震災から4年。
宮城県女川町の上空です。
高さおよそ15メートルの津波によって、町は壊滅的な被害を受けました。
かつての町の中心部です。
津波に強く、住みやすい町を再建しようと、かさ上げ工事が進められています。
ここに役場や学校、病院などを集めた、コンパクトな町を作ります。
その中心となるのが、この白い屋根、JRの女川駅です。
200メートルほど内陸に移して建て替えられました。
駅からは真新しい線路が延びています。
JR石巻線です。
震災から4年を経て、今月21日に運転を再開します。
こんにちは。
東日本大震災発生からきょうで4年となりました。
地震が発生したのは午後2時46分、この番組中にその時刻を迎えます。
きょうは時間を延長して今もさまざまな課題を抱える被災地からのリポートや、政府主催の追悼式のもようなどをお伝えしていきます。
被災地ではきょう、亡くなった方への祈りが続いています。
震災から4年。
朝早くから、手を合わせる人の姿が。
宮城県名取市の墓地では、亡くなった息子を悼む母の姿が。
大川ゆかりさんです。
中学2年生の息子、駿さんを亡くしました。
駿さんが大好きだった卵焼きの入ったお弁当を持ってきました。
野球部のエースだった駿さん。
墓石には、マウンドで投げる姿が刻まれています。
各地で行方不明者の捜索が行われました。
警察庁のきのうまでのまとめによりますと、死亡が確認された人は、12の都と道と県の合わせて1万5891人、行方不明者は、6つの県の2584人となっています。
そして、およそ22万9000人が、今も避難生活を余儀なくされています。
福島県浪江町から避難している女性は。
被災地では、追悼と復興への祈りが続いています。
それでは被災地の今の様子をお伝えします。
全国で最も多い4000人が犠牲になった、宮城県石巻市から中継です。
宮城県石巻市日和山です。
標高はおよそ60メートル。
4年前、多くの方々がここに避難してきました。
きょうも朝から、途切れなく人々が訪れ、手を合わせたり花を供えたりしています。
この日和山のふもとには、住宅街が広がっていました。
津波でほとんどの建物が流され、今はさら地になっています。
お寺が見えるかと思います。
それよりも海側の多くの地域は、災害危険区域に指定され、住宅を再建することはできません。
この災害危険区域に、震災の記憶を伝えていこうと、復興祈念公園を作ることになりました。
国や県、石巻市は、先週、基本的な計画をまとめました。
これがその模型です。
さら地が広がっていた場所には、追悼式典などを開く広場を、また一時的に避難できる小高い丘を作る計画もあります。
今後、市民などの意見を募り、平成32年度中の完成を目指しています。
震災の記憶を伝えていく取り組み。
震災の記憶を話して伝える、語り部活動にも広がりを見せています。
石巻で活動するNPOが作っているのが、こうしたタブレットやスマートフォンを使って、震災前の写真などを見せながら、被災地を歩く活動です。
今、このタブレットのカメラで、石巻の今の姿を映しています。
これを操作しますと、徐々に震災前の町の姿の写真に変わっていきます。
これが震災直後、震災から数か月とさまざまな写真を見ることができます。
こうした道具も使って、震災が石巻の町をどう変えてしまったのか、伝えようとしています。
このソフト、この1年で2000人が利用しました。
語り部の話を聞く参加者は、最近は、子どもたちの震災学習など、徐々に数が増えてきているということです。
語り部の1人は、あのとき、もっと備えていれば、ああすればもっと命を救えたのではないか。
正直な悔しいという気持ちを伝えていきたいと話していました。
2時46分、石巻では、防災無線からサイレンが流れ、黙とうが行われます。
宮城県石巻市でした。
さまざまな方法で震災を伝えていこうとしています。
NHKでは、4年たった今、被災した人々の声を聞こうと、アンケートを行いました。
こちらです。
ことし1月から先月にかけて行い、岩手、宮城、福島の3県で被災した701人から回答を頂きました。
結果を見ていきます。
担当しました社会部の松枝記者とお伝えします。
松枝さん、まずは復興についてですね。
そうですね。
まずアンケートでは、震災時に暮らしていた地域が復興が進んでいると感じるかどうか尋ねました。
その結果なんですが、復興が進んでいると感じる人は35%、一方で復興に遅れを感じている人は65%。
今でも回答した3人に2人が復興の遅れを感じている状況なんです。
この復興が感じられないという背景には、何があるんでしょうか?
どういったことに遅れを感じるのか、分野ごとに尋ねてみました。
その結果なんですが、宅地の供給ですとか、災害公営住宅、これは仮設を出たあとに暮らす所なんですけれども、そうした住まいに関する分野に遅れを感じていると答える割合がすごく高かったんですね。
その背景には、仮設住宅で暮らすことが長期化している、また災害公営住宅についても、ことし1月末の国土交通省のデータでは3県で、いずれも計画に対してできた割合というのは10%台にとどまっているんですね。
住まいに関する再建を進めることは、3県共通の課題だと思います。
復興の実感を3県、見てみると、違いというのはあるんでしょうか?
