゾンデートルにしている作家も多いだろう。

 しかし、私なんかが見ても団体展の展覧会は面白くないし、だいたい疲れる。全部をまんべんなく観るなどという鑑賞者を見たことがない。またそのことに意味があるともおもえない。

 まぁ大きな存在理由はカルチャーなどの文化啓蒙の事業の一環かな。人と競うことで実力もつくし、やりがいというのか生きがいにもなるわけだ。それが直接の本質だとは思わないけれど、芸事を理解するのはそれに染まってみることで分かることも多い。だから公募展の作品展は展覧会ではない。自分の成果の発表の場で、人と比べて自分の絵を鑑みるきっかけになる場と考える分かりやすい。絵を描かない人、部外者には面白くない。そういう人たちを相手にしていないから。絵を描く仲間内だけ完結している身内の展覧会なのだな。そのためにはまぁ手始めに100号クラスの絵が描けなきゃ話にならんというわけか。

 作家で生きようとおもえば、個展をするしかない。団体展に出品する必要もない。団体展の大きな作品が売れたなどという幸せな話を聞いたことがない。もし仮にあったとしてもたまたまラッキーだっただけで、それをあてにして生活するわけにはいかない。口を開けて上を向いて歩いていたらたまたま牡丹餅が落ちてきたみたいなものだから。

 何度も何度も繰り返して個展を開催するしかない。どんな絵でも必ずファンはいる。諦めないで続けることだ、それしかないとわたしは思う。


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- 2015.03.11(未分類)


Mahler Symphony No.5, 4th Mvt "Adagietto".
World Orchestra for Peace - Valery Gergiev

いや本当に美しい映像と音でした。またこの指揮者知りませんでしたが、奇奇怪怪の催眠術師のように演奏家をあちらの世界に引きずり込んで、聴くもの観るものを魅了します。こんな演奏始めてみました。紹介ありがとうございました。



F8「丘の家」 1988

はる 4997 (残り3)
3・11あの震災から丸四年ですね。あの日も寒かった。ところであの当時をブログで振り返ってみましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
忘れないために
2011 3月11日 (金)

はる 3547
凄い地震だった。私が今まで初めて味わったでかい地震かもしれん。原発が心配だ。それにしてもこういった事 態は想定しているべきことで、考えを越えていたというのはただの怠慢だな。親方日の丸的な役人根性だと、こういった非常事態に対処できないだろう。どうす るんだろ。
3月12日(土)
はる 3548
心配していたように結構怖いことになってきた。政府は「心配ない、安全だ」をくりかえしているけど、本当にそうなのか?反対に考えて「大変だ、すぐに非難しろ」とは言えないからな。

こうならないことを祈るしかない。

何だか昔読んだ「渚にて」を思い出す。これもそうならないことを祈るしかないな。未曾有の地震があってその結果原発が想定外の被害を受けて、最悪の放射能を大気中にばら撒いた。天災だから仕方ない?そうかな。

地震は天災だ。これはもう防ぎようがない。けれど原発の事故は人災だな。素人考えで、間違っているかもしれないが、そんな風に思う な。確かに電力は水力や火力だけではもうまかなえないところにまでなっている。でもね、それも電力会社を一つの企業としてみた場合であって、どんどん使っ てもらった方が企業としては儲かるわけだ。

節電やエコなどと言っているけれど、本気で節電をしたら自らの首を絞めることになるわけで、文字通り矛盾になる。電力会社はまぁ言ってみれば優良企業なわけで、特に原発のトップあたりは官僚などの有力な天下り先になっている。

本当にエコを考えるならば、年中どこにでもある清涼飲料水の自販機や、24時間煌々と明かりのついているコンビニなどを少しでも減 らすように呼びかけすればいい。街の明かりを半分にすればいい。テレビの放送を夜の12時までにすればいい。などなど、やれることはいっぱいある。それを しないで、消費をあおっておいて電力が足らないから原発を増やしますというのは、ちょっと違うかなと思う。

百歩譲って原発を許したとする。もしそうなら「原発はクリーンな燃料だ」「エコだ」「省エネだ」「未来の燃料だ」などというキャン ペーンを第一にするのではなく。考えられる最悪のパターンをシュミレーションして、第一段階、第二段階、第三段階、・・と言う風にハザードを考えておかね ばならんだろう。

