今日は放送希望の多いあの戦国大名を取り上げます。
もうそろそろ先生の大学も卒業式の頃じゃないですか?そうですねもう少ししたら。
ですよね。
またみんな若い子たちが新たな世界へ飛び出していくわけですね。
まあそうですけど新しい事に挑戦するのは何歳でもいいと思いますけど。
どうですか?大木さんも何か新しい事とかって。
そう考えると確かにもう40にもなってるんでねそろそろ自分で何かこう立ち上げるとか事業を始めるとかそういう事やった方がいいのかなとかねやんなきゃいかんのかなとかねちょっと考えますよ。
いわゆるその起業企業を新しく起こすっていう。
いいヒントになる歴史上のいい人物誰かいませんかね?先生。
いますよ。
誰ですか?北条早雲と呼ばれてる人で戦国大名の先駆けっていうふうに見られてる人で。
彼のやり方が基本的には戦国大名の基本スタイルになりそれがそのまま江戸時代の大名の基本スタイルにもなりますので。
そうすると信長とか秀吉もこの北条早雲の後を追ったという事なんですか?そうですねみんなまねてますね。
そうか。
そうするとそれじゃ北条早雲いいですね。
偶然にも今日のテーマは「新しい組織を作るには?」。
もう用意してあったんじゃないじゃあ。
そっちへ持っていこう持っていこうとしたんですか?分かりました?ちょっとまだ腕が足りなかったですね。
という事で今日は北条早雲の知恵味わって頂きたいと思います。
日本史の中でも特に人気の高い戦国時代。
自らの武勇と知略を懸けて生き抜いた戦国大名たち魅力ありますよね。
今日取り上げるのはこうした戦国大名の中で最初に登場したといわれる人物。
生まれは信長より60年ほど前の15世紀半ば。
伊豆相模の2か国を支配下に収めそれまでにない新しい国づくりに成功しました。
ところで皆さん早雲といえば一介の浪人から下克上によって大名に成り上がった風雲児というイメージがありますよね。
しかし近年の研究でその人物像が一変しているのをご存じでしょうか。
早雲は名門の家の出身で室町幕府の高級官僚だったというのです。
また最初に登場した戦国大名という点から現代のビジネスマンも顔負けの起業家としての側面も注目されています。
果たして早雲の実像とは?なぜ戦国大名の道を歩みどのように新しい国をつくり上げたのでしょうか?というわけで今日のお薦めは北条早雲。
イメージが全く最近になって変わってきたという人物なんですが大木さんはそもそもご存じでしたか?いや名前ぐらいです。
何かもう昔の人でしょうって感じです。
ハハハ!昔の人を取り扱ってる番組なんですから。
先生戦国大名ってね私たちよく言いますけれどもこれそもそもどういう位置づけにある人間なんですか?戦国大名を簡単に言うと日本の中で初めて出来た地域国家みたいな感じですね。
もうそれだけで一つの独立国家なので。
それまでにも守護大名とかそういう人たちはいましたよね。
それとは違う?それとはもう全然違っていて守護大名っていうのは幕府から任命された地方長官みたいなものなので。
県知事さんのような役割。
その地域の軍事とか一部の行政を担当するという事なんですけど戦国大名はある地域を全て丸ごと治めるという形なのでそこの支配には他の人はもう全くタッチできないので完全な独立国家だと思って頂いて結構だと思います。
一つの地方の県知事さんではなくて一つの国の総理大臣というか大統領?王様ですね。
私イメージが全く変わった人物ですというふうにご紹介したんですけどかつてはどういうふうに見られていた。
かつてはですね伊勢今の三重県ですけどそこの出身の素浪人だというふうに言われていたんです。
戦後になって研究が進んできて実は京都の室町幕府の有力な官僚の親戚だという事が分かってきたんです。
あら?じゃちゃんとした人だ。
相当スキルのある人間だという事が分かってきた。
先ほど大木さん起業したいと言って何のアイデアもなかったでしょう。
ないです。
言うだけですから。
それは駄目なんですやっぱりね。
言って満足ですから。
(笑い)いらっしゃいませ!お待ちしておりました。
こちら出口さんと。
こんばんは。
よろしくお願いします。
実はですね出口さんはベンチャー企業を立ち上げて大成功させたところの会長さんでいらっしゃいます。
