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やしお このページをアンテナに追加

2015-03-11 Wed

高学歴の方が優しいみたいな傾向

 しばらく前にツイッターで「かしこい学校は冷たくてヤンキーの学校は頭は悪いけど心は優しい、みたいなイメージは実際には逆」というような話を読んで、ちょっとわかる気がした。

 会社の同じ部の中で、高卒、高専卒、大卒(学部卒)、院卒(修士卒)が入り混じってる(製造系の部署なので博士はいない)。付き合っていく中で、後者になるにつれて、他人に対する想像力が強い傾向にあるような印象がある。他人を批判するときも(もし自分が相手の立場だったらやっぱり難しいかもしれないな)という想像力で抑制されているような感じ。陰口にならないように、客観的な批判であり得るように心がけているように見える。


 自分が学生だったころ、10代だったころを思い出すと、教師のことを陰で簡単にバカにしていた。それと同じような印象を、高卒・高専卒の20代の同僚たちの陰口から受けることが多い。自分はより分かっている/相手はより分かっていない、という図式を前提した上での非難になっている。どうしてこうしないんだ=この人は愚かだ、という非難であって、どうしてそうするのだろうか=この人は本当に愚かなのだろうか、という疑問を繰り返して掘り下げていく行為をあまりしない傾向にあるように見える。

 それで(ああ、この人は俺がいないとこだと俺のこともそんな風に貶めてるんだろうなあ)と思ってつらくなる。


 でもこれって学歴とは関係ないんじゃないか。会社に入ると年次ベースで見るクセがつくのでそう錯覚してるだけで、実は同じ年齢で並べてみれば変わらないんじゃないか(相関がないんじゃないか)と疑って、具体的に20代くらいのいろんな人の顔を思い出して年齢で横並びにしてみても、やっぱり差があるような気がしてる。

 それとも、もともとじっくり考えることが好きな人が進学する傾向にあるということなのか(疑似相関)とも考えた。でも、進学できる経済的余裕があって社会に出る踏ん切りもつかないので何となく大学院まで進みましたとか、単純にメーカーの技術系(設計開発)に就職するには修士卒が標準だから進学しました、みたいな人も多くいるのだから、そうでもなさそうだ。

 それから頭の良し悪しかというとそんなこともないと思ってる。たとえば仕事に必要なことを理解する能力が、同じ年齢で修士卒と高卒で高卒の方が極端に劣ってるようには見えない。どこまでの深さで他人を思いやれるかどうかは、頭の良さというより、考える習慣があるかどうかの差が大きいように見える。


 それでさしあたって、高校<高専<大学<大学院になるにつれて「これってどういうことなんだ」と自力で考えるよう要請される場面が多くなっていて、いろいろなことを疑う習慣・考え直す習慣を持ちやすくなっている、そしてそうした習慣が他人の状況を想像させて、むやみに人を責めたりしなくなってるんだと想像してる。どちらかというと高専、高校だと「こういうものですよ(とにかくそう覚えてね)」と与えられるタイプの学習の割合が多い。(理系しか知らないので文系だと様子が違うんだろうか?)

 学校の差に比べると、会社の中でのそうした態度を要求される場面の頻度差が小さい(同じ職場にいるんだから)ので、たとえば同じ25歳でも高卒・高専卒に比べると学部・修士卒の方があまり他人の陰口を叩いたりしないんじゃないか。

 ただ40代、50代を見ていると、そうした学校の差が薄らいで、キャリアや部署による傾向の差が目立ち始めるという印象がある。疑い直して考えることを要求されるような仕事と、あまりそうでない仕事があって、その差が積もっていく。あるいは他人の内在的なロジックを想像する場面の多寡の差が積もっていく。

 でもそうした傾向は個人差を覆い隠すほど強くない。ものを考えるやり方や習慣は、学校や職場に限って形成されるわけではないし、仮に学校で触れる機会が多くあったからといって習慣付くとも限らない。ただ機会が多い方がそうなりやすいんだろうなと思ってる。


 自分ってどうなんだろ、と思う。高専の専攻科を出て学部卒あつかいという、インチキ学部卒・インチキバチェラーの自分は何なんだ。高卒−高専卒−学部卒−修士卒というラインだと、高専以上、大学未満みたいなちょうど真ん中らへん。

 どれだけ振り返っても疑い直したりする習慣・考える習慣は、学校で身に着けたというより大西巨人に偶然教わったという気がする。エッセイにおける彼、あるいは彼の小説における作中人物が見せる、果たしてこれは正当であり得るのだろうかとひたすら考える態度にびっくりしてあこがれて、20歳前後のとき集中して彼の著作を読んで、真似してたらだんだん習慣になっていったという気がする。(一時的に原理主義者みたいになって柔軟性を欠いたけど、その後会社に入って所与の条件をより広範に取り込んで構築しないとダメということがわかって改善された。まだ十分じゃないけど。)

 学校は与えられた課題をこなす・テストで点を取ることで単位は確保できたし、卒業研究は要求水準が高くなかったので指導教官がくれたテーマに沿って実験をして実験結果から誰でも言えることだけを書いて(あまり真剣に考えずに)卒業できた。そういう学校だったので、たまたま大西巨人の著作にはまった経験があったか、もしくはそれに代わる何かがなければ、人を簡単にバカにして納得するタイプの人のままだったんじゃないかと思ってる。


 とにかくここで自分が一番気をつけないといけないのは、「そういう傾向があるように見える」という考えに支配されて、「目の前のこの人がその傾向に従っているはずだ」と逆転して適用させちゃだめだってことだ。もしそういう傾向が本当にあっても(あると思っている)、それは確率的にそうであるというだけで、サンプルを一つ取り出したときにその人がどうなのかは個別に見ないと結局わからない。個人差を無視できるほど支配的な傾向ではあり得まい、と見なしているのを忘れるとまるでおかしくなるから気を付けないといけない。

 自分が今こう思ってるようだ、というのをはっきりさせることでかえって、それを相対化して支配されないように気を付けることができる。

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