LOUNGE INTERVIEW
INTERVIEW|『鈴木理策写真展 意識の流れ』
オープニング・トーク 鈴木理策 × 加瀬亮(1)
香川県の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で5月31日(日)までロングラン開催中の鈴木理策さんの写真展が、注目を集めている。1980年代半ばから創作活動をスタートし、1998年に故郷である熊野をテーマにした初の写真集『KUMANO』を出版。2000年に木村伊兵衛写真賞を受賞後は、日本各地に残る古代信仰の場や、南仏のサント・ヴィクトワール山、桜、雪、セザンヌのアトリエという多様な対象をそれぞれ異なるアプローチで表現することで、写真というメディアの特性を独自に掘り下げ続ける鈴木さんの姿勢は、国内外のアーティストや若いカメラマンからも支持が厚い。
なお、写真展初日の2月1日には「鈴木理策さんが友人を撮った写真を見て『不思議な写真だな』と興味をもって、その後、違う友人を介して紹介され食事をご一緒したのがはじまり」という友人の加瀬亮さんも駆けつけ、オープニング・トークも実現。下記ではそのやりとりを軸に、新作シリーズの『水鏡』や熊野の目に見えない信仰の姿や人類の記憶の古層をとらえた『海と山のあいだ』をはじめ、未発表作を中心にした写真約100点、映像3点で構成された本展の魅力を紐解きたい。
Text & Coordination by OKADA YukaPhotographs by NITTA Shingo(Studio J)
カメラは人の能力を拡張する
加瀬亮(以下、加瀬) 基本的に人が写真を撮るときというのは、第一に撮りたいものがあって、フレーミングを決めますよね。そのときにほとんどの人の場合、「私はこういうふうにそれを見た」という、撮った人の意識みたいなものや物の見方が全面に出てくるものだと思うんですけど、理策さんにはそれがほとんどないですね。だからか、自分が写真の風景に実際に立ち会っている感覚になって、「この写真はいったいどうやってできているんだろう」と思ったのが、理策さんの写真に出合ったときの最初の違和感でした。
鈴木理策(以下、鈴木) 僕の場合は基本的に8×10インチフィルム用の大型カメラで撮っているんですけど、「この場所、いいな」と思うと、だいたいの位置にカメラを置いて、ピントも最初に目についたところに合わせるだけなんです。シャッターを押すときも「今だ!」ということはなくて、流れている時間に委ねる。
というのも、カメラを覗いて絵を作りはじめると、どんどん整っちゃうんですよ。そうなると、写真と見ている人の間に会話が成立してしまうし、加瀬さんが言うように「自分自身の存在すら消してしまいたい」という気持ちもある。カメラに「任せるから、あとは撮っておいて」っていう感じに近いですね。
加瀬 理策さんはきっと、世界そのものの豊かさを信頼しているのかもしれないですね。ちなみにそういう感覚は最初にカメラを手にしたときからそうだったのか、あるときからそう思ったのか、どっちだったんでしょうか?
鈴木 大型カメラにしてから、そう思うようになりましたね。このカメラは磨りガラスに世界が逆さまに写るんですが、とてもきれいで、きらめく光や揺れる枝葉を見ていると時が流れていることを実感して、見尽せないものがそこにあると思えてくるんです。
そんななかでシャッターチャンスのようなものを求めても意味がないと感じるようになって、「今、自分が見ている光景が写真になったらどうなるのか」がポイントになりました。本来、人は行動に必要なものだけを見ていると思うんですが、カメラという機械を通すとズレが生じる。そこが面白いと。レンズは人の知覚を拡大して能力を拡張させるものであって、そこに現れる像はある種の錯覚、イリュージョンなんです。
加瀬 今回の展示でも一瞬「夜桜なのかな?」と思った写真があったんですが、立ち止まってよく見たら右の隅に緑が見えて、「あ、昼間だったんだ」って思って。
鈴木 錯覚という意味では今回、『水鏡』という新作を展示しているんですけど、これは水面とフォーカスがテーマなんです。湖を撮るときに、水の表面、そこに写る風景、水の底と、ピントの位置には選択の幅があります。人はそれら3つを行き来して見ていて、モネの『睡蓮』なんかはそれらを同時に描いています。でも、カメラだとそれができないんですね。だから、レンズを通して表れるものと肉眼の経験が異なることを示すのが、このシリーズの主題です。
あと、水面の波紋をスローシャッターで撮影した写真を眺めていると、動かない木と移ろう水面に異なる時間が流れているように感じられたりして、そんな錯覚を生む写真にもなっています。
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