まさに早雲と同じような歩みなんですよね。
そんな事ないんですけどね。
早雲の知恵を読み解くのは出口治明さん。
生命保険をインターネットで販売するという全く新しい形の会社を立ち上げ業界に新風を巻き起こしました。
もともと大手生命保険会社に勤めていた出口さん。
起業したのは退社後の60歳。
それまでの生命保険といえば全国各地の担当者が顧客を回り対面で契約を取る形が一般的でした。
出口さんはネットで販売すれば事務所の維持費や人件費の節約になり保険料を安く設定する事ができると考えます。
この戦略が特に若い世代に受け20万件もの契約を獲得。
売り上げは70億円を超え創業から4年で東証マザーズに上場を果たしました。
全く新しい事業を成功させた出口さん。
全く新しい国づくりを成し遂げた北条早雲の知恵をどう読み解くのでしょうか?大木さん60歳で起業ですよ。
ちょっと驚きましたね。
どういうきっかけで60歳から?きっかけはですね友人の友人に紹介されて「会社をつくりませんか」と言われてつい「いいですよ」と言っちゃった事がスタートなんですけれど。
ついついですか?ええ。
お年を重ねられてもそこに新たに飛び込んでいこうという勇気これはどういう感覚だったんですか?僕は年齢フリーでいつも考えてるんですけれど。
年齢フリー?はい。
今は人生80ぐらいですよね。
二十ぐらいまでは学生とかまあ親に養ってもらってるわけですから人間やってないんですよね。
まだ。
まだそこでは。
それで20から社会に出ると考えたら人生80年という事は60年社会で生きていくわけですよね。
真ん中が50ですよね。
50ぐらいというのはマラソンでいえばちょうど折り返し点なんでそうすると半分走ってきたんで世の中の事もそこそこ分かってるし応援してくれる人がいるんで頑張れとか。
そうするとあと半分走るんだから初めの半分よりは楽ですよね。
という事は年を重ねた方が起業つまり会社を起こしたりするには有利だっていうふうにお考えですか?マラソンで半分走ってきて帰り道も分かってるといろんな事が分かってるという面では有利ですよね。
これはちょっとね今日勉強していかなくちゃいけないですよ。
まずね北条早雲の生き方から学んでみたいと思うんですけど北条早雲が戦国大名への道を歩む事になった。
どういう道をたどってそこにたどりついたのかというところから見ていきたいと思います。
近年の研究から徐々に実像が浮かび上がってきた早雲。
実は伊勢氏という名門一族の出身だという事が分かってきました。
早雲はこの地を治めていた高越城主伊勢盛定の子として生まれます。
伊勢新九郎盛時と名乗っていました。
伊勢氏は代々室町幕府で要職を歴任。
平家の流れをくむという家柄です。
伊勢氏の菩提寺法泉寺には若き頃の早雲が「平盛時」と署名した文書が残っています。
早雲は素浪人どころか幕府と深い関係を持つ名家の出身だったのです。
早雲は若くして将軍足利義政の弟義視に近侍として仕えたと考えられています。
義視は嫡男のいなかった兄義政から後継者に指名されていました。
義視は自分が将軍になった暁には…。
早雲をとても感動させたという逸話が残っています。
そんな早雲の運命を一変させる出来事が起こります。
将軍義政に嫡男義尚が誕生。
もともと後継者に指名されていた義視との間に争いが勃発したのです。
義視を推す東軍16万と義尚を推す西軍11万6千が京で激突。
中世最大の内乱応仁の乱です。
戦いは地方にも飛び火しながら10年以上続きました。
京の町は灰じんに帰します。
家と食べ物を失った人々が町をさまよい飢えと病で多くが亡くなりました。
こうした中将軍になった暁には民のための仁政を行うと言っていたはずの義視は伊勢へ逃げ出します。
一方このころの早雲の消息はあまりはっきりとは判明していません。
しかし研究者たちは応仁の乱を目の当たりにした早雲が当時ある野望を抱きその準備をしていたと指摘しています。
そのまま室町幕府に仕えていればやっぱり応仁・文明の乱の余波でそのまま戦乱の世に自分も身を置く事になる。
むしろ…何とか…そんな思いで何か理想の国作りしたいなというそういう思いがあったと思います。
早雲がその姿を再び現すのはおよそ8年後の文明8年。
場所は駿河国。
