ニックネーム:しばやん
性別:男性
年齢:60歳
都道府県:大阪府
京都のお寺に生まれたしばやんの日本史ブログです。このブログのファイル容量がなくなったのでFC2ブログに過去の歴史関係の主要記事を移し、平成26年1月5日以降の記事は新ブログにのみ掲載しています。記事のリンクやツィートなどは歓迎しますが、できるだけ新ブログのURLで案内していただきたいのでよろしくお願いいたします。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/

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2013年02月02日(土)
蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
以前このブログで、フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズが著した”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)という本の内容を紹介したことがある。
その本の中で、蒋介石にはドイツの軍事顧問団がついていて、その顧問団が蒋介石に対して、日本に対しては単独では勝てないので外国に干渉させるように仕向けることをアドバイスしていたことを書いた。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/219/

ウィリアムズ氏によれば、ドイツ顧問団が蒋介石に対して次のように進言したという。
外国に干渉するように頼みなさい。あなたは一人では勝てない。ロシアは今ここにはいない。協力者が必要でしょう。イギリスに頼みなさい。しかしながら、力のある干渉者となると好ましいのはアメリカです。こうしたことになるとアメリカ人はいつも便利だ。」(『中国の戦争宣伝の内幕』p.40)

「ロシア」の名前が出てくるのは、ドイツの軍事顧問団を招くまでは蒋介石の軍事顧問はロシアから招聘されていて、蒋介石が反共産党の姿勢を明確にしたためにロシアの軍事顧問団が離れて行った経緯にある。
蒋介石はこのドイツ軍事顧問団のアドバイスを受けて、外国人居留地のある上海に着目し、この場所で多くの外国人が殺害されれば、外国人が干渉するようになると考え、1937年8月に第二次上海事変を仕掛けることになる
当時上海にいた日本の海軍陸戦隊は、居留民の保護のために駐屯して軽武装の軍隊に過ぎず、圧倒的に数的有利な状態で蒋介石軍は上海への攻撃を開始したことになる

蒋介石はドイツ軍事顧問団のアドバイスどおりに国際世論の同情を誘おうとしたのだが、そのためには自国民を犠牲にすることも厭わなかった
8月12日に上海租界から外に通じる道路を遮断して、中国人を中心とする一般市民を閉じ込めたうえで、14日には中国軍機がキャセイホテルやパレスホテルなどを爆撃して民間人3000人以上の死傷者が出しておきながら、国民党メディアはその爆撃を日本軍がやったと嘘の報道を流したという。この戦いの経緯については以前に書いたので繰り返さないが、3か月に及ぶ消耗戦で日本軍は4万人以上の死傷者を出しながらもこの戦いに勝利し、11月9日に中国兵は一斉に退却したという。

前回まで2回にわたり、中国軍には戦場から退却する中国兵に銃撃を加える督戦隊(とくせんたい)のことを書いた。Wikipediaに第二次上海事変で多くの中国兵士が、味方の督戦隊に射殺されたことが書いてあるので紹介したい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

日本軍と交戦した中国軍の部隊が退却する際には督戦隊との衝突が何度も起きた。特に10月13日午後楊行鎮方面呉淞クリーク南方に陣を構えていた第十九師(湖南軍)の第一線部隊と督戦隊は数度の激しい同士討ちを行った。これは戦場に到着した第十九師の部隊が直ちに日本軍との第一線を割り当てられ、そこにおいて日本軍の攻撃を受けて後退した際に後方にあった督戦隊と衝突したものである。日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は必死に督戦隊を攻撃し、督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者を出している。…」
また、中国軍が退却するときに、相も変わらず掠奪と破壊が行われたことが書かれている。
「中国政府は『徴発』に反抗する者を漢奸として処刑の対象としていたが、あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりではなく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害するという光景を何回も見ている。中国側の敗残兵により上海フランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵と便衣兵に対処するためフランス租界の警官が銃撃戦を行うという事件も起きた。」

「漢奸」というのは、「裏切者」・「背叛者」のことを指すが、兵士の「挑発」に反抗する民衆までもが処刑の対象にされていたというのだ。
中国には古来から堅壁清野(けんぺきせいや)という戦法があって、城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことにより、進攻してきた敵軍が何も接収できないようにして疲弊させることが目的なのだが、このような目的のために処刑された民衆が、第二次上海事変だけで4000名もいたというのだ。

