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陵墓の位置
細長すぎる大阪市領土と古墳カーブの謎 - デイリーポータルZ:@nifty
古墳で思い出したのですが、昨年末に読んで興味深かったのは寺村裕史氏の『景観考古学の方法と実践』です。
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本書の議論の前提となる空間データ処理についての技術的なことを完全に理解できたとは言えないのですが、とにかく結論だと申し上げると、古墳の立地と眺望の関係について、
つまり古市古墳群のように巨大な前方後円墳が多く集まった地域において、古墳が増えていくに従い、その築造場所は徐々に限定され、各古墳からの眺望(見晴らし)の点では可視範囲が狭くなる傾向があるにもかかわらず、古墳相互の視認関係は保たれ、先に築造された古墳を視認できる位置に新たに築造されているのである。眺望は悪くなったとしても、先に築かれた古墳を意識して新たな古墳の築造場所を選地していたことも考えられる。
(109頁)
実に興味深い指摘です。
(いずれもカラー口絵より)
『古事記』『日本書紀』には初代天皇である神武および「欠史八代」つまり第九代開化天皇まで、おそらく実在しなかったであろう天皇の記事があります。ところがご存じの通り、これらの天皇についてもいちいち陵墓はどこそこにある、と明記しているんですね。『古事記』でいえば、神武は「畝火山の北方白檮の尾の上」、綏靖は「衝田の崗」、安寧は「畝火山のみほと」、懿徳は「畝火山の真名子谷の上」・・・といった調子です。
前述した古墳立地の意識が七〜八世紀頃の人間のなかにまだかろうじて残っていたとしたらどうでしょうか。(もちろん伝承も実際にあったのでしょうけれども)陵墓記事を作るに際して、「やはり後代の御陵は、先代の御陵が見える位置に設定しないとまずいよな」とか考えていたのでしょうか。(仲哀からしばらく陵が大阪の方に移るというのもどういう意識でしょう)
- 2015-03-10 あるエホバの証人の聖書の個人研究ノート 3/48 6%