早雲の新たな人生の幕開けでした。
今回は北条早雲という形で名前を使っておりますけれども北条早雲でない名前というのもあったようなんですよね。
北条早雲というのは基本的には江戸時代の人が呼んだ呼び方で当時は伊勢新九郎盛時とかあと出家後は伊勢宗瑞というふうに言っていて。
北条の名字に変えるのは2代目子供の代からなんですね。
なので江戸時代の人はそのあと北条が5代続きますのでそのイメージが強いのでその初代っていう事で北条早雲っていう言い方をしてるという事です。
今回のお店では皆さんなじみの深い北条早雲という形で呼ばせて頂きますが。
この応仁の乱というのは彼の人生には非常に大きな影響を与えたものなんでしょうかね?そのころはまだ元服前の子供だったと思うんですけどもその時にやっぱり首都が焼けてしまうというのは相当な衝撃を受けたと思いますし応仁の乱の直前にもですねずっと飢きんが続いていて飢餓難民が飢きんのたんびに京都に流入してくるっていう状況があって何とかしなければというふうには思ったかもしれませんよね。
出口さんは会社を起こす際どういうような理念というんですか?理想を。
どういう事をお持ちになって起こそうと思ったんですか?当時生命保険は不払い問題がすごく問題になっていて。
生命保険っていうのは本来いざという時にお金をお支払いするのが一丁目一番地なんですよ。
だからその保険業界が保険金を払わないというのはすごく大きい問題だと思って。
しかも今の日本では20代を中心に所得は低いわけですから昔のように高い保険を売っていてはみんなが入れないと思ってたんで。
インターネットを使って保険料を半分にして安心して赤ちゃんが産める社会をつくりたいと思って60歳で開業しました。
今お考えになっている出口さんの起業する時のコツってどんな事ですかね?一番のコツは僕は正直な事だと思いますよね。
自分が考える事を本当に正直に飾らずにほんとにこう思いますという事をやっぱり言い続ける事でこの人は裏表がないとかこの人はほんとに思った事を言ってるとか。
特に起業というのはゼロからつくるわけでいろいろな人に応援してもらわなければできないわけですから信頼できるというところが一番のベースになるような気がしますけれど。
理念が受け入れられても実際の起業というのはさまざまな障壁があるものですよね。
早雲はどういう知恵を使って新しい組織を立ち上げていったんでしょうか?早雲がその姿を現した駿河国。
駿河の当主今川義忠には早雲の姉北川殿が嫁いでいました。
実はこの年義忠が合戦で討ち死に。
嫡男の竜王丸が幼かった事から当主の座を巡り家中で争いが起きていました。
その解決に北川殿が早雲を呼んだのでした。
早雲は北川殿を助け竜王丸を見事当主の座につける事に成功します。
早雲はこの手柄で駿河国の東部伊豆との国境に近い興国寺城を与えられます。
ここから早雲は自分の思いどおりの国をつくるという夢の実現に突き進みます。
目を向けたのは隣の伊豆。
当時伊豆を治めていたのは…政知は前将軍足利義政のいとこで鎌倉一帯を統治するため京から派遣された人物です。
しかし政治手腕が低く民からあまり支持されていませんでした。
また兵力も少なかったため早雲にとって必ずしも強敵ではありませんでした。
ところが早雲は性急に攻撃をしかける事はしませんでした。
伊豆に侵入しなんと温泉につかりながらゆっくり情報収集しているのです。
そして湯治客から伊豆の内情についての重要な情報を聞き出します。
政知が長男茶々丸を嫌い後妻の子である三男潤童子に家督を譲ろうとしているというのです。
早雲は伊豆で騒動が起きる事を予測。
それまで待つという姿勢を選びます。
早雲の読みどおり政知が死去するや…幕府の許可なく2代目堀越公方を名乗ります。
更にこれに反対した重臣2人を切腹させるという暴挙に出て家中を大混乱に陥れました。
ここで早雲は攻めるか?しかし彼はまだ待ちます。
あるものが京から届くのを待っていたのです。
それは将軍による茶々丸討伐命令でした。
そのころ京では11代将軍に足利義澄がつきました。
実はこの義澄堀越公方だった政知の次男。
長男茶々丸とは腹違いの兄弟でした。
一方潤童子とは母親が同じ。
つまり将軍義澄は茶々丸に実の母と弟を殺されたのです。