このように日本軍は戦いに勝利し中国軍を壊走させたのが、敗軍の追討のために翌月の12月に日本軍は南京を攻略することとなる。この時にいわゆる「南京大虐殺」があったとされているのだが、中国が声高に主張する歴史を鵜呑みにすることはないと思うのだ。
南京陥落直前の「第二次上海事変」や、少し前にこのブログで書いた翌1936年6月の「黄河決壊事件」の史実を学べば、南京で日本軍による大量の民間人虐殺があったとする説はかなり嘘っぽいことに誰でも気が付くと思う。

話を蒋介石のドイツ軍事顧問団の話題に戻そう。
蒋介石は顧問団の進言を受けて、一般市民の犠牲を出すことも厭わず、嘘のプロパガンダで日本軍の仕業だと報道して「外国の干渉」を導こうとしたのだが、結果としては失敗したのである。南京でも蒋介石は国際世論の同情を誘おうといろいろ仕掛けたのだが、それもうまく行かなかった。

前述したとおり「外国の干渉」を誘導する戦略は、ドイツ軍の軍事顧問の進言によるものなのだが、わたしがドイツ顧問団の存在を知ったのは、数年前に阿羅健一氏の『日中戦争はドイツが仕組んだ』を読んだときが初めてなのである。
ドイツは第二次大戦でわが国の同盟国であったのに、中国軍を裏で支援していたのは意外に思った。どういう経緯で、ドイツ顧問団が蒋介石を支援するに至ったのだろうか。

阿羅氏によると、もともと中国の軍閥には様々な外国人が軍事顧問として関わっていたという。
袁世凱(えんせいがい)を支援していたのはイギリス、呉佩孚(ごはいふ)はイギリス・アメリカ、馮玉祥(ひょうぎょくしょう)はソ連が支援していたそうだが、蒋介石はドイツの前にはソ連から支援を受けていたようだ。
しかしその後蒋介石が中国共産党と対決するようになったために、1926年にソ連の軍事顧問は国民党を去って中国共産党の軍隊の指導を始めるに至る。

そのために蒋介石はソ連に代わる軍事顧問団を必要とすることとなり、国民党の招きで広州にやって来たドイツ軍のマックスバウアー大佐に顧問就任を要請し、大佐はその要請を承諾して1928年の秋に軍事顧問団が組織され、ドイツの新しい兵器が中国にもたらされたという経緯のようだ。
1933年にナチスがドイツの政権を握ると、ドイツは挙国一致での戦争経済推進を政策に掲げ、軍需資源の確保、特に中国で産出されるタングステンとアンチモンを重視したためドイツと国民党との関係はさらに親密となり、軍事顧問団は他の軍閥や共産党との争いだけではなく、昭和7年(1932)1月の第一次上海事変以降は日本軍との戦いにも関与するようになったという

一方我が国とドイツとの関係はどうであったか。
以前このブログにも書いたが、1935年7月に第7回コミンテルン大会で、その後の世界史を揺るがす重要な決定がなされている。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/193/
Wikipediaの解説では、この大会における決議事項をこう纏めている。
「第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること
第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ…に選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、
第三に日本を中心とする共産主義化のために中国を重用することが記されている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3#cite_note-17

ソ連の仮想敵国とされたわが国とドイツは翌1936年11月に、ソ連をお互い警戒し相互に協力する協定を締結(日独防共協定)したものの、ドイツは対日接近にはかなり消極的であったようだ。この頃のドイツは英米が支援しかつ資源のある中国との関係維持を優先し、反共勢力としては、日本よりも蒋介石の方を選択していたのである。ちなみに1937年のドイツの武器輸出総額の37%が中国向けであった。

「南京事件」や「黄河決壊事件」のころは、ドイツ軍事顧問団が蒋介石を指導していたことを忘れてはならないのだと思う。
蒋介石から中国軍の強化策を問われて、当時軍事顧問団長のであったゼークト大将は「中国の軍隊に対して日本に対する敵愾心(てきがいしん)を養うこと」が肝要だと答え、さらに1935(昭和10)年1月には、ファルケンハウゼン中将は「中国国防基本方針」と題する対日戦略意見書を蒋介石に提出している。しばらく阿羅氏の著書を引用する。

日本が攻撃したとしても、日本は、極東に戦略的地歩を求めるソ連に備えなければならず、中国に経済的関心を持っている英米と対立することになり、日本の財力はそういった全面的な国際戦争に耐えられない、とファルケンハウゼンは分析し、中国は長期戦に持ち込んで、できるだけ多くの外国人を介入させる、という戦略を示した