そうですね、特に福島県なんですけれども、復興が進んでいる実感が持てないという方が45.5%と、半数近くになっています。
原発事故で大きな影響を受け、今も避難区域が指定されている福島県では、住まいの再建に加えて、戻れないという方も多いんですね。
そうしたことが要因に挙げられると思います。
ではその福島県の今の様子をお伝えします。
町内全域が避難区域に指定されている富岡町から中継です。
福島県の富岡町です。
東京電力福島第一原子力発電所から10キロの所にあります、海沿いの商店街です。
私の後ろ200メートルほどの所に海岸線があります。
4年前、向こう側からこの商店街に津波が押し寄せました。
この商店街では、4年前の大津波に襲われたままの姿が、今も残されています。
こちらです。
商店街の中心にあるコンビニエンスストアです。
1階部分まで津波が押し寄せました。
中を見てみますと、自動ドアの枠組みが、大きく内側に曲がったままです。
こうしたままの状態が残っているのは、原発事故で町ごと避難せざるをえなかったからです。
4年たった今も、町には避難指示が出されています。
そうした中で、今、急ピッチで進められていることがあります。
それが除染です。
商店街から海沿いにカメラを向けていきますと、見えてきます。
黒い袋、これがすべて町じゅうから集められた除染で出た土などの廃棄物です。
1日に2000袋から3000袋が運び込まれてきて、ここには今、14万袋があります。
津波と原発事故という、2つの困難を背負って戦い続けている富岡町の今の姿です。
私のいますこの商店街も、再開発の計画があります。
町の姿が変わっていく中で、今、町ではなんとか、震災と原発事故の記憶を伝えようと、ある取り組みが動きだしています。
富岡町の職員、三瓶秀文さんです。
原発事故を後世に伝えるためには、語り継ぐものを残す必要があると考えています。
三瓶さんが残そうと考えているのが、当時の町の災害対策本部です。
津波、曲田小浜地区の車両流されている。
4年前に書かれた文字、そのまま残されています。
原発事故のため町ごと避難し、今も戻れないためです。
手書きのメモで残された、避難の呼びかけ。
当時は原発の状況に振り回されました。
炊き出しで作ったお握りも、当時のまま、残っています。
こうした建物をそのまま保存するかどうかは決まっていません。
そこで、仮想空間として保存することにしました。
大学などの協力で、被災した車や建物などを3次元のデータとして記録。
コンピューターグラフィックスで空間を再現し、その場所にいるかのように、遺構を感じることができるようにしたのです。
三瓶さんは、災害対策本部など、町の遺構を丸ごと記録することで、原発事故の現実を伝えようとしています。
再び富岡町から中継です。
こちら、富岡町の商店街から収集されました、震災の遺産として収集されました掛け時計です。
地震のあった2時46分を差したままになっています。
こうしたものを収集して後世に伝えていこうと活動されていますのが、福島県立博物館の学芸員の高橋満さんです。
よろしくお願いします。
高橋さん、福島では原発事故がありました。
そういった福島の震災遺構が伝えるものというのは、どんなものでしょうか。
そうですね。
原発の災害というのは、直接何かを壊すというようなことではないんですけれども、この商店街のように、4年前の姿がそのまま残っているというのは、まさに原発事故の影響だと思ってます。
そして収集した資料の中には、そういった地震とかで壊れたものではなくて、日常の生活というものが断ち切られたままになっている、そういったものが多くあるっていうのが非常に印象深いので、そういったことが起きたんだということを後世に、あるいは広く一般に伝えていきたいなと考えています。
高橋さん、ありがとうございました。
震災と原発事故から4年。
福島県の富岡町から中継でお伝えしました。
松枝さん、福島の原発事故を思いますと、4年というのは長い道のりの始まりだと感じますね。
そうですね。
私も去年の秋、三陸を岩手から福島まで取材で歩いてみたんですけれども、非常に感じたことは、復興への実感を見た目で感じれるかどうかというのは、すごい差があるなと思いました。
津波で被害を受けた岩手、宮城は、課題はたくさんあるんですよ、まだ。
ただ、非常に高台のかさ上げ工事とかですね、見た目で復興に動いているという実感が持てるんです。
一方、福島の避難区域なんかで、先ほど富岡の例もありましたように、震災当時のままの状況がまだ残っていて、時が止まったのではないかと錯覚するような場所もまだまだあるんですね。
福島県では、今なおおよそ12万人の人が県内外で避難生活を強いられています。
いつ帰還できるのか、メドが立たない状況もありまして、まだまだ時間はかかると思います。
復興の遅れを感じる人が福島で多いということですね。
本当に長い道のりです。
被災地の人たちは親、息子、そして大切な仲間との別れを余儀なくされました。
今回のNHKのアンケートでは、被災者の人たちに、亡くなった人への思いを記してもらいました。
岩手県大槌町の男性です。
宮城県南三陸町の男性です。
