1314…外!16171819…外!212223…。
今から155年前の3月3日。
日本の歴史を大きく変える大事件が起こりました。
当時将軍に次ぐ幕府のナンバー2だった大老井伊直弼が暗殺されたのです。
多くの家臣たちによって厳重に守られていた直弼のカゴ。
そこに突然刀を振りかざした浪人たちが襲いかかります。
激しい斬り合いの末僅か3分で直弼の命は奪われました。
幕末動乱の引き金となった「桜田門外の変」です。
近年この事件の凶器と見られるものが出てきました。
それは拳銃。
箱書きには「直弼公天誅の短筒」と書かれています。
昨年桜田門外の変の詳細な様子を記した新史料が発見されました。
襲撃に参加した人物が残したもので当時の様子が絵入りで詳しく記されています。
新発見の史料を検証し桜田門外の変の知られざる真相に迫ります。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
私の後ろあちらに見えますのが皇居の南側にある桜田門です。
桜田門外の変はその名のとおり門の目の前まさにこの場所で起こりました。
反対側にありますのが警視庁本部。
現代の日本では最も警戒が厳重な場所の一つと言えるでしょう。
そして桜田門の西側ちょうど今国会が見える辺りに井伊直弼がいた彦根藩の屋敷がありました。
井伊直弼のカゴが襲われたのは屋敷から桜田門までの移動中。
距離にして僅か600mほどの間です。
厳しい警固の隙をついて行われた暗殺。
一見単純な事件のようにも思われますが実は多くの謎が残されています。
例えば60人の彦根藩士の行列に対し襲撃者は僅か18人。
襲撃が始まってから井伊直弼の命が奪われるまで僅か3分ほど。
しかも襲われた直弼は剣術の達人でした。
不可能とも思える条件にもかかわらずどうして暗殺を遂げられたのか。
今日は数々の目撃情報や新史料から事件の謎を推理していきます。
事件直後駆けつけた彦根藩士たちによって惨劇の後片づけが行われました。
回収された直弼の遺品はひそかに彦根へ運ばれ埋められます。
事件の1年後その上に直弼の供養塔が建てられました。
しかし遺品の中で1つだけ埋められなかったものがあります。
どうぞこちらにお入り下さい。
それは事件の時カゴの中に敷かれていた座布団です。
大きさは半畳ほど。
襲撃されてその時の血の跡がこの辺についているというように思われるんですけどね。
座布団の一部毛皮の毛が抜けている箇所があります。
だとすれば出血量はさほど多くないと思われます。
桜田門外の変を扱った映画やドラマでは井伊直弼は刀で殺されたように描かれるのが一般的です。
刀で斬られたのであれば座布団全体を覆うほどの激しい出血があってもおかしくありません。
これは一体どういう事なのでしょうか。
謎を解くヒントになる目撃談が残されています。
歌舞伎役者三代目中村仲蔵の日記です。
・ごめんくださいまし。
おやまあ珍しい。
まあまあどうぞ。
楽屋に出入りしていた商人が江戸城の近くで恐ろしいものを見たと言いだします。
(商人)今朝五つ半ばかりでしょうかねえ私が桜田門に入ろうと歩いてたらちょうど井伊のお殿様の御登城の行列が来たもんで後からついて入ろうとしたんですよ。
そこへ「お願いの者でございます!」って近づいていくじゃありませんか。
そしたら近習が…。
(近習)「ええい下がれ!ならぬならぬ!」。
(商人)…ととどめようとしました。
それと同時に…。
(銃声)
(商人)…と小筒を打ち込んだんですよ。
この証言から分かるのは襲撃者は斬りつける前にまず小さい鉄砲を撃ったという事です。
座布団の血痕が銃撃によるものと考えれば残る血の跡が小さい事も説明がつきます。
更にこんな記録があります。
事件直後直弼の遺体は彦根藩士たちによって藩の屋敷に運び込まれました。
