クローズアップ現代▽“帰りたい… 帰れない…”〜福島の避難者 それぞれの選択〜 2015.03.11


今週、私は原発事故ですべての住民が避難を続けている福島県楢葉町に入りました。
比較的、放射線量が低いこの町はすでに除染を終えことし春以降の帰還を目指しています。
本当に人は一人もいない。
人けがないことを除けば町は一見、平穏を取り戻したかのように見えます。
あちらこちらで見られるのは住宅の解体作業。
これまでに取り壊しを決めた家は470軒。
除染は終わっていますが住宅の傷みがひどく住めなくなったのです。
解体後、新たな家を建てる人がいる一方でこれを機に、町を離れようと決める人もいます。
失礼いたします。
渡辺さん夫婦も町に戻らない決断をしました。
近所の人が帰らないことを知り先代から引き継いだ家を取り壊すことにしました。
町を捨てるとかそういうことではなく生きていかなきゃいけないというところですかね。
おじいちゃんに申し訳ないなっていう気持ちはありますね。
原発ということで避難しちゃって結局、もうここには帰らなくてごめんねって。
国が去年の秋楢葉町の住民に、帰還についてアンケートをしたところすぐに戻る条件が整えば戻ると答えた人は合わせて45%。
一方で、戻らないと答えた人は22%でした。
福島の人々それぞれの選択を見つめます。
この楢葉町だけで避難している人々は7400人。
原発事故から4年たち今なお避難している人々は福島県全体で12万人。
避難先は全国各地に及んでいます。
避難区域で、除染の対象となっている場所のうちすでに除染が終わった住宅地は3分の1。
私がいます、この楢葉町は避難区域の中で、いち早く町全体の除染が終わっています。
そしてインフラも復旧しつつあり人々の帰還に向けた準備が進められています。
除染が終わって放射線量が下がれば人々の帰還が進む。
国や自治体はそう思い描いています。
しかし現実には、多くの住民が帰還に踏み切るのが難しいと感じています。
この4年で家の荒廃が進んだこと隣近所の人々が戻らないそして帰ったあとの生活環境に不安があるといったことなどが背景にあります。
新しい住まいや新しい仕事を見つけた若い世代が次々とふるさとに戻らないという決断をしています。
その一方で、多くの高齢者が住み慣れたわが家に戻りたいと強く願っています。
この4年で進んだ家の荒廃。
自宅を解体しそして再建してまでふるさとに戻るのか。
多くの住民が苦渋の選択を迫られています。
帰りたいと思いながら帰れないあるいは帰らないという選択をした高齢者の姿を追いました。
福島から、およそ250キロ。
東京の湾岸地域にある東雲住宅です。
36階建てのマンションに福島県から避難した1000人余りが暮らしています。
中でも多いのが今も住民全員が避難を続ける浪江町の人たち。
小野田廣治さんトキ子さん夫婦です。
夫婦が身を寄せているのは21階6畳2間の部屋。
浪江町で暮らしていたころは山できのこを採り庭で野菜を育てるのが楽しみでした。
生まれて育って自分の住みかを作ってここで一生を終わろうと思ったのが爆発でこういう高層マンションのとこに住むようになってしまったんですけどね。
田舎に帰りたいよね。
田舎好きだから。
夫婦は東京電力の下請け会社で共に働いてきました。
老後は、年金で穏やかな暮らしが続くと思っていました。
しかし、原発事故が夫婦の人生を大きく変えました。
避難生活が3年を超えた去年9月。
浪江町から送られてきた広報誌を見て夫婦は戸惑いました。
家屋の取り壊しに関する知らせ。
今年度中に解体を申請すれば助成金が出るというものでした。
本当に苦労して建てたおうちだから、どうしようかなと迷ったんですけどいろいろ考えてねすぐに、はい、なんて言うこともできないし。
先月、夫婦は自宅の状況を確かめようと浪江町に一時帰宅しました。
町はまだ除染が進んでいないため自宅の周辺も比較的、放射線量が高く立ち入りは制限されています。
1軒目、2軒目。
そこの先。
自宅に戻るのは半年ぶりのことです。
夫婦共稼ぎで、ようやく手に入れ40年暮らしてきた、わが家。
何者かによってガラス戸が開けられていました。
泥棒に入られ荒らされていたのです。
廣治さんが真っ先に向かったのは大切にしていた桐だんす。
誕生日や夫婦の記念日に買いそろえてきた着物をしまっていました。