アンケートでは、亡くなった人の生きた証しを伝えたいという思いも寄せられていました。
岩手県で被災した大学教授の男性です。
この写真展に込められた思いを取材しました。
おとといから東京のギャラリーで開かれている写真展です。
三陸の川に住む貴重な生き物。
朝焼けに染まる大船渡の海。
震災前の三陸の自然を捉えた写真25点が展示されています。
撮影したのは、25歳で津波に巻き込まれて亡くなった、井形智史さんです。
当時、岩手県陸前高田市の博物館に勤めていました。
千葉県出身の井形さん。
岩手県にキャンパスがある大学に進学したことがきっかけで、三陸の海や川の生物の研究を続けていました。
写真展を企画した朝日田卓さんです。
井形さんの大学時代の担当教授でした。
朝日田さんにとって井形さんは、人一倍熱心に研究に取り組む、印象深い学生だったといいます。
夜通し、実験をして迎えた朝、屋上で一人、カメラを構えていた井形さんの姿が記憶に残っています。
しかし、井形さんが撮った写真も、研究成果も、津波ですべて流され、思い出の場所も今、少しずつ消えようとしています。
このキャンパスは震災で建物に亀裂が入り、来月には取り壊しが始まることになりました。
彼が生きた証しを残すことはできないか。
思い立ったのが、井形さんが撮影した写真で展示会を開くことでした。
教え子たちに呼びかけて、井形さんの写真を集めることにしたのです。
写真展に思い出の一枚を寄せた池田周平さんです。
大学時代、井形さんの1年後輩でした。
選んだのは、井形さんからもらったハナカジカという魚の写真です。
三陸など一部の地域に生息するハナカジカ。
震災当日の朝も、この魚を探して2人で川に潜りました。
写真を撮って、笑顔で別れたのが最後だったといいます。
池田さんは、今は東京の水族館で働いています。
行き詰ったとき、思い出すのは、春先の冷たい川の中で粘り強くハナカジカを探す先輩の姿です。
一枚一枚に思いが詰まった写真展。
彼が愛した三陸と名付けられました。
初日、井形さんの父親が駆けつけました。
大学に入ってからは、離れて暮らしていた親子。
息子が過ごした三陸での日々を知りました。
井形さんの生きた証しをなんとか残したいという皆さんの強い思いを感じましたね。
そうですね。
松枝さん、大切な思い出をつなぎ止めようとしているようにも感じましたね。
そうですね。
アンケートを読んでみますと、失った大切な人のことを忘れない、忘れてほしくないという思いは変わらず、むしろ、4年たって強まっているんじゃないかと感じました。
NHKが実施したアンケートでは、被災地の外に伝えたいことも聞きました。
岩手県山田町の女性です。
福島県南相馬市から避難している女性です。
宮城県南三陸町の女性です。
つながりを求める声、そして風化を危惧する声がありました。
松枝さん、この点でアンケートはどうだったんでしょうか?
こちらのデータをご覧ください。
震災から4年がたち、震災が風化しているかどうか感じますかと尋ねたんですね。
そう思う、ややそう思うと風化を感じている人は、全体の80%近くに上りました。
さらにどのような場面で、風化を感じますかと尋ねました。
複数回答で上位だったのは、政府の支援策、メディアの取り上げ方、被災地以外の人との会話、ボランティアなどの支援というもので、いずれも被災地の外との関わり方の中で、風化を感じるという回答が多かったんですね。
時間の経過とともに、被災地と被災地の外との人の間で、意識の広がりが出てしまうのではないかと、そういった懸念する声が数多く寄せられました。
その点、私も実感するところがありまして、私自身、手探りしてきたのが、被災地の外にいて、被災地とどう向き合っていくべきかということなんですね。
その手がかりを求めて、今回、初めて、被災地を訪れた大学生のボランティアに同行してきました。
若者たちが何を感じ取るのか、一緒に作業しながら、語らってきました。
岩手県の沿岸、陸前高田市です。
津波の被害を受けた一帯で土地をかさ上げするための工事が行われています。
そのすぐそばで、ボランティアの皆さんが草刈りの作業を行っています。
この日参加していたのは、大阪や北海道などの大学生6人。
ほとんどが初めての被災地です。
ボランティアの一人、山本晃平さんです。
被災地のために自分ができることを探したいと思い、参加しました。
3日間の滞在中、被災者と話を交わす機会がありました。
震災で息子を亡くした男性です。
この4年、失った家や店を建て直し、町の復興に向けて努力してきました。
さらに男性は、こんなことを言いました。
陸前高田に住んでほしい。
ボランティアとして短期間頑張ろうと考えていた学生たちにとって驚きでした。
夜、学生たちはこれからどうすべきか話し合いました。
初めて訪れた被災地。
山本さんに新たな決意をもたらしていました。
岩手県を訪ねまして、改めて実感したのは、震災は終わっていないということです。
復興に向けて、状況が変化するごとにさまざまな課題が出てきています。
そうした中で、やはり大事なのは、自分にできることを探して、続けていくことではないかと、学生たちを取材して感じました。
松枝さん、この支援についてなんですけども、アンケートではどうなってますか?