そこに岡島玄達という医者が常駐していました。
鉄砲による傷が見受けられる…。
玄達は直弼の検死報告を残しています。
ももの上の方から弾が当たりお体を抜け…。
この弾の道筋から直弼が撃たれた状況を推測できるという研究者がいます。
直弼公の遺体を検死した岡島玄達の検死書から見ればですね太ももから腰へ貫通しております。
でこれは直弼の座ってる位置。
それから射撃する人の位置からしますとですね相当低い位置でそしてカゴに近くなければこの弾道は成立しないと思うんです。
発砲者は間近カゴの間近の低い位置から撃っているという事がその弾道の在り方からしてうかがえるという事です。
澤田さんの考えを裏づけるものが昨年古書店が収集していた史料の中から発見されました。
それは襲撃に加わった海後嵯之介による証言記録。
明治まで生き残った数少ない実行犯の一人です。
恐らくこれでもしいくとここに印までありますからこの海後さんが話したやつを事件に至るいきさつと襲撃の一部始終を絵入りで書き留めた記録。
注目は襲撃者の役割が示されている事です。
最初に斬り込み役が行列をストップさせます。
3人の援護役がこれを助けます。
そしてカゴの近くで拳銃を撃つ役。
最後に発砲の音を合図に皆で一斉に討ち入り。
絵図では斬り込み役援護役が列の先頭に走ると同時にカゴに向かっていく一人の人物が描かれています。
その名は…手には書状らしきものを持っています。
記録には「直訴状の下に銃を隠し持ち発砲した」とありました。
これらの史料を基に桜田門外の襲撃シーンを再現してみましょう。
お待ちを!しばらくお待ちを!まず斬り込み役が行列の先頭を止めます。
(近習)ええい下がれ!そして先頭の者に斬りつけます。
援護役が加わり行列の先頭を攪乱。
狼藉者じゃ!狼藉者じゃ!行列がストップするとカゴもストップします。
脇を固める近習たちは先頭へ走り去りカゴの周りはガラ空きになりました。
その隙に…。
井伊掃部頭様!何卒何卒お取り上げを!直訴状の下に森五六郎は拳銃を隠していました。
(銃声)カゴに座った直弼の太ももから腰にかけて弾が貫通します。
腰から下は完全に麻痺している状態であったと思います。
下半身が麻痺し動く事のできない直弼。
さしもの剣の達人も反撃できずカゴから引き出され首を取られました。
少人数による短時間の襲撃を可能にしたもの。
それは綿密に計画された至近距離からの銃撃だったのです。
桜田門外の変の時一発の銃声が響いた事は当時からうわさになっていました。
(銃声)従来ドラマや映画では斬りかかる合図として銃の射撃音が使われたと解釈されてきました。
しかし新しく発見された史料から分かってきたのはこの最初の銃撃こそが井伊直弼に致命傷を与えた可能性があるという事。
しかもこの時使われたという…斬り合いで深手を負った襲撃者の多くは逃亡を断念し身柄を拘束されました。
直弼を狙撃したという森五六郎もその一人です。
この時彼らを尋問した記録が残されています。
取り調べの際森が所持していたとされる鉄砲はその後行方不明になっていました。
ところが…。
戦後GHQに没収されアメリカへ渡ったとされる一丁の拳銃が近年日本に里帰りを果たしました。
銃を納めた箱にはこのようなただし書きがあります。
なんと森五六郎が井伊直弼を撃った銃だというのです。
形は西洋の拳銃ですが表面をよく見ると…細密な桜の文様がビッシリと彫刻された和風のしつらえ。
グリップに使われているのは純銀と高級な香木として知られる紫檀です。
高価な材料と手間が惜しげもなくつぎ込まれたこの拳銃。
持ち主はよほど財力がある人物だと推測できます。
(銃声)しかし銃撃した森五六郎は水戸藩の一介の下級武士にすぎません。