だって、お金使えるんだもの。
いらねえ。
柱や、はりには小動物やシロアリの被害が広がり床はイノシシに踏み荒らされていました。
自宅はとても住めない状態になっていました。
4年という歳月が突きつける厳しい現実。
浪江町の住民へのアンケート調査からは揺れ動く人々の心が浮かび上がってきます。
震災の8か月後ふるさとに戻りたいと答えた人は条件付きの人も含めると6割を超えていました。
しかし、なかなか具体的な帰還のめどが立たない中戻りたいと答えた人は、最近では17.6%にとどまっています。
東雲住宅に避難している人たちの間でもふるさとには戻らないと思う人が増えています。
藤田泰夫さんもその一人。
以前は、浪江町の中心部ですし店を営んでいました。
後を継ぐ息子たちのために8000万円のローンを組んで店を大きくしました。
そこで起きたのが原発事故でした。
自宅も店もねまだ造ったばっかりでねお金もかけたしね。
だから、そこに戻んなくちゃなんないっていう気持ちはあったんだよね。
帰る予定ではいたんだけどもなかなか。
藤田さんが浪江町に戻らないと決めたのは一緒に避難してきた家族の存在がありました。
息子の一家は子どもが保育園に通い始めるなど東京に生活基盤が出来つつありました。
たこ、たこ、あ〜がれ。
そして何よりも気にしていたのが放射線の影響です。
子どもの健康面がもちろん、それが一番ですよね。
あとから、なんかあったときには親として悔しい思いでもあるんだったらやっぱり、できるかぎり離れたいって思うんですよね。
避難が長引くにつれ多くの住民がふるさとに戻らない現実。
藤田さんは、店の再開は難しいと思うようになりました。
やっぱりね、国ではね国とか町ではね帰ってこいとは言ってるけどね帰れるようにしますって言ってるけどもねいつのことやらね。
安心して住めるようならね。
信用できなくなっちゃうよね。
去年の暮れ。
藤田さんは東京で新たな店を開きました。
東京電力の賠償金だけでは費用を賄えず預金も取り崩しました。
さらに、自分の店だった浪江町のころとは違い毎月、テナント料を払わなければなりません。
1年、2年やってすぐ辞めてっていうわけにはいかないしね、今度ね。
お金もかかるしね。
それだって、どうなるかも分かんないしね。
一生懸命やんなくちゃなんないしね。
息子たちもこれから一生懸命やんなくちゃなんないしいろいろね。
早く復興しなくちゃなんないしね私たちもね。
早く切り替えて。
変わり果てたわが家を目の当たりにした小野田さんです。
家を解体するのかどうか思い悩んでいました。
お父さん、迎えに来た。
迎えに。
迎えに来た。
なんだ?
迎え、迎えに来たんだ。
誰を?
お父さんを。
うちに帰るの。
家を壊してしまえばふるさとに戻るという望みまで絶たれてしまうのではないか。
でも、家を建て直さなければ帰ることはできない。
そして、先月。
決めました。
ふるさとには帰りません。
帰れねえか?帰りたいよ。
うちは壊すんだよ。
うちは壊すの、これで。
ネズミの被害も大変だし雨も漏ってきたしだから帰れないんだよ。
もう、うちを壊してもらって整地にしてもらって土地だけは置こうかなと。
夫婦は自宅の解体を自治体に申請しふるさとに帰らないことを決めたのです。
トキ子さんは、同じ浪江町の人がふるさとを思って詠んだ歌を毎日のように口にしています。
ふるさと離れ遠くへ来たよ。
ふるさとはいい、けれど帰れない。
帰りたいな、わがふるさとへ。
帰りたいな、わがふるさとへ。
本当に…。
本心、できるならもう一度帰りたい。
帰りたいです。
もう自分では帰らないと決めておいてもやはり帰りたいのは帰りたいです。
夜になるとここは一番、夜景がきれい東京では夜景がきれいなとこだといわれていますけどもきれいであっても私はやっぱり、あのふるさとのぽつりぽつりした明かりがね恋しいです。
今夜のゲストは、心療内科医で、震災後、避難者のアンケート調査を続けていらっしゃいます早稲田大学准教授の辻内琢也さん。
そして作家の真山仁さんです。
真山さんは、阪神・淡路大震災を体験され、東日本大震災のあとは、被災地をたびたび取材し、震災をテーマにした作品を執筆されています。
帰りたいと思いながら、荒れた家を見て、帰らない決断をした、小野田ご夫妻、どのようにご覧なられましたか?