こちらのアンケート結果です。
被災地への支援は十分続いていると思いますかと尋ねました。
その結果、そう思わない、あまりそう思わないと回答した人は、およそ50%いました。
半数に上っているんですね。
そうなんですね。
被災地の支援といいますと、当初はがれきのいち早い撤去ですとか、仮設住宅を早く作ってほしいという、共通するニーズが大きくて、震災から4年を経ますと、非常に細分化している、家族構成、地域の違い、年代の違い、非常に細分化しているというのを非常に感じます。
そうした中で、支援につなげていくためには、被災地の実情を細やかにくみ取っていくことが大事なんじゃないでしょうか。
被災地の復興を後押しできるかどうか、これまでも支援ありましたけども、実はこうした復興に向けての支援というのは、これからが本番になるのではないかと感じました。
本当に、支援を続けていくということが必要ですね。
まもなく数分で、発生時刻の2時46分です。
ここまで社会部の松枝記者とお伝えしました。
では、ここで東京の国立劇場で行われる追悼式のもようを中継でお伝えします。
東京・千代田区の国立劇場です。
東日本大震災から4年。
政府主催の追悼式が、まもなく始まります。
犠牲となった人の遺族や、各界の代表者、各国の大使など、およそ1200人が参列しています。
式壇の中央には、東日本大震災犠牲者之霊と書かれた標柱が立てられています。
まもなく天皇皇后両陛下がご臨席になります。
天皇皇后両陛下が会場に入られました。
先導役は山谷防災担当大臣です。
天皇皇后両陛下は、この一年も宮城県など、被災地を訪問されました。
津波で大きな被害を受けた魚市場や、仮設店舗が集まる商店街を視察し、被災した人たちに励ましのことばをかけられました。
追悼式では、天皇陛下がおことばを述べられることになっています。
皆様、ご着席ください。
開式の辞、菅義偉内閣官房長官。
ただいまから東日本大震災四周年追悼式を挙行いたします。
式壇の中央にある標柱の周りには、花が供えられています。
被災地で育てられたスイセンやユリです。
この式壇には、被災したすべての人との強い絆という意味が込められています。
国歌斉唱を行います。
皆様、ご起立願います。
前奏に続いてご斉唱ください。
続きまして、14時46分の…。
まもなく東日本大震災が発生した午後2時46分になります。
犠牲となられた方々に黙とうをささげます。
この震災で亡くなった方と、行方が分からない方は、避難生活などで亡くなったいわゆる震災関連死を含めると、2万人を超えています。
仮設住宅をはじめ、親戚や知人の家など、避難先での生活を余儀なくされている人は、震災の発生から4年たった今でも、およそ22万9000人に上っています。
まもなく震災で犠牲となった方々に、黙とうをささげます。
この式典会場と多くの県、市町村の式典会場とが、画像中継により結ばれております。
それでは皆様、標柱のほうをお向きください。
ここに東日本大震災により、犠牲となられた方々に対し、追悼の意を表するため、1分間の黙とうをささげます。
黙とう。
黙とうを終わります。
ご着席ください。
式辞。
安倍晋三内閣総理大臣。
本日、ここに天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、東日本大震災四周年追悼式を挙行するにあたり、政府を代表して、謹んで追悼のことばを申し上げます。
掛けがえのない多くの命が失われ、東北地方を中心に未曽有の被害をもたらした東日本大震災の発生から4年の歳月が流れました。
いとしい家族、親類、友人を亡くされた方々のお気持ちを思うと、今なお、深い悲しみが胸に去来します。
ここに改めて、衷心より哀悼の意をささげます。
また被災されたすべての方々に心からお見舞いを申し上げます。
被災地に足を運ぶたび、復興の土音が大きくなっていることを実感します。
高台移転、被災者向けの住宅の事情は着実に前進し、復興は新たな段階に移りつつあります。
しかしながら、今なお、原発事故のために住み慣れた土地に戻れない方々をはじめ、23万人の方が厳しい不自由な生活を送られています。
新しい生活をスタートさせた方々も、生活環境への適応など、ご苦労は絶えません。
健康、生活支援、心のケアも含め、被災された方々に寄り添いながら、さらに復興を加速してまいります。
同時に今般の震災から得られた貴重な教訓を決して無にしないとの決意で、わが国全土にわたって、災害に強い強じんな国造りを進めてまいります。
被害を少しでも小さくするため、常に最新の英知を取り入れつつ、総合的な防災対策に政府一丸となって取り組んでまいることを、改めてここに固くお誓いいたします。
震災の発生以来、地元の方々、関係機関の大変なご努力に支えられながら、復興・復旧が進んでまいりました。
また、日本各地のみならず、本日ここにご列席の世界各国、各地域の皆様からも、多くの温かい支援の手が差し伸べられました。
そのご尽力に対し、心より感謝と敬意を表するものであります。
今週末から、仙台市において開催される国連防災世界会議においては、東日本大震災の教訓と被災地の復興の現状を、世界の皆様に向けて、発信いたします。
世界各地における防災対策に役立てていただければ幸いです。
そして今後、わが国の知見と技術を生かし、防災分野における、国際貢献を一層強力に進めてまいります。