この銃の本当の持ち主が他にいたはずです。
実はこの桜の拳銃と形も大きさも全く同じ銃が記録に残されています。
桜の代わりに彫られているのは製造会社の名前。
サミュエル・コルトニューヨーク市。
1851年に作られた当時の最新式連発銃です。
桜田門外の変から遡る事6年前の嘉永7年。
黒船を率いてペリーが来航。
日本に開港を迫ります。
この時ペリーが持参した品々を日本の絵師が描いた絵巻の中にその拳銃の絵はありました。
文様だけが異なる桜の銃。
これは一体何を意味しているのでしょうか?この桜の銃実はペリーがもたらした銃のコピーではないかと考えられています。
この銃身の下には製作者の中澤晃敬という人物の銘が入っております。
更にこの中に桜の花を散らしたこの彫刻者の名前も刻まれております。
何人もの職人がこの拳銃の製作に携わった事が分かります。
それはペリーの拳銃を手にする事ができた人物のはずです。
ペリーが残した日記にはこう記されています。
「20丁の軍用拳銃をエンペラーに献上した」。
この「エンペラー」とは江戸の徳川将軍を指しています。
ペリーが献上したコルト社製の拳銃を手に入れる事ができたのは将軍と近い徳川家のごく一部の人たちだけでした。
そのうちの誰かが銃のコピーを命じたと考えられます。
そうなると徳川御三家の一つで森五六郎のいた水戸藩に君臨した人物を疑わざるをえません。
前の藩主で家督を譲ったあとも絶大な権力を振るい副将軍とうたわれた…徳川斉昭は幕府の外交方針をめぐって大老の井伊直弼と意見が対立していた人物です。
ペリーの要求に応えて開国すべきという直弼に対し斉昭は「攘夷」を主張します。
攘夷とは外国人を攻撃し追い払う事。
斉昭は攘夷を実行するために着々と準備を進めていました。
これは斉昭が水戸藩内に新たに建設した施設の記録です。
(川)これは神勢館の絵図になっています。
斉昭公が実際に鉄砲や大砲を製造した場所です。
それはなんと本格的な兵器工場。
その一角に「小銃製作場」と記されています。
ここで欧米の拳銃を複製量産していたと考えられます。
こちら水戸徳川家に伝えられたアメリカ製の拳銃です。
ペリーが持ってきたあのコルト社の拳銃とは異なるタイプ。
六本の銃身を備えた連発式です。
斉昭はこの銃の精巧なコピーを製作していました。
形と大きさは全く同じですがグリップには徳川家を示す葵の紋が施されています。
こうやって保管している史料を見るだけでも…御三家の一つ水戸徳川家の実力者で軍事技術にも詳しい斉昭であればペリーのコルト拳銃をコピーする事も可能だったはずです。
桜田門外の変と桜の銃そして徳川斉昭。
3つを結ぶ一本の線が浮かび上がってきました。
事件に使われた拳銃。
そしてその持ち主として浮上した徳川斉昭。
実は斉昭は大名たちの中で最も早く攘夷を主張した人物です。
この時期日本沿岸にはアメリカ以外にもロシアやイギリスフランスの軍艦などが次々と姿を見せていました。
斉昭はそれらを撃退する具体策を着々と立てていたのです。
こちらも水戸徳川家に伝わる銃。
長さ1mにもなる大きなものです。
弾を込める部分…ただ拳銃をコピーするだけでなく独自の工夫を施していた事が分かります。
一方こちらは「安神車」という日本初の鉄製戦車です。
内部を見ると壁の至る所に銃を撃つための小さな穴「銃眼」があけられています。
兵士が中に入って敵の攻撃を防ぎながらいろんな方向を銃撃する仕組みです。
兵器だけではありません。
斉昭は水戸藩独自の大規模な軍事演習も行っていました。
総勢およそ2万3千人。
武士はもとより一般庶民にまで参加を募り藩を挙げて攘夷を行う覚悟を示したのです。
だからそういった緊張感のない社会であるという事でそれを…そういった意識もあったかと思います。