この4年間、ずっと頑張ろうと、希望を持ちましょうと言い続けてきたんですよね。
でも今、見ていて、希望は時に残酷なことをするなって。
時間のせいなんですよね。
恐らく避難されるときは、少しの間だけ、つまりかりそめの時間を我慢すればいいから、少しを我慢しよう、少しを我慢しようと思って、気付くと4年たったんですよね。
この4年をかりそめと言えるのか。
まずそこがものすごくショックでした。
辻内さん、ずっと心と被災者の方々と向き合ってこられましたけれども、この心の葛藤、苦しみ、どのような形で現れてますか?
私は今回、NHKと共に、1万世帯を超える方のアンケートをさせていただいて、大勢の方たちの声を集めさせていただきました。
その中で、今回のこのお2人の事例というのは、決して特殊な事例ではないっていうふうに思うんですね。
われわれのデータ見てみますと、PTSDの可能性、震災後、その後のストレスがすごく大きく、ダメージを受けるわけですが、それが、帰りたいけれど帰れないという方たちのストレスが、非常に高いということが見えてきています。
今回、帰還困難区域と居住制限区域に限って、分析しましたら、絶対に帰りたいと思っていらっしゃる方の、優に6割の方が、PTSDの可能性があるというような結果が出てきてまして、本当にこのふるさとを失っていく苦しみっていうのが、データ上も表れていると思います。
喪失したものの大きさ、これはもう計り知れないと思うんですけれども、何が一番苦しいと、皆さん、感じていらっしゃるんですか?
今回のアンケート調査でも、ふるさとの喪失、本当にとてもつらいと答えられた方が60%いたんですけれども、どんな項目を、ふるさとの喪失と考えているかとお聞きしましたら、家や家財や土地という、ハード面というのは、当然、出てくるわけなんですけれども。
それ以上に、先祖代々住んできた地域、あるいは墓地といったものも挙がってきました。
そして、本当に非常に重いのが、この画面にも出ておりますように、人生、将来の夢、生きがい、こういったものを失ったと答えられている方は、本当に5割以上の方たちがPTSDの可能性があるという、高いストレス状態だということが分かってます。
小野田さんの奥様のほうが、こんなはずではなかった、一生懸命働いて建てた家、これを失うのかというようなことばも胸に響いたんですけれども、その自宅を、解体するのかどうか、自治体からの意向調査を受けて、解体を決められた。
これは何か被災者に対しての大きな決断を迫るときですよね。
非常に3か月という申請期間だと聞いていますので、本当に短い期間で帰還するかしないか、解体するか、しないかという、こういう決断を迫るということ自体が、本当に酷なことだと思うんですね。
復興を優先させていわゆる行政を優先させた動き、住民の方たちの思いというものが置き去りにされて、それで進んでいることだというふうに思います。
帰ることは何かと、真山さん、考えさせられますよね。
恐らく行政の考えている、帰るというのは、放射能を少なくすると、インフラを整備すると、たぶんこれを帰ると呼ぶんですね。
物理的にそうでしょう。
でも、実は多くの人にとって帰るって、日常生活に戻るという、つまり、当たり前の生活をやる。
自分たちの仕事を持ち、家族団らんをし、欲しいものを食べ、行きたい所に行くと、そういうことができることを帰る。
さらにそこに大事なお友達や、コミュニティーがいるわけですよね。
このギャップの差が、実は年々大きくなっている。
だから例えば、3か月間の間に決断してくれっていう、家の問題にしても、実は家こそ帰るっていうことの中心の核になってあるんだという、その精神を奪うんだということに関しての、その思いやりが足りてないんだと思いますね。
藤田さんは、生活環境の不安を息子さん、ご家族は感じられた、帰らないということを受けての。
それゆえの決断。
それゆえの、別の地での一歩を踏み出すことを決められたわけですけれども、この残る、自分たちはもう区切りをつけるんだと、決められた方々の心もようは、どんなものなんでしょうか?