早雲は茶々丸討伐命令が出ると確信。
それを待ったのでした。
そのもくろみは当たり早雲は茶々丸を追放。
伊豆を手に入れます。
決して性急に攻めずベストな瞬間を待つ。
早雲は少ない犠牲で大きな成果をあげたのでした。
もう「早雲」というね名前が付くぐらいですからほんとにバーッといくのかと…。
結構忍耐強い人なんですかね?きっちりと布石を打ちながら条件が整った段階で行動をしてるっていうふうに考えられると思うんですね。
「待つ」っていうのは単純に何もしないで待つんじゃなくて次にステップを進めるために動くために待つという事なんでしょうね。
そのとおりで何したらいいか分からないから何にもしないというのはやっぱり「待つ」じゃないと思うんですよね。
「待つ」という意味は何かするために待つわけですから。
だから「待つ」というのはすごくある意味では積極的な態度だと思いますけどね。
出口さん起業のタイミングというのもあると思うんですがこれやっぱりどう計って…。
僕は誰にも分からないと思うんですよ。
結果的には後から分かるものであってですねちゃんと布石を打って丁寧にやった方がうまくいくケースもあれば勢いに乗ってワーッといった方がうまくいくケースがあって。
大事な事は僕は全てのチャレンジがうまくいくとはかぎらないんで自分なりに考えて…やっぱり動く事が…行動したらまた局面は変わってくるんで行動がすごく大事だというふうに思います。
一方でその直感を大事にしろともおっしゃいますよね。
人間の脳の構造って無意識で動いてる部分がものすごく多いというんですよ。
だから…何か資料に落としてみたらこちらの案の方が正しいんだけれど何かこれやりたくないとか。
それは意識できない部分の情報も全部脳が判断してこれ考え直した方がいいんじゃないかと言ってるんで。
直感っていうのは単なる勘じゃなくて脳のフル回転だと思うんですよ。
何かこれ大丈夫やろかと思う時は直感が止めてるんですよね。
その時は僕は直感に従った方がいいと思います。
直感ってでも何かなかなかどうやって身につけたらいいか。
いろんな人に会うとか本を読むとかいろんなとこに出かけていっていろんな情報を入れるしか直感を鍛える方法はないですよね。
経験値の集積が直感につながっていくわけですね。
新しい組織を立ち上げるには待ってそして直感を信じるというお話がありましたが早雲には他にもこんな知恵があったんですね。
後に北条家が本拠地を置いた…創業100年の老舗和菓子店があります。
店の一番人気がこちらのもなか。
早雲が自分の印に用いた文字があしらわれています。
その文字とは…。
北条家がですね領民に向かって長生きして平穏に暮らしてほしい。
そういうふうな願いを込めて作った文だと聞いております。
民が健やかに豊かに暮らせるようにという願いを印にまでしていた早雲。
ちょっといい人すぎ?しかし確かにそういう人物だったと思わせるエピソードがいくつも残っています。
例えば早雲が伊豆に攻め入った時の事。
ある村を通りかかるとどの家にも病人だけがおり皆伏せっていました。
驚いた早雲が病人に尋ねると「早雲様を恐れて元気な者は村を逃げ出してしまいました。
動けない自分たちだけが残されたのです」。
早雲の家臣たちはこの病が死に至るものだと知り病人を放置して先に進もうとしました。
しかし早雲は僅かな可能性に懸けます。
医者を呼び寄せ薬と食事を与えました。
しかも進軍を取りやめて家臣全員で看病に当たらせたのです。
その結果皆が奇跡的に回復。
逃げた村人は安心しことごとく戻ってきたとか。
敵国の村人にも温かな対応をとった早雲。
伊豆を手に入れたあともその方針で臨みます。
ある時領内にこんな高札が立てられました。
「これまでは年貢が高く農民が苦しんでいると聞いた。
今後は年貢を五公五民から四公六民に改める」。
つまり前領主堀越公方の時は収穫の5割半分を税金として納めなければならなかったのを早雲は4割でよいとしたのです。
更に徴収する役人がこれに背けば遠慮なく訴え出るようにと伝えます。
こうした早雲の行動に他の国の農民たちは我らの国も早雲殿の国ならばと願ったと記録されています。
農民への手厚い保護。
そこには国を安定して統治するという冷静な思惑もありました。