この大地震による惨禍は、まさに未曽有の国難です。
しかしながら先人たちがいくたの困難を乗り越えてきたように、あすを生きる世代のために、私たちが共に立ち向かっていくことを、改めてお誓いいたします。
み霊の永遠に安らぐことを改めてお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆さんのご平安を心から祈念し、私の式辞といたします。
平成27年3月11日、内閣総理大臣、安倍晋三。
天皇陛下からおことばを賜ります。
東日本大震災から、4年がたちました。
ここに一堂と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。
4年前のきょう、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者・行方不明者が生じました。
テレビに映った津波の映像は、決して忘れることのできない、本当に恐ろしいものでした。
死者・行方不明者の中には、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事した人々があったことが、今も痛ましく思い出されます。
被災地で、また避難先で、被災者の多くが今日もなお、困難な暮らしを続けています。
特に年々高齢化していく被災者の健康は、深く心にかかります。
さらにこの震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、多くの人々が、住み慣れた地域から離れることを余儀なくされました。
今なお、みずからの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと、心が痛みます。
この4年間、被災地においては、人々が厳しい状況の中、お互いの絆を大切にしつつ、幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。
またこうした努力を支援するため、国内外の人々が、引き続き、いろいろな形で尽力しています。
この結果、地場産業の発展、防災施設の整備、安全な居住地域の造成など、さまざまな進展が見られましたが、依然として被災した人々を取り巻く状況は厳しく、これからも国民皆が心を一つにして、寄り添っていくことが大切と思います。
このたびの大震災においては、私どもは災害に関し、日頃の避難訓練と津波防災教育がいかに大切かを学びました。
こうした教訓を決して忘れることなく子孫に伝え、より安全な国土を築くべく、努力を続けることが重要であると思います。
この14日から、宮城県仙台市において、第3回国連防災世界会議が開催されますが、この会議において、わが国のみならず、世界各国においても、このたびの大震災の教訓が分かち合われ、被害の軽減や、人々の安全性の確保に、意義ある成果が上げられることを願っています。
被災地に一日も早く、安らかな日々の戻ることを一堂と共に願い、み霊への追悼のことばといたします。
天皇陛下のおことばでした。
天皇皇后両陛下は、ゆっくりとした足取りで席に戻られます。
このあと、追悼式では岩手、宮城、福島3県の遺族の代表が、ことばを述べることになっています。
そのもようを国立劇場から後ほど中継でお伝えします。
再び、情報まるごとです。
被災地でも、午後2時46分に合わせて、各地で黙とうが行われました。
母を亡くしたんですけど、親孝行できなくてごめんね、そう、今手をつないで黙とうしてお祈りしました。
震災直後には、家の前を通ると、涙が出たり、家で母さんの遺影を見ると涙が出たりしてつらかったんですけど、今はやっと落ち着いてきました。
双葉のほうに向かって黙とうしましょう。
黙とう。
福島市の仮設住宅の集会所では。
心の中ではこの4年というのは、人生の半分くらい、こうやっていたような感じするけど、実際はもう4年もたってしまった。
やっぱり特別な日っていうか、まだまだ皆さんね、大変な思いしていらっしゃるので。
では、地震発生時刻を迎えた被災地の様子を中継でお伝えします。
まず、岩手県大船渡市です。
大船渡市内の高台にある墓地です。
お昼過ぎから花を手向けに来る人の姿が多く見られています。
母親がいまだ行方不明の男性は、自然災害なので、もう恨みはありません。
踏ん切りはつきました。
でもきょうは、お墓に向かって、どこに行ったんだよと声をかけました、そう話していました。
墓地の隣には小学校、そしてそのグラウンドには、仮設住宅があります。
市によりますと、37世帯81人が暮らしています。
2時46分を前に、この仮設住宅の住民が、こちらの談話室に集まりました。
立ち上がり、海に向かって黙とうをささげました。
仮設住宅に住む女性は、今は仮設住宅以外、ほかに行く所がありません。
耐えるしかない、辛抱するしかないと話していました。
いまだに岩手県内では2万人以上の人が、こうした仮設住宅で生活をしています。
この隣には、災害公営住宅が建っています。
災害公営住宅は、住宅を再建するのが難しい被災者のために、県や市町村が作った賃貸住宅です。
家賃も初めのうちは安く抑えられています。
中にはこうした住宅に移ることができた人もいます。
しかし、まだまだ多くの人が、仮設住宅で暮らし続けています。
それは災害公営住宅が計画の20%以下しか完成していないからです。