そうですね、帰らないというふうに決めた方たちと、それから帰るという気持ちを持っている方たちというのが、本当に区域によって分断されていってる現状があると思うんですね。
私どものやった調査でも、1年目、2年目、3年目の調査では、避難区域によるストレス差っていうのは、出てこなかったんですが、この4年目になって、避難区域によるストレス度の違いというのが、究極的にぱっと表れてきた、顕在化してきたっていうふうに思うんですね。
この避難区域のちょうど象徴的な写真を私、撮ってきたんですけれども、この写真ですが、この本当に3メートルの道路を挟んで、ここから先は帰還困難区域、帰れない区域、ここからこちらは帰れる区域、両方から見て、本当にこの差がここで出て、賠償金の差までも出てしまっているということで、この帰還を巡る政策と、それから賠償を巡る政策というものが、このストレスに大きく表れてきているといえると思います。
お互い、今まで仲よく同じ地域で暮らしていた方々も、なかなかこれ、お話をするっていうことが難しくなったりしませんか?
そうですね。
自由記述でも、たくさんそういったことが書かれていまして。
1つ、これはNHKの調査から得た自由記述ですけれども、避難者すべてが賠償金でぜいたくな暮らしをしていると誤解され、いわれないいたずらや、嫌がらせを受けている。
まるで何か犯罪を起こしたような、加害者のように、被害者である私たちが息を殺して生きていかないといけないと書かれた方。
あるいは、本音で話せる人がいない。
心の中がいつも苦しい。
子どもの前では笑っていたい。
一度きりの人生。
これでいいのか。
何か加害者のように、自分たちが息を殺して生きていかないといけないという。
藤田さんも恐らくそうだと思うんですが、成功したということを、本当に素直に喜べない部分がある。
お仲間どうしで、今まで3年間は一緒に頑張ろうというふうにしてきたんだけれども、その中で、突出して成功していくような人が出てくると、当然、周りからのせん望の目で見られたりしますので、本当にそこの中で、素直にお互いに喜び合ったり、悲しみ合ったりというような、コミュニケーションがしにくくなっていっているというふうに思います。
お伝えしているように、帰りたいと思い続けている多くの人々がいらっしゃるわけですけれども、いち早く除染が終わって、そして春以降の住民の帰還に向けて、準備が進んでいるのが楢葉町です。
ようやく帰還の見通しが立ってきたわけですけれども、それを待たずに、帰りたいと思い続けた1組の老夫婦が亡くなりました。
ふるさとへ帰る日を待ちわびていた夫婦です。
夫の猪狩正男さんは避難生活の中で肺炎を患い去年4月に亡くなりました。
その半年後、妻の澄江さんはみずから命を絶ちました。
2人が暮らしていたのは400人が避難している仮設住宅です。
こんにちは。
こんにちは、どうも。
息子の猪狩幸雄さんです。
車で2時間ほど離れた別の仮設住宅から両親の様子を見にたびたび通っていました。
自然に囲まれたふるさとでの暮らしから一変。
4畳半2間で暮らす2人を心配していました。
町役場で定年まで勤め上げた正男さん。
そして3人の子どもを育て上げた澄江さん。
近所でも評判のおしどり夫婦でした。
日本舞踊の師範だった澄江さんは地元の友人を集めて踊りを教えることを楽しみにしていました。
夫婦が暮らしていた福島県楢葉町。
避難区域の中では放射線量が比較的低く早い時期の帰還を目指していました。
原発事故の翌年に町が発表した第1次復興計画です。
事故から2年後の2013年には希望者から順次、町に帰ることができるという内容でした。
町では、住宅や田畑の除染が本格化しました。
やっとふるさとに帰れる。
正男さんと澄江さんは2人で喜び合っていたといいます。
夫婦は帰る準備を進めようと頻繁に一時帰宅するようになりました。
年老いた両親を連れていつも一緒に帰宅していた息子の幸雄さん。
生き生きと自宅の片づけをする2人の姿が印象に残っています。
澄江さんは、避難生活で離れ離れになった人たちとの再会を楽しみにしていました。
原発事故の前、楢葉町で隣に住んでいた山形さん夫婦です。
妻の良枝さんは澄江さんに踊りを習い姉のように慕っていました。
町を離れたあとも、頻繁に電話がかかってきたといいます。
ともかく、帰る?楢葉に帰るの?って言うからうん、おばちゃん帰るんなら帰るよ、なんて言って。