その場での収入は低くてもそれが要するに農民たちが逃げちゃったり田畑が荒れたらならばこれはもう年貢収入ほとんど入ってこなくなっちゃうわけですからそれに比べたら当座の収入は1割減るかもしれないけれどもそれでむしろ…という判断を早雲はしたと思います。
人々を思いやる。
すると組織が強くなる。
早雲は農民だけではなく家臣に対しても同じ姿勢でした。
戦場では一粒の豆や僅かな酒でも皆に分け与えたと記録に残されています。
これに対し多くの家臣たちが「早雲様のためには命も惜しくはない」と語ったといいます。
こうして家臣団に強い結束力を生み出した早雲。
やがて相模国も手に入れ北条家は関東の覇者へ上り詰めていきます。
まずは人々の幸福を考える。
利益は後からついてくる。
早雲は長期的な視野で統治に臨む事で新しく国を立ち上げる事に成功したのでした。
優しい温かい。
こういった仁政っていうんですかね?そういったのは応仁の乱を目の当たりにしたという経験は大きかったんでしょうかね。
そのころに仕組みが壊れ始めているのでどうしたらいいんだろうというような事は考え始めていたと思うんですけど直接のきっかけになったのは明応大地震っていうのがあるんですが太平洋岸一帯がもう四国の方まで津波被害に遭ったような記録に残る地震なんですけれどもその時に災害復興政策をとるんだと思うんです。
その時に減税をするんですね。
早雲も慈善事業をやってるわけじゃないですもんね。
戦国大名が一番課題なのは軍事費ってすごいかかるんです。
今もかかりますけど。
それを地域を領土にするという事から領民からも取るようになるんです毎年毎年。
それを毎年払ってくれないと戦争できないんですよ。
それが払えるような状況を維持するっていう。
だから領民から軍事費を出してくれなくなると滅びます簡単に。
このお店にもたくさんの方がお越し頂いてね必ず皆さんがおっしゃる事社会のためになるんだ。
お客さんが喜ぶのが一番なんだ。
そのあとに利益がついてくるんだとおっしゃるんですよ。
会社の組織であればやはりトップラインというか売り上げはちょっとずつでも伸びていった方がいいし利益も少しずつ上がっていかなければ士気も上がらないし。
そのためにはどうすればいいかといえばやはりお客様に支えて頂くしかないわけですよね。
そうするとどうやったらもっとお客様に喜んでもらえるだろうかとかどうやったらファンになってもらえるだろうかという事を考えると。
ネットで売ってますけれど3か月ごとにお客様に自由に来て頂いてお客様の声を聞いたりですね僕が講演とかいろんな場に出かけていった時にはどういうところがやはり生命保険で不満ですかとか困ってらっしゃいますかという事をやっぱり聞くようにしてますけれど。
お客さんが何がうれしいのかという事を探っていくという事なんですね。
早雲は謎だらけの人物といってもいいんですけれども実は最近居城の小田原城の発掘調査が行われまして。
これねお宝映像が撮れたんです。
というふうに「知恵泉」の特命店員が報告してくれました。
こちらをご覧頂きましょう。
主人公ゆかりの地から取って置きのネタをお届けする…。
特命店員の飯塚です。
今回は北条早雲という事でやって来ました。
小田原城立派なお城ですよね。
あのお城は江戸時代に造られたものを復興したものです。
早雲の頃戦国時代の姿とは全く違うんですね。
(飯塚)
では戦国時代の小田原どんな様子だったかというとこんな記録が残されています
「山海の珍味異国の品々琴棋書画が山のように積まれ民は豊かな生活を送っている。
昔の鎌倉以上の繁栄である」。
町でさえこの豊かさ。
お城もさぞや贅を凝らしたものだったに違いありません
実は5年前から進められている小田原城の調査で北条家の繁栄を裏付ける遺跡が発見されました
こんにちは。
こんにちは。
NHKの飯塚です。
よろしくお願いします。
この辺りで戦国時代の遺跡が発掘されたと聞いたんですけど。
今まさに現場発掘調査中で今出てきてるところです。
発掘されているのは城の北側の部分。
広さおよそ1万平方メートル。
江戸時代の米蔵跡を調査している時に偶然戦国時代の遺構が発見されたそうです
この辺からご覧頂けると。
これは?
