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大阪から神戸にかけての一帯を阪神と呼ぶようになったのはさほど昔ではない。明治維新で摂津国は大阪府と兵庫県に分断。1905年(明治38年)に大阪―神戸間に阪神電気鉄道が開通し、作家の徳田秋声が「阪神の市民」などと使うようになり広まった。
明治の末以降、農・漁村だったこの地に大阪の船場商人や企業経営者が別荘を建てた。阪神電鉄は当時「健康保養地」として売り出している。「郊外生活」という月刊誌を発行し「阪神沿道の気候は日本第一である」という識者の寄稿を載せるなど、イメージづくりに努めている。やがて大阪市内が工業化で「煙都」と呼ばれるほど空気が汚れると、本宅も移ってきた。
船場商人にとっては、近所付き合いや人間関係の煩わしさから解放されるというメリットもあった。そこで花開いた建築・芸術・生活様式を文化プロデューサーの河内厚郎さんは「阪神間モダニズム」と名付けた。「公中心の首都圏と異なり個人のライフスタイルを重視した。大阪のブルジョワ文化と欧米からの舶来文化が融合した」と語る。
阪神間で高級住宅地といえば、芦屋を思い浮かべる人が多いだろう。山沿いに広がる1区画300坪(約1000平方メートル)超の六麓荘町がその典型だ。今も芦屋市の条例で400平方メートル未満には分割できない。最近は神戸市東灘区の岡本の人気が高く、関西の住宅地では大阪市の上町台地に次いで地価が高い。
だが、国際日本文化研究センター共同研究員の竹村民郎さんら専門家は「芦屋や岡本より(神戸市東灘区の)御影と住吉が格上」と断言する。「芦屋と(西宮市の)夙川は企業の重役や船場のお金持ちが多かったのに対し、住吉には日本を動かす資本家が住んでいた」(竹村さん)
広大な敷地の一部が「香雪美術館」になっている朝日新聞社主の村山家住宅はその象徴だ。大阪方面から来た阪急電鉄の電車は、御影駅手前で大きく右にカーブする。阪急が鉄道を敷設する前から住んでいた村山家に土地を譲ってもらえず、迂回したと伝わる。周辺には大林組や武田薬品工業など大企業の創業家の邸宅がいくつも残る。
阪神地域は戦前の阪神大水害、太平洋戦争の空襲、そして阪神大震災と3度の大きな被害を受けている。それでも、安井建築設計事務所の佐野吉彦社長は「(フランク・ロイド・ライト設計の)ヨドコウ迎賓館をはじめ、名建築は地盤のいい場所に建てられ結構残っている」と話す。
お金持ちが集まったことで、新しい文化や流行も生んだ。六甲山には日本最初のゴルフ場ができ、日本初のファッション雑誌は芦屋で創刊された。「80年代まで、東京の衣料品バイヤーは岡本に流行を見に来るといわれた」(河内さん)。阪神間は長らく、日本の最先端を行っていた。
編集委員 磯道真が担当します。
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