あの日再任の副町長退任へ「防災に悔い残る」
数時間前、町議会で副町長に再任された。今、町防災対策庁舎の屋上で津波の水圧に耐えている−。
それが宮城県南三陸町副町長、遠藤健治さん(66)の3.11だった。東日本大震災が起点となった4年は間もなく終わり、今月末、48年間務めた役場を去る。
「合併10年まであと4年。新町建設計画の仕上げに取り組もう」。副町長2期目に向け、議場で決意を新たにしていた時、激しい揺れに襲われた。
宮城県沖地震だと確信し、佐藤仁町長(63)らと隣の防災対策庁舎に急ぎマニュアル通りに粛々と対応した。1960年のチリ地震津波以来、住民と防災訓練を重ねている。6メートル以上の大津波警報にも焦りはなかった。
冷静な取り組みは大津波警報が10メートル以上に切り替わると一変した。庁舎脇の八幡川から津波があふれ出した。屋上に避難。すぐ津波が来た。手足を階段の柵に絡ませ、波を背で受けた。息を継ごうとして一度水を飲んだのは覚えている。波が引いた後、町がなくなったことを知った。
志津川の市街地を襲った津波は高さ15メートル以上とみられる。町全体で800人以上が犠牲となり、住宅の6割近くが流失した。
「じくじたる気持ちでいっぱい。役場幹部、副町長として防災に深く関わった。津波に対するわが町の危機意識はかなり高いレベルにあると思っていた。何をやっていたのかと思う」
長い公務員生活。務めを果たしてきた自負はあっただけに、大きな被害に打ちのめされた。「悔いが残る。職を離れても消えようがない」と語る。
震災翌日、町総合体育館にたどり着き、果てしない復興へと歩み始めた。佐藤町長とは「とにかく生きよう。目の前の課題を一つずつ片付けていこう」と話し合った。
津波で再び犠牲者を出さないように住宅の高台移転を進めた。分水嶺(れい)に囲まれ、山川海が連環する南三陸らしさを重視した古里再生に筋道を付けた。
「新しい町づくりには若い感性が求められる」。4月からは一町民として復興を見守る。後輩には「町民の役に立つ場が町役場」と言い残す。天変地異、次は何が起きても大丈夫なように、命を守り抜く行政の実現を願う。
2015年03月11日水曜日