(佐々木)戦国時の池の跡になります。
(飯塚)池ですか?。
(佐々木)はい。
外周が100メートル近くある大きな池でして。
100メートルもある。
えっそんなに大きな。
そうですね深さが2メーター近くあるものになります。
それがどれくらいの大きさかというと…
戦国時代に造られた人工的な池でこれほど大きいものは東日本では発見されていないそうです。
更に驚くべき事がありました。
池のへりの部分に注目。
内側に切石が整然と張られ崩れないよう補強されていたのです
このような例も他では見られないとか。
切石を裏返してみるとなんと供養塔の一部。
供養塔を使うなんてどういう事?
織田信長が石塔とかを墓石を安土城二条城などに使うという事で信長が非情だとか言われますけどこちらでは2,000点以上の石塔を使ってますので信長以上に北条氏は非情な事をしてるという事になるかもしれませんが実際はそういう事ではなくて便利なものは便利に使うという当時の考え方が現れているんだというふうに思っています。
池から10メートルほど離れた場所でも切石を使った遺構が発見されました
(佐々木)初めてご覧になると結構驚かれると思います。
(飯塚)お〜すごい!
(佐々木)これが切石敷きの庭園というふうに評価している所になります。
こちらの切石は色とりどり。
カラフルな切石をモザイク状に敷き詰めた庭だったそうです
古代ローマの遺跡じゃないですがそんな感じですよね。
小田原城にこんな異国風のデザインがあったなんて意外。
色とりどりの石は領内各地から集められたそうです
(佐々木)黄色い石が三浦半島で採れる凝灰岩黒い石が箱根の凝灰岩になるんですがそれを幾何学的に切り出しましてモザイク模様のように貼り合せている様子というのは日本にはありませんのでどこから誰の発案でこういうものを造ったかというのはよく分かっていません。
またこの場所には10以上の屋敷が建っていたと考えられています。
最大のものは幅13メートルもありました。
巨大な池幾何学模様にデザインされた庭園立派な屋敷。
これらはどのような目的で造られたのでしょうか?そのヒントとなる遺構がこちら
井戸になります。
ほんとだ井戸です。
すごい深い!深いさはどれぐらいですか?