1935年10月1日には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲して主導権を握るように進言していた。漢口と上海の租界では日本の海軍特別陸戦隊が邦人の保護のため駐屯しており、この日本軍を奇襲しようというのである。日独防共協定締結の約1年前にドイツ人が中国にこの様に献策していたのだ。」(『日中戦争はドイツが仕組んだ』p.40)

引用を省略したが、持久戦に持ち込むまでの方策や、防衛策についてかなり具体的に書かれているのは驚きである。Wikipediaにファンケルハウゼンの対日戦略の解説が書かれている。この解説によると蒋介石にゲリラ戦を薦めたのはファンケルハウゼンだったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C

しかし、蒋介石にとっては最大の敵は共産軍であって、直ちに日本と戦うというファンケルハウゼンの考えには反対であった。

「しかし、ファルケンハウゼンの対日戦の進言は執拗に続けられた。昭和11 (1936) 年4月1日になると、今こそ対日戦に踏み切るべきだ、と蒋介石に進言する。
ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手が上がって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争に踏み切るべきだ。』
ひと月半前、二・二六事件が起こって日本軍部が政治の主導権を握り、軍部の意向が阻害される可能性が少なくなり、その一方、ドイツがラインラントに進駐してイギリスの関心はヨーロッパに向き、中国の争いに介入する余裕がなくなった。そのため、英米の関心が少しでも中国にあるうちに中国から日本との戦争に踏み切るべきである、というのである。」(『日中戦争はドイツが仕組んだ』p.41)

ファンケルハウゼンはその後も対日戦を主張し、何度も蒋介石を煽ったという。献策の全てが採用されたのではなかったが、蒋介石はファンケルハウゼンの意見に耳を傾け、一部は実行に移されたのである。

阿羅氏が著書の中で、ドイツ軍事顧問団と上海戦線を目の当たりにした宇都宮直賢大尉の言葉を紹介している。
中国におけるドイツと、ソ連の軍事工作振りからみたら、大東亜戦争に入る前の英・米の動きなどまだまだ紳士的だったといえる。」(同上書 p.245)
英米は都市を空襲して数多くの無辜の人々を死に至らしめたが、それよりもはるかに中国やソ連の方がひどかったと言っているのだ。

ファンケルハウゼンがなぜ、外国人の軍事顧問の立場で中国指導層に執拗に反日を煽ったのかは未だによく解っていないようなのだが、ひょっとすると彼はコミンテルンにつながる人物であったのではないだろうか。以前このブログで書いたスターリンの1935年の第7回コミンテルン大会におけるこの演説が私には引っかかるのである。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/193/
当時はコミンテルンの工作員が世界中で暗躍していた時代であったのだ。

ドイツと中国の関係が変化しはじめるのは1937年8月に中国がソ連との間に「中ソ不可侵条約」を締結したことでヒットラーの態度が硬化し、1938年の4月に中国への軍需物資の輸出が禁止され、5月に軍事顧問契約の解除を正式に申し入れ、6月にドイツ軍事顧問団は中国を去っている。
ちなみに「第二次上海事件」は1937年8〜11月、「南京陥落」は12月、「黄河決壊事件」は1938年6月だ。ドイツ軍事顧問団が背後にいた時の出来事が正しく伝えられていないことを知るべきである。

その後1940年に日独伊三国同盟が締結されわが国はドイツの同盟国となったのだが、驚くべきことにファンケルハウゼンはヒトラーの暗殺計画に参加したという。
1944年7月20日総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」に爆弾を仕掛けて、ヒトラーを爆殺してクーデターをおこし政権を掌握する計画が実行されたのだが、この時にヒトラーの数人の側近は死亡したにもかかわらずヒトラーは奇跡的に軽傷で生き残った。
メンバーは次々に捕えられ、ファンケルハウゼンも7月29日にゲシュタポに逮捕されて、強制収容所に送られたが、この件では何千人も逮捕されたものの全貌が解明されないままヒトラーが自殺して、その後処刑を免れたという。

中国軍がナチス・ドイツの軍事顧問の指導を受けていたことは明白な事実であるにもかかわらず、なぜこのことを書いている歴史書が少ないのかと不思議に思うのは私だけではないだろう。戦勝国の中国にとっては、ナチス・ドイツの力を借りて多くの民間人を犠牲にしたことは「都合の悪い史実」であるのかもしれないが、事実であるならばわが国の歴史家は堂々と書けばいいだけのことである。いつまでも