どうしんウェブ 北海道新聞

  • PR

  • PR

道内

  • この記事をはてなブックマークに追加
  • mixiチェック

「戦艦武蔵発見」浮かぶ戦友の顔 元乗組員・山口さん 「最強」の誇り「何だったのか」

(03/13 19:06、03/13 19:13 更新)

フィリピン沖海底で見つかった船体を写した映像を見て、武蔵の装備などについて語る山口さん

フィリピン沖海底で見つかった船体を写した映像を見て、武蔵の装備などについて語る山口さん

 旧日本軍の戦艦武蔵とみられる船体が、フィリピン沖の海底で見つかった。米軍に撃沈されて以来、約70年ぶりの発見に関心が高まるのとは対照的に、元乗組員の男性は「『見つかってよかった』という喜びや感激はありません」と静かに語った。武蔵にかけていた期待と、あえなく沈没した現実との落差。海底に沈む船体を見て感じるのは「結局、武蔵とは何だったのか」という思いだった。

 衛生兵として武蔵に乗り組んでいた十勝管内中札内村の元村議山口昇さん(93)。現在、帯広市内の高齢者施設で暮らしている。船体を発見した米国のチームが撮影した約1分間の映像を、6日に見てもらった。

 画面を見ながら「このカタパルト(艦上から飛行機を飛び立たせる装置)は、艦の後部に備え付けられていた」「いかりは艦の前の方だった」。山口さんは淡々とした口調で説明した。

 船体発見を新聞で知った時も「ああ、やっと見つかったかと思っただけだった」という。水深約千メートルの海底で見つかったことも「復員後に沈没した場所の水深は、それぐらいだと知っていましたから…」。

 中札内村の開拓農家の三男で、国のために戦って死ぬのが一番の親孝行だと信じて疑わない「真面目な軍国少年」だった。

 1942年(昭和17年)5月に海軍に入り、陸上勤務が続いた。武蔵に配属になったのは44年2月。「早く戦地に行きたいと思っていたのに陸上勤務が続いて焦りがあった。世界最大最強と言われた武蔵に配属が決まった時はうれしくて、誇らしかった」。横須賀(神奈川)で初めてその船体を見た。「巨大な鉄の塊で、これが船かと驚いた。簡単には沈むはずがないと思っていた」

 武蔵は44年10月、フィリピン・レイテ島に上陸した部隊を攻撃するため、戦艦大和などとレイテ沖海戦に臨む。そして同月24日、集中攻撃を受け沈没。海に投げ出された山口さんは、沈没から8時間後、味方駆逐艦に泳ぎ着き、九死に一生を得た。

 約40キロ離れた敵も砲撃できる主砲を備えた最強戦艦に、大きな期待をかけていた。その主砲を十分に使い切れないまま、沈められてしまった。「『世界一の船』に感じていた誇りや尊敬、自信は何だったのか。一体何のために造られたのか。あの戦争全体を含めて、それらの検証もできていない、していないのに、手放しで『見つかってよかった』『船体の一部が残っていてよかった』という気持ちにはなれない」

 武蔵に乗っていた約2400人のうち、千人以上が沈没で死亡した。生き残った者も、その後の戦闘で多くが亡くなった。

 「戦死した戦友や先輩のことを考えると、武蔵の船体の一部が見つかっても、それが鎮魂につながるとは私には思えないのです」(報道センター 井上雄一)<どうしん電子版に全文掲載>

【関連記事】

このページの先頭へ