県では災害公営住宅の整備は、平成30年度までかかると見込んでいます。
最も長い人ではさらに4年近く、仮設住宅で暮らさなければなりません。
そうした人にとってこの震災4年は、まだ折り返し地点でしかないともいえます。
早く落ち着いて暮らしたい。
被災者はそう願っています。
岩手県大船渡市でした。
宮城県石巻市です。
高台にある日和山でも、2時46分、防災無線からサイレンが鳴ると、海のほうに向かって、200人以上の方々が黙とうをしていました。
20分たった今もじっと動かず、海のほうを見ている方もいらっしゃいます。
4年前、ここに避難してきた方々は、この場から津波に飲まれていく町を目の当たりにしました。
いらっしゃった方にお話を伺いました。
この山のふもとに住んでいたという50代の女性。
親戚のおばさんを亡くされたそうです。
4年がたち、だんだんと心が落ち着いてきました。
ただ、けさは4年前と同じ雪の朝となりました。
毎年、お祈りはしていますが、ことしは悲しみが強く湧き上がってきます。
そう話されていました。
もうひと方、18歳の女性に伺いました。
友達や後輩を亡くされたそうです。
ことし私は、高校を卒業しました。
でもやっぱり一緒に高校に入りたかった。
亡くなった友達にその分まで一生懸命勉強する、元気にやっていくよと伝えましたと話していました。
毎年、この日この場所で祈る方々の気持ちは変わりません。
その中でも、4年の月日で、町は新しい形を少しずつ見せ始めています。
宮城県石巻市でした。
福島県富岡町です。
ここでは、津波で地元の方24人が犠牲になりました。
町の海沿いには、小さな慰霊碑が建てられています。
町には避難指示が出されていますが、きょうは地元の方々が数名、こちらにいらっしゃって、祈りをささげていました。
2時46分になりますと、町の防災無線が鳴りました。
ちかくののうちでじょせんさぎょうをしていた作業員などが、祈りをささげていました。
その作業員の方に話を聞きました。
亡くなった人たちのことを思って祈りました。
復興に直接関わる作業に携わっているので、早く復興するように作業を進めていきたいと話していました。
もう一人、今はいわき市で避難生活を送る50代の地元の男性に話を聞きました。
きょうは家の除染の状況を見守るためにこの場所に来た。
動物などに荒らされた家の姿を見るのは惨めな気持ちになる。
早く復興してほしいと話していました。
震災と原発事故があった富岡町では、早く復興してほしいという願いがありました。
福島県富岡町からお伝えしました。
千葉県旭市の飯岡海岸です。
すぐ近くには海が広がっています。
ここ、旭市では、震災の津波などで14人の方が亡くなりました。
そして今も2人の方が行方不明となっています。
そして、私の後ろに見えています屋根の丸い建物、4年前の状況を捉えた写真がこちらです。
建物の真ん中ぐらいの高さまで、津波が押し寄せているのが分かると思います。
ここ旭市では、津波の高さ、最大で7.6メートルにも達したといいます。
先ほど2時46分にはこの地域にもサイレンが鳴りまして、海岸付近、この海岸に出て、海に向かって手を合わせる人の姿も多く見られました。
そのすぐ近くにありますこちら、もともと、国民宿舎だった場所だったんですけれども、去年の7月、旭市が1階の部分を改装して、防災資料館としてオープンしました。
オープンから8か月たちましたけれども、もうすでに5000人を超える方がここを訪れて、防災、そして震災について学んでいらっしゃるということです。
中にはたくさんの資料が展示されていますが、この津波の映像は、これは内陸900メートルを超える所まで津波が押し寄せている様子であるとか、上空から眺めますと、ここまで内側まで押し寄せているのが分かる映像などがあります。
さらにこちらに来ますと、4年前の被害の様子が上の段、そして現在の状態が下の段になっています。
復興している部分とそうでない部分が、比べて見ることができるようになっています。
そして奥に行きますと、さらに全国から寄せられた皆さんからのメッセージです。
こちらは姉妹都市の長野県の茅野市からの子どもたちのメッセージが届いています。
これ見ますと、大きな災害だったけれども、復興を応援していますなど、たくさんのメッセージが寄せられています。
ことし7月には、この建物にも宿泊施設がオープンします。
ここから学んで、そしてまた発信していくという取り組み、まだ始まったばかりです。
千葉県の旭市からお伝えしました。
ではNHKのアンケートに書いていただいた被災者の皆さんの思いを再びご紹介します。
福島県双葉町から避難している男性です。
福島県飯舘村から北海道に避難している女性です。
時間がたつほどに、心の傷が深くなることもあるのだということを痛感させられます。
宮城県石巻市の男性です。
宮城県石巻市の女性です。
ご自身のつらい経験から伝えてくださっています。
宮城県南三陸町の男性です。
いざというときの備えというのは、本当に日常からだというふうに感じますね。
そうですね。
岩手県宮古市の女性です。
教訓を伝えようとする声など、さまざまな声がありました。
再び、東京で行われている、東日本大震災の追悼式のもようを、国立劇場から中継でお伝えします。
東京・千代田区の国立劇場です。
午後2時40分過ぎから追悼式が行われています。
続きまして、ご遺族代表のことばをお願いいたします。
岩手県、宮城県、福島県のご遺族代表の方は、式壇標柱の前にお進みください。
この震災で亡くなった方と、行方が分からない方は避難生活などで亡くなったいわゆる震災関連死を含めると、2万人を超えています。
遺族を代表して、岩手県のうちだてみちよさん、宮城県のすがわらさやかさん、福島県のすずきゆきえさんです。
それでは岩手県のご遺族を代表して、うちだてみちお様、お願いいたします。
初めにいまだご遺体が見つからない方々のご冥福を祈り、ご遺族の方々にお悔み申し上げます。
あれから4年がたちます。
毎日の生活の中で、ふとしたときに、父との温かい思い出に優しく包まれます。
そしてその少しあとに、あの大きな津波の光景と、冷たい泥や無数のがれき、父の遺体と対面した記憶がよみがえり、悔しさで胸が苦しくなります。
そんなときは、父が、俺のことよりもほかの人をと言ってる気がします。
津波に飲まれるときに、父が最後にそう伝えていたのかもしれません。
私よりももっとつらい体験をされた多くの方々を思い、自分の気持ちをこらえます。
数百年、数千年に1度といわれる震災を経験した私たちは、時の経過と共に前へ進みます。
形あるものはいずれ復興を遂げ、後世に残るでしょう。
時々、時間とは反対に進む気持ちがあります。
記憶が少しずつ薄れていくのではないかという恐怖と、胸に閉じ込めた記憶を忘れてはいけないという気持ちです。
しかし、それを思い出せば、悲しく、悔しく、後悔と自責の念に駆られます。
形あるものの復興とともに、私たちがこれからの数百年、数千年先へ、その悲しさを優しさに、その悔しさを何かを許す心に、その後悔と自責の念を生きている私たちがお互いを思いやり、助け合う心にしたことを伝え、残していくこと。
それが私たち日本がこの震災を乗り越えた証しとなり、亡くなった方々への最大の敬意であると信じ、一日一日を大切に過ごしていきます。
平成27年3月11日、岩手県代表、内舘みちお。
続きまして、宮城県のご遺族を代表して、菅原彩加様、お願いいたします。
私は東日本大震災で甚大な被害を受けた、宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
小さな集落でしたが、朝学校へ行く際、すれ違うひと皆がさやかちゃん、元気に行ってらっしゃいと声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。
あの日、中学校の卒業式が終わり、家に帰ると、大きな地震が起きました。
逃げようとしたときにはすでに遅く、地鳴りのような音と共に、津波が一瞬にして私たち家族5人を飲み込みました。
しばらく津波に流されたあと、私は運よくがれきの山の上に流れつきました。
そのとき、足元から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けてみると、くぎや木が刺さり、足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、がれきをよけようと頑張りましたが、私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど、ここにいたら私も流されて死んでしまう。
行かないでという母に私は、ありがとう、大好きだよと伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
そんな体験から、きょうで4年。
あっという間で、そしてとても長い4年間でした。
家族を思って泣いた日は数え切れないほどあったし、15歳だった私には、受け入れられないような悲しみがたくさんありました。
すべてが今もまだ、夢のようです。
しかし私は、震災後、たくさんの諦めない人々の姿を見てきました。
震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。
みんなでがんばっぺなと声をかけ合い、復興へ向かって頑張る人たちがいます。
日本中、世界中から東北復興のために、助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。
そんなふるさと、東北の人々の姿を見ていると、私も震災に負けないで頑張らなきゃという気持ちにいつもなることができます。
震災で失ったものはもう戻ってくることはありません。
被災した方々の心から、震災の悲しみが消えることもないと思います。
しかしながら、これから得ていくものは、自分の行動や気持ちしだいで、いくらにでも増やしていけるものだと私は思います。
前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失ったものと同じくらいのものを、私の人生を通して、得ていけるように、しっかりと前を向いて生きていきたいと思います。
最後に、東日本大震災に伴い、被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。
またお亡くなりになったたくさんの方々に、ご冥福をお祈りし、追悼のことばとさせていただきます。
平成27年3月11日、宮城県代表、菅原彩加。
続きまして、福島県のご遺族を代表して、鈴木幸江様、お願いいたします。
私の住んでいた福島県浪江町は、人口約1万9000人の山と川と海の豊かな自然に囲まれた、心温かな方々が住むのどかな町でした。
その町で穏やかな生活を送っていたところ、平成23年3月11日、突如発生した大地震と、大津波により、父、母、そして弟を失いました。
私の大切な家族の命を奪ったあのすさまじい光景は、今でも忘れることができません。
そして大震災発生から4年たった今でも、原子力発電所の事故による放射能の問題のために、町に戻れない状態が続いており、将来の展開がなかなか見通せないことについて、やりきれなさを感じています。
大震災から丸4年が過ぎようとする今、残された私たちがなすべきことは何かと考えたとき、多くの尊い命が犠牲になったことを教訓として、二度とこのようなことを繰り返さないために、そしてこの大震災を風化させないために、この経験を次の世代に伝えていくことではないかと思います。
また自衛隊、警察、消防をはじめとする多くの皆様が、身の危険も顧みず、救命・救助活動に当たっていただいたことや、全国の皆様から物心両面でご支援をいただいたことに対しまして、改めて心より、深く感謝を申し上げます。
最後に復興に向けては、放射能の問題、住宅の再建、農地の復旧など、まだまだ課題が山積しておりますが、ひるむことなく、みんなで力を合わせて、一歩ずつ努力していくことを、大震災の犠牲となられた方々に改めてお誓い申し上げ、遺族代表のことばといたします。
平成27年3月11日、福島県代表、鈴木幸江。
岩手県の内館みちおさん、宮城県の菅原彩加さん、福島県の鈴木幸江さんが遺族代表のことばを述べました。
天皇皇后両陛下がご退席になります。
天皇皇后両陛下が退席されます。
東日本大震災から4年となるきょう、追悼式では地震が発生した2時46分、およそ1200人の参列者全員が、1分間の黙とうをささげました。
皆様、ご着席ください。
このあと、会場では献花が行われることになっています。
東日本大震災の追悼式のもようを国立劇場からお伝えしました。
政府主催の追悼式を中継でお伝えしました。
気象情報です。
奈良岡さん。
日本海側を中心に雪が続いています。
一部太平洋側にも雪雲が流れ込んで、東海地方の名古屋でも、明け方には3センチの積雪を観測しました。
では雪雲の様子を2時間前から見ていきましょう。
東海地方の雪のピークはもう越えていますが、日本海側では引き続き、広く雪雲がかかり続けているという状況です。
そして強い西風に乗って、東北地方の太平洋側の沿岸部にも、雪雲が時折流れ込んでいますが、このあともそういった状況が続きそうです。
さてきょうは風が強いです。
午後3時までの最大瞬間風速、青森県の八戸市では、34.9メートルという風を観測しています。
あすにかけても、北日本や北陸を中心に、猛吹雪や大雪となりそうです。
では、あすの予想天気図を見ていきましょう。
低気圧の発達のピークはもう越えていますし、きょうよりも陸地から低気圧は離れていきますけれども、あすにかけても引き続き、強い冬型の気圧配置が続く見込みです。
暴風のピークは超えそうですけれども、それでも引き続き、広く風の強い状態は続きそうです。
また北日本や北陸を中心に、雪はあすも続きそうで、ふぶく所もあるでしょう。
また波も高いです。
予想される最大瞬間風速、見ていきましょう。
あすにかけて、北日本や北陸で35メートル、そして波の高さもあすにかけて東北で9メートルと、猛烈なしけが予想されています。
高波に対しても警戒をしてください。
では雪の見通しを詳しく見ていきましょう。
今夜からです。
北陸から北の日本海側を中心に雪が続きます。
そしてあすの明け方にかけて、雪の降り方が強まるという所もありそうです。
あすの日中にかけて見ていきましても、同じような所で雪が続きそうです。
雪の量、増えそうです。
あすの昼までに予想される雪の量、見ていきましょう。
北陸で80センチなどとなっています。
大雪による交通障害など、お気をつけください。
では全国のあすの天気です。
最後に、きょう、被災地で聞いた声をお聞きください。
皆さんで手、つながれてましたけど。
みんなね、同級生。
めいっ子が亡くなったから。
同級生とかめいっ子が。
自然だからしょうがないんだろうけど、今やっと手が合わせられる。
毎日ね、心には双葉町のことを考えて毎日を、おりますけど、健康であることをモットーにして、双葉に帰る日まで頑張りたいと思ってんです。
人の心の復興みたいな、目に見えないところ、少しも進んでいない人っていると思うので。
2015/03/11(水) 14:05〜15:30
NHK総合1・神戸
情報まるごと[字]
▽三陸を愛した彼がいた ▽追悼式中継 ▽ボランティア“心の支援を” 【キャスター】小澤康喬,實石あづさ,【気象キャスター】奈良岡希実子
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【キャスター】小澤康喬,實石あづさ,【気象キャスター】奈良岡希実子
ジャンル :
ニュース/報道 – ローカル・地域
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 天気
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