例えば、緊急停止装置が働いて原子炉が止まった。とまったらそれを冷却する装置が自動で働いて炉心を冷やすから大丈夫だ、というの は安易な考えだ。緊急に装置が止まるのは今回のように地震である場合、それも考えられないような大地震かもしれない。だとするなら津波が来ることも想定し なければならないし、停電になる可能性も大きい。自動的にポンプが働いてというふうにはならないことは想定していなければならんだろう。確かに原子炉その ものは相当な強度で作られているかもしれないが、それをサポートするインフラはものすごく脆弱なのではないか、ポンプが動かないとか、パイプが破損したと か、今までもそうだった。それをしないのは想像力が足らないと言われても仕方ない。

で、不幸にも事故が起きてしまったら、速やかに情報を開示して被害を最小限度に食い止めるようなシュミレーションを考えておくべきだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
誰も責任を取らない。
3月31日 (木)

はる 3567
どうもいつも心の片隅にあって放射能のチリのように積もって、いっこうにスカッと晴れない。本当ならこの時 期は桜も咲いてどこかうきうきとする季節なのに、もやもやとして鬱っぽい。私が何かしてもあまり意味がないのだけれどね。たぶん、今度のことは百年に一度 の転換期なのじゃないだろうか。

明治維新の頃、欧米が開国を迫って軍艦を港にこれ見よがしに停泊させて、開国しなきゃ武力も辞さないと脅迫してきた。今まで眠った ような300年を過ごしてきた日本社会は、そりゃ驚いただろう。武士などは泰平楽の世の中を過ごしてきて,何の役にもたたないようになってしまった。

太平洋戦争でそれこそ日本全部が何もかもすっかり失って、ここから始めるといった時もやっぱり大いに血を流した。本気になったと言 うことかな。それと比べるのはお門違いと言われるかもしれないが、やっぱりどこか血を流さなければ気がつかなかったのかもしれない。大いなる犠牲だけれ ど、国は半分失うかも知れないが、そこまでやらないと気がつかなかったのかもなぁ。

国の力はこの一年半分になるやもしれん。三等国、四等国になるかもしれん。でもこれがなければ未だに消費が一番、享楽が一番、使い 捨てや便利や効率が一番の品のない国で終わっていたかもしれん。多くの人が気がつき始めていた。この国はこのまま目標のない、指針のない、状態でいいのか しらとね。

まだ目が覚めていない人も多いけれど、今が絶好のチャンスだろう。

 


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今日のアトリエ - 2015.03.10(ポケットの窓から)

はる 4996(残り4)
 明日でまる四年経つということだな。状況は何も変わっていないというのか、より悪くなっている気がするのは私だけかな。誰が考えてもこのまま原発を進めて行けばどうにもならないことが分かっているのに止められないというのはどういう事だろう。今までと同じように電力が必要だから、エネルギーが必要だから、今の状態を維持するということを前提に話を進めるから可笑しくなってしまうのではないかな。

 自分自身が今までと同じような生活をしながらいうのも説得力がないのだけれど、何か違うよなぁという感覚がある。人類が経験したこともないような大事故を経験して、あぁこのままじゃダメなんだと大方の人は思ったと思うんだな。じゃどうするのか?何か大きな価値観の変換みたいなもの、共通認識が作られてもいいのじゃないかな。

 現実離れしているのかもしれないが、もっと基本的なことに立ち返って考えてみるというような運動がおきないかな。たとえば我々の今の生活もどこかおかしくないか、物が壊れて修理した方が高くて新しく購入した方が安い、それなら誰も修理して長く使おうとしないわな。量販店というのは物を安く買うのには適しているけれど、修理とか部品の交換などという物には対応が冷たい。さも新しいものを買えというふうに押し付けてくる。

 物を考えて作るより、安いものを買った方が手っ取り早く効率的だと考える。これもおかしい。バブルの頃に物を作るよりトレーダーで稼いだ方が儲かるとといった工場主を思い出す。いま彼はどうしているのだろうか。

 資本主義というのかな。市場原理主義というのか。とにかく人の欲というものを原動力にして消費する、消費させること、物を必要以上に多量に生産してやたらとネネルギーを使い倒して、無駄でもい何でもとにかく消費することを前提に世の中が回っている。