この攘夷をめぐって井伊直弼と度々対立していたという徳川斉昭こそが桜田門外の変の黒幕なのでしょうか。
そして「歴史秘話ヒストリア」。
謎を解くカギは斉昭が攘夷と併せて唱えたもう一つの大切な思想にありました。
井伊直弼を撃ったとされる桜の銃。
これが斉昭のものだとすれば一面に彫り込まれた桜にはどんな意味が込められているのでしょうか?その手がかりが5年前に発見されました。
よいしょ。
これなんです。
ちょっとご覧下さい。
茶入れなんです。
(橘川)これはですね徳川斉昭公の直筆でこの茶入れを自ら作ったという事を証明して書いてるんですね。
幕末に作られた斉昭の茶入れ。
桜の蒔絵が金をふんだんに用いて贅沢に施されています。
花弁の中に長いおしべがあしらわれたヤマザクラのデザインは拳銃の桜とよく似ています。
(橘川)「余」つまり自分自ら後醍醐天皇の吉野の山にあった竹を使ってこの茶入れを作ったと。
斉昭公も後醍醐天皇がいた吉野に非常に憧れを持っているという事で吉野の桜をここに持ってきているんだと僕は思いますけれども。
それは天皇を尊ぶ事です。
水戸市の弘道館。
徳川斉昭が設立した藩の教育機関で全国でも最大規模を誇りました。
ここで斉昭は水戸藩の武士たちに「尊攘」つまり「尊王攘夷」を説きます。
天皇を中心に日本全体が結束する「尊王」と外国を打ち払う「攘夷」を同時に主張したのです。
この新しい思想に惹かれて弘道館には全国から新時代の到来を夢みる志士たちが集まります。
吉田松陰や坂本龍馬もこの門をたたきました。
ところがこの尊王の思想によって斉昭と直弼の溝は更に深まる事となります。
大老井伊直弼はアメリカと通商条約を結び完全に開国する事を幕府の独断で決定しました。
これは攘夷を主張していた斉昭の考えと180度異なります。
そればかりか天皇の許しもなしに国家の大方針を勝手に決めた事は尊王を掲げる斉昭にとって許し難かったのです。
斉昭に共鳴していた尊王派の志士たちは各地で幕府への批判を展開します。
ところが…。
(雷鳴)幕府の権威を揺るがしかねない尊攘派を直弼は徹底的に弾圧します。
長州藩の吉田松陰や福井藩の橋本左内に加えて弘道館で育った斉昭子飼いの水戸藩士たちが次々と処刑されました。
粛正の手は斉昭自身にも及びます。
斉昭は将軍の名前で江戸の屋敷に蟄居を命じられ政治生命を奪われてしまいました。
心の声
(斉昭)このままにては直弼めの思うがままじゃ。
なんとかせねばならぬ。
(斉昭)多一郎近う。
ハハッ!蟄居中斉昭は極秘に側近を呼び寄せます。
それは幕府から固く禁じられていた行為でした。
危険を冒してまで呼んだ側近に斉昭が渡したものが残っています。
それは斉昭愛用の短刀です。
拝領した側近高橋多一郎によって次の一文が刻まれています。
「上公」つまり「斉昭の手から直接これを自分に渡された」。
(斉昭)多一郎これをそなたに取らせる。
(多一郎)ハハッ!その意味とは…。
実はこの時短刀と共に渡されたと伝わる品があります。
これは明治時代に撮られた写真。
短刀の横に写っているのは拳銃です。
こうして斉昭から襲撃グループに拳銃が渡ったと考えられます。
(斉昭)それとこれもじゃ。
こ…これは…。
桜田門外の変のちょうど1年前一つの事件が起きました。
その記録です。
そこにはなんと「井伊直弼が銃撃された」とありその犯人の名前が記されていました。
「この一件は森五六郎の仕業である」。
桜田門外の変以前に少なくとも1回銃による襲撃が行われその犯人はあの森五六郎だというのです。
その日五六郎は物乞い姿に身をやつし木に隠れていました。
心の声間もなく日が暮れる。
井伊の行列がやって来るはずだ。
やがて井伊直弼のカゴが現れます。
距離はおよそ数十m。
しかも標的は上下に揺れています。
(五六郎)天誅!
(銃声)狼藉者じゃ!狼藉者じゃ!たった一人による狙撃は失敗。
彦根藩士に追われた五六郎は江戸城の外堀に飛び込んで逃げ延びました。
この事件の直後襲撃グループの間で交わされた手紙が残されています。
「兼ねてより森氏苦心の件失敗。
愈々最後の手段を以て赤鬼退治したき決心」。
1回目の失敗を踏まえ確実に目的を遂げるため綿密に計画が練られました。
単独の狙撃ではなく複数による組織的な襲撃を行う事。
決行の時刻は標的が見えにくい夕暮れではなく出勤時の早朝とする事。
狙撃しやすくするため斬り込み役が標的のカゴの動きを止める事。
更に援護役が加わり相手の守りを崩す事。
そして五六郎が至近距離から直弼を撃つ事。
運命の日…お待ちを!しばらくお待ちを!
(近習)ええい下がれ!下がれ下がれ!えいやあ!うわああ!でやあ!うわうわ…!狼藉者じゃ!狼藉者じゃ!ええい!心の声今こそ!井伊掃部頭様!何卒何卒お取り上げを!心の声今度は逃さん!
(銃声)たった一発の銃撃で襲撃グループはついに目的を遂げたのです。
しかし誰一人主君斉昭の名を口に出す者はいませんでした。
森五六郎は獄中でこんな歌を詠んでいます。
「意味もなく散りゆく桜などとおっしゃいますな。
花の心など人には分かるはずもないのですから」。
森五六郎は銃撃の事を決して口にせず刑場の露と消えました。
こうして桜田門外の変の真相はただ桜が刻まれた拳銃だけを残して永遠の謎となったのです。
今宵の「歴史秘話ヒストリア」。
最後は桜田門外の変から8年後…そんなお話でお別れです。
桜田門外の変の直後斉昭は襲撃を計画した中心人物の一人金子孫二郎に歌を送りました。
「尊王を表す桜その花をかざす武士が今日もまた散っていくかもしれない。
しかしその名は決して滅びる事なく後の世に残るだろう」。
それに答えて金子はこの歌を返します。
「帰り道は白雪に埋もれ絶えてしまうでしょう。
ひとたび雪のふるさとを出たこの身は振り返らずただ本懐を遂げるだけです」。
斉昭と志士たちが共に抱いていたのは後戻りする事なく時代を前へ進めようという強い思いでした。
(砲声)事件のあと時代は斉昭が願ってやまなかった攘夷へと舵を切ります。
外国船への砲撃が各地で始まりました。
(砲声)しかしこの攻撃は全て失敗に終わります。
桜田門外の変の後幕府の弱体化は決定的となりました。
やがて尊王の旗を掲げ天皇を中心とした新しい国をつくろうという動きが大きな波となって押し寄せます。
薩摩・長州をはじめとする倒幕軍に江戸城が包囲され明け渡されたのは事件から僅か8年後。
この時倒幕軍が入城したのも桜田門からでした。
江戸城桜田門。
幕末という激動の時代はこの地で幕を開けそしてこの地で幕を下ろしたのです。
2015/03/11(水) 00:40〜01:25
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「銃声とともに 桜は散った“桜田門外の変”の謎」[解][字][再]
幕府の大老・井伊直弼が殺害された幕末の大事件「桜田門外の変」。犯行に使われた凶器が“発見”された。それはなんと拳銃!これまで語られなかった事件の真相に迫る。
詳細情報
番組内容
激動の時代・幕末のプロローグ「桜田門外の変」。幕府の大老・井伊直弼が襲撃を受け、殺害された大事件だ。近年“発見”された凶器は、一丁の拳銃。形はなぜかペリーが持ち込んだものとそっくり。表面には美しい桜の模様が全面に彫られている。この謎の拳銃の持ち主とは?事件の目撃者や襲撃者の証言、そして物証を組み合わせていくと、これまで語られてこなかった事件のウラ舞台がみえてくる。事件の黒幕に浮かびあがったのは…?
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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