まあ、楢葉に帰る、帰らないのそんな、そればっかりですよ話に出てくるのは。
しかし、澄江さんの期待は裏切られます。
事故から2年がたとうとする2013年1月。
除染などが思うように進まないとして、町は帰還のめどを先延ばしすると発表したのです。
それでも澄江さんは希望を持ち続けていました。
その思いを、友人に宛てた手紙に書いています。
私はまだまだ仮設暮らしです。
夜の明けない朝はないといいますから楢葉町のわが家に帰れるまで心の折れないように生きていきたいと思っております。
しかし、そんな澄江さんの心をくじく出来事が起きます。
自宅の柱や床がシロアリの被害を受けそのままでは住むのが難しいことが分かったのです。
人前では気丈にふるまっていた澄江さん。
亡くなったあとに見つかった日記にはその胸の内がつづられていました。
体は力がない。
食欲がなくて食べたくない。
原発事故から3年が過ぎた去年4月。
一緒に帰ろうと支え合ってきた夫の正男さん。
肺炎を患い、亡くなりました。
澄江さんは、葬儀でも四十九日の法要でも涙を見せることはありませんでした。
澄江さんの様子が変わったのは正男さんの初盆を終えた8月半ば。
おばあちゃんがここから、こう出てきてここでずっと話してたんです。
仮設住宅で隣で暮らしていた小高茂子さんです。
いつも楢葉に一緒に帰ろうと励ましてくれた澄江さんが弱音を口にするようになっていました。
お父さんがいなくなっちゃって寂しいって。
すっごく寂しいって。
それはね、いつも言ってましたね。
楢葉に一緒に帰ろうって言ったのになんで逝っちゃったんだろうって。
去年の9月1日。
この日は、夫・正男さんの誕生日でした。
澄江さんは、夫の遺影の前から離れなかったといいます。
翌日、手押し車を押して部屋を出ていった姿が澄江さんを見た最後になりました。
仮設住宅から僅か30メートル。
この雑木林の中で澄江さんは見つかりました。
木につたをくくりつけて亡くなっていました。
ふるさとに帰りたい。
最後まで思いを募らせ続けた澄江さん。
その願いは、かないませんでした。
あれだけ辻内さん、帰れるまで心が折れないように頑張ろうと自分に言い聞かせた方が、夫の後を追った。
本当に苦しかったんでしょうね。
そうですね。
正直、悲しみと憤りを感じます。
最初は帰れると思って期待をして、そして、そしたら帰還が先延ばしになった。
でもまあ帰れるまで頑張ろうと思っていて、そしたら自宅がぼろぼろで、そのあげく、最後にはご主人を亡くしてしまうという、本当に最後の鉄ついでやられてしまったんだなというふうに思いますね。
楢葉町ですけども、今週、行ってまいりまして、住宅2000軒ほどありますけれども、470軒の自宅を持ってらっしゃる方々が、解体することを決めていらっしゃって、インフラの復旧も、もう進んでいますし、一つ一つの決断にどれだけの苦悩があったのかなと、想像してしまうと、本当に心が痛むんですけれども、どういうこの4年間、どういう状況に置かれたと思ったらいいんでしょうか。
私がこの原発事故の被害者の方たちとおつきあいしながら、本当に最近考えていることは、この社会の仕組みや構造がもたらす、構造的な暴力が本当に繰り返し働いて、それで被害者の方たちが社会的な虐待を受けているような状況だというふうに見てます。
DVとか虐待とかと、非常によく似た構造が、大きな構造がこの被害者の方たちをじゅうりんし続けていると思うんですね。
期待しては裏切られ、期待しては裏切られ、本当に帰還についてもそうですし、自己責任で帰還を迫る、本当に残酷な構造的な暴力が働いていますし、一方で、ふるさとを失えというような、本当にそれも、本当に構造的な暴力として働いていると思うんですね。
そこから離れて、虐待から離れて、自力で生きていこうというふうに思っても、仕事が見つからないというようなことで、また打ち砕かれて、そこから脱却することができない。
その構造の中に、いびつな依存関係が出来あがってしまっているというふうに読んでます。
真山さん、原発事故の被災者の方々の災害公営住宅の完成というのは、とりわけ遅れていまして、およそ5%ほどしかできていない。
そして入居者の方々は、65歳以上が58%で、3人に1人が1人暮らし。
高齢者の孤独というものが際立っているかと思うんですけれども、こういう方々の心身、帰りたくても帰れない方々のこの心身の健康って、これからどう支援していくのか。