 とにかくお金なんだろうか。人の欲を刺激して物を売る。そして消費して捨てる。破壊して壊して捨てる。一番消費するのは戦争だろうな。一番お金が動くのは戦争なんだろうな。人の支配欲、恐怖心、を煽って戦争に駆り立てる。そうやって誰かが儲けるわけだ。

 小さく少なくという生き方じゃだめかな。そう世界に先駆けて発表してもいいのじゃないか。


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後残り5 - 2015.03.09(未分類)
はる 4995 (後残り5)
 以前どこかで買ってもらった作品が知らないうちにマイナーなオークションに出されていて、さらにがっかりしたのは値段が何千円とついていたことだ。それでも売れていなかったのでさらにがっかりした。

 現存している作家の作品をオークションにかけるのは作家の生活を脅かす暴挙だな。たとえそこで売れても作家には関係ないのだし、確実に値崩れを起こすわけだ。売った時の値段を越える現存作家などいるのだろうか。

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今日のアトリエ - 2015.03.08(ポケットの窓から)

はる 4994(残り6)
 挿絵はこれまでも何回か描いている。自費出版の挿絵を描いたこともあるので全部合わせれば10回ぐらいになるだろうか。連載の新聞小説も今回で三度目になる。

 最初の頃に頼まれた自費出版の挿絵は資料を渡されてこんなものを描いてくれというものだった。写真から絵を起こすような仕事で私でなくてもよかったのだろうけれど、今ならたぶん断るだろうな。

 挿絵は慣れてくると結構面白い。割り当てられた文章を読んでそこからどこか絵になりそうな場面を想像するわけだ。普通の挿絵というのは映画の絵コンテみたいな場面の説明画を要求されるのだけれど、最近はもっと自由度が高くてやや抽象的な表現でも許されるようだ。発想の元がその小説からであるならいいということだろうか。

 私の場合はそれほど抽象化することもないのだけれど、何となく場面を感じさせるには如何するかということに苦心する。普段の絵はテーマは後付で考えるのだけれど、挿絵の場合は初めにテーマが与えられている。そこからどれだけ自由に発想できるか、そんなところが面白い。


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今日のアトリエ - 2015.03.07(ポケットの窓から)

はる 4993 (残り7)
 何だかまた版画の下塗りのようなかんじですね。今度は挿絵の地塗りです。どれを使うかは内容を読んで決めます。一応のラフは出来ているのですが、それを採用するかどうかはまだわかりません。二十日には京都に発つのでそれまでに何とか仕上げなくてはなりません。二週間あれば余裕だとおもうのですが、やって見なければわかりません。

 ところでカウントはあと一週間になりました。そろそろ締切もちかいので、もう駆け込みはありませんか?前回よりもかなり増えましたので当選は5名に増やします。お楽しみに。


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今日のアトリエ - 2015.03.06(ポケットの窓から)


はる 4992 (残り8)
 県立文学館の文学賞の挿絵を今回描かせてもらうことになりました。もう何回か描かせてもらっているので、一応辞退したのですが時間が押し詰まってのことで経験のある作家で進めようという事になったらしい。まぁそういった候補に選んでもらえるだけでありがたい話です。精一杯やりますが、自分の絵を描くしかないのでそこのところは認めてもらうしかありません。まぁ楽しみにしておいてください。具体的な話はまだオフレコなので、発表がありましたらまた載せます。


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雛人形 - 2015.03.05(ポケットの窓から)

はる 4991 (残り9)
 いよいよ残り9となりましたね。こうなると何だかわくわくします。自分で決めたことなのに、おかしなものです。

 ↑は家のひな祭りです。ウサギのぬいぐるみで誰かからのもらい物だと思いますが、毎年うちの玄関を飾ります。玄関先のコーナーは私の家では唯一の遊びの空間で、床の間のような機能も兼ね備えています。出来立ての自分の絵を飾るのもこの場所ですし、お正月にはお供えも飾ります。クリスマスのデコレーションもここです。お客さんが入ってきて一番最初に目に付く場所で、はっきり言ってここしか飾るスペースはないのです。

 三月のひな祭りが過ぎれば五月のに向けて兜が出てきます。六月に入るとそろそろ夏向きの金魚、七月は七夕で星型のオブジェ、八月は陶器の松田百合子さんのスイカのオブジェが出てきたりします。これを考えるの結構楽しい。


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