(佐々木)5メーターぐらいあります。
井戸の周囲にはこちらもやはり切石が敷き詰められ更に内側は白い石で化粧されていました。
このように装飾された井戸は城の中でここにしかありません
ここからくみ上げられる水も多分特別な使い方をされてたものだったんではないかというふうに考えています。
実はすでに埋め戻しをしてしまってる部分で湯屋ではないかという部分が見つかっていまして。
そういうところでこの水は使われましてその水で体を清めて大きな建物の方に移って儀式や宴会をするような場所ではあったんではないかという事が井戸や庭園の存在から考えているわけです。
こういうものはなかなか当時造れなかったとも思いますし経済力技術力を含めても小田原北条氏の特徴といいますか個性を表しているというふうには思います。
調査が進めばこれまで知られていない全く新しい北条家の姿が浮かび上がるかも。
遺構がこれだけ完全な形で残ったのは小田原城が秀吉から攻められ北条家が籠城した際兵を駐屯させる場所として自らの手で埋めたからだとか。
そのため秀吉もそして後年小田原城に入った家康もその足元にこれほどぜいたくな庭や建物が眠っているとは想像しなかったでしょう
佐々木さん掘り返してみてどうですか?そういう有名人も見た事のないものですからこういうものが今巡り会えて出会えたっていうのは幸せだというふうには思いますね。
小田原北条氏の歴史ですとか戦国時代の関東の状況を覆すような発見もありうると思いますので今後努力してまいりたいと思います。
という事でここ小田原の地から戦国時代の歴史が大きく変わるかもしれません。
店長楽しみにしていて下さい。
以上特命店員の飯塚でした。
実はすごい発見だったようなんですよ。
何か面白そうですね見てたら。
この撮影の直後にまた遺跡の保護のためにあそこは埋め戻されてしまったので。
そうなんですか?あれ。
そうなんですよ。
あの姿を見られるのは今回が最後かもしれない。
ああいうのって見たら戻さなきゃいけないんですか?そのままさらしておくと壊れちゃうんで遺跡は。
そうなんだ。
もったいない気もしますけれども。
一応記録はちゃんととられてますから。
記録とれました?ちゃんと。
大丈夫かな?これ非常に貴重なものなんですよね。
貴重どころじゃないでしょうね恐らく。
こういう庭とかは今まで類例がないので基本的に戦国大名の文化って…戦国大名が力を持った時に室町の文化が地方に開いたっていうふうに言われていたんですけどあれはもう全然その様式ではないので全く新しい…もしかしたら中国とつながってたのかとか。
そういうのもあるかもしれませんしね。
そこら辺はそういう庭園の研究者とか文化の研究者がこれから一生懸命調べてくれるのではないかと…。
今日は一国一城の主に上り詰めたね北条早雲の知恵見てまいりましたけれどもさあ最後に出口さんにお伺いしましょう。
起業のための極意というのを教えて頂けますでしょうか?早雲をずっと見ていてダーウィンを思い出したんですけれどダーウィンが言ってますよね。
強いものや賢いものが生き残るんじゃないと。
世の中は常に変化していて何が起こるか分からないんだからそこにきちんと対応できるかどうかが全てだと。
早雲のお話を聞いていたらきちっと対応してますよね。
だからある意味ではまだ僕は6年しか経営はやってませんけれど経営って我慢のような気がしますよね。
そこがやっぱり鍵のような気もしますよね。
起業したいっていう参考になったんじゃないですか今日。
ちょっと参考になり過ぎて俺には無理かもと思いました。
(笑い)まだ40でしょう。
50でちょうど真ん中ですから。
我慢ですよ我慢。
起業したあとにどうやってこの会社を広げていくかも大事でしょ。
そこも知りたいでしょう。
つくったら最後じゃないですから。
つくってからですから。
そうなんですよ。
その辺りはね来週たっぷりと味わって頂きますんで。
またこのメンバーでね集まって頂けますか?そうしないとなかなか一見さん来てくれませんのでね。
来ませんよ。
ここの店一見さん来ないですからねほんとに。
待ってるだけじゃ駄目なんだな〜。
行動ですね。
行動ですね。
一緒にちょっとチラシまきにいきましょう。
お客さんですから。
何でまくんですか?僕が。
お願いしますよ。
よろしくお願いします。
2015/03/10(火) 05:30〜06:15
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) 新しい組織を作るには?「北条早雲」[解][字][再]
最初の戦国大名と言われる北条早雲が登場!一介のろう人から大名に成り上がった風雲児というイメージがあるが、近年の研究でその姿が一変。謎の多い人物像が今、明らかに!
詳細情報
番組内容
放送希望の多い北条早雲が登場!信長より60年ほど前に生まれ、「最初に登場した戦国大名」と言われる。新しい国を作るにあたって打ち出した斬新な政策は、のちの戦国大名たちがこぞって取り入れた。早雲といえば、一介のろう人から下克上によって成り上がった風雲児というイメージ。しかし近年の研究でその実像が一変している。早雲は一体、何者なのか?なぜ戦国大名への道を歩んだ?謎の多い人物像を最新研究から明らかにする!
出演者
【出演】ライフネット生命保険(株)会長兼CEO…出口治明,駿河台大学教授…黒田基樹,ビビる大木,【司会】井上二郎
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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