本来、お年を召した方がどうやってこれから生きるモチベーションを作るかって、これは実は震災に遭われた方の問題じゃないんですね。
われわれは、じゃあ、そこをどう考えていくかというときに、今、拝見していて思ったのが、例えば愚痴を言い合える人がいるか。
それは知人なのか、連れ合いなのか、コミュニティーなのか、それを作りましょう。
じゃあ、それをふるさとを作りましょうと、これではハードルが高いんだと思います。
例ですけれども、例えば、これから新しく建物を建てるのではなくて、どこか、例えば10軒、家が空いていますと。
でも本当にご近所ばっかりのお1人で暮らしていらっしゃる人たち、そこにじゃあ、皆さん集めましょうと。
でも毎日、文句ばっかり言えばいいと。
全然うそばっかりつかれて大変だったねと。
もちろんその体のケアをされる介護士や看護師やっていう方がいらっしゃって、そうやってなんていうのか、みんなが共存共栄していきながら作る、新しく作っていく。
これ実はもし、こういうことで今まで生きる希望を失ってきた被災者の方が、これで元気になられたら、これは実は日本の新しい未来、提言もできるんですよ。
今、被災者で一番大変なのは、なんかこう、過去に押しつぶされている感じがするんですけど、未来は自分たちが一緒に生きていくんだということがまさに一番大変な思いをされている方と一緒に、築いていければ、モチベーション、全然変わると思うんですよね。
真山さんも遭われた阪神・淡路大震災で、被災した方の一人ですけれども、やっぱり心の復興という部分が非常にやっぱり厳しかったところがあるわけですよね。
だから簡単に言うと、生きるということに集約されるんですけど、やっぱり今から振り返っても、生きるって何かなと思うと、実は生活費を稼ぐ、自分で例えば、欲しいものを買います。
あるいはちょっと洋服が、もうこのへんすり切れてるから、買います。
あるいはあした何しようかって考えるという、実はまず生活ができることから、実は自分の心って変わってきたなって、すごい思うんですよね。
確かに社会のひずみがものすごい問題がありますけれども、実は、じゃあ自分から、あしたは一つ、また何か自分で決めようと、そういうために何か生きる目標を作っていくっていうことが、やっぱりこれから未来へ向かってわれわれが一緒に応援して考えていくことになってほしいなと思います。
辻内さん、本当に原発の被害者の方々というのは、やっぱり、ふるさとへの思いがなかなか断ち切れない、だけど帰れない。
しかしなかなか新しい地での、自分が自立できるというふうな生活環境もなかなか作りにくい。
どうしたらジレンマと言いますか、心と体を支えられるのか。
先ほど、真山さんがおっしゃられたような、新しいコミュニティーを作っていくというようなことも、今の制度だと、帰るか帰らないか、帰還するかしないかっていう二分法、2つの選択肢しか用意されていないというところが問題だと思うんですね。
その間に、多様な選択肢を作っていくと。
今は帰れないけれども、いずれは帰ると、5年後、10年後、30年後に帰ると。
当面、引っ越し、移住をしてますよというようなことを認めて、そして帰りたいというふうに思ったときには、家の建て直しの補助が受けられるといったような、今回、新たな社会の仕組み作りをしていくということで、被災者の方たち、被害者の方たちが、うまく生きていくという道を、活路を見いだせるんじゃないかと思うんですね。
2015/03/11(水) 20:00〜20:43
NHK総合1・神戸
クローズアップ現代▽“帰りたい… 帰れない…”〜福島の避難者 それぞれの選択〜[字]

今、原発事故の避難区域では、故郷への帰還をあきらめて、自宅を解体する人たちが相次いでいる。故郷をあきらめる決断をせざるを得ない震災4年の現実に迫る。

詳細情報
番組内容
【ゲスト】作家…真山仁,早稲田大学准教授…辻内琢也,【キャスター】国谷裕子
出演者
【ゲスト】作家…真山仁,早稲田大学准教授…辻内琢也,【キャスター】国谷裕子

ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事

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