今日は3月11日です。
死んだ人の分まで生きるって違うとおもう。
それはただの重みでしかない。
ってか普段そんな風にして生活してる人いるのかな。
そんな罪を背負ってるみたいな生き方。
— 宮森はやと(ワッショイ!) (@Miyamo_H) 2015, 3月 11
震災で確かに数え切れない人々が亡くなりました。しかし、震災は自然が巻き起こしたモノです。これは誰のせいでも誰の責任でもありません。
亡くなった人の気持ちを思えば「その人の分まで生きなきゃ」とおもう気持ちはわかります。ただ、それを思い続けることは自分のエゴでしかありません。亡くなった人たちもソコまでおもわなくていいとおもってるはずです。
ぼくは、昨年、オジを交通事故で亡くしました。突然のできごとでした。知らせを聞いたのは深夜で、聞いた瞬間泣きまくりました。
通夜や葬儀を終えた後、「オジの分も生きなきゃ」と強く思いました。しかし、数ヶ月もした頃、そのような考えは消えました。「オジの分まで生きなきゃ」なんて考えていたら自分の気持ちが重くなって仕方なかったからです。
ぼくはこの考えを捨て去りました。いや、諦めたと言ってもいいとおもいます。
オジもそんなことをぼくに望んでいないとおもったからです。オジからすれば「お前の人生、お前の好きに生きろ」と答えると感じたんですね。
ですから、「天国でオジも好きな酒たくさん飲んでるかなー」くらいのことは考えますが、それ以上悲しみにくれることもなくなりました。「オジの分まで生きなきゃ」なんて単なるぼくのエゴでしかなかったのです。
勿論、今でもオジの写真に向けてお参りするし、お墓参りなどにはいきます。
ただ、これは天国のオジと「元気か?」くらいの会話をするのであって、あなたの分まで生きてるよなんて話はしません。
死んだ人の分まで生きようなんて、どれだけあなたはエラいのですか?とぼくはおもうようになりました。
そのような罪を背負うような生き方をしててもきっと生きてて楽しくないですし、それを人に押し付けることもぼくは良くないとおもいます。
Appleのスティーブ・ジョブズが亡くなる直前に、現社長のティム・クックにたった一つ伝えた言葉があります。
「ぼくが亡くなった後もスティーブならどうするか?」は考えるな。「何が正しいかを考え、正しいことをしろ。」
これは、「ぼくの分まで生きようなんて考えるな」と置き換えることができるとおもいます。
誰かが死んだ直前に「死んだその人の分まで生きよう」と考えるのは仕方ありません。ぼくもそう考えるでしょう。
しかし、その考えは早い期間で捨てた方がいいです。
死んだ人の人生を背負うほど人はエラくありませんし、その人もあなたにそんなことを望んでいないとおもうからです。
悲しみとは、どこかで別れて人生を肯定して生きていかないといけないです。
重っ苦しく考えてる人が多いなと感じたのでかきました。
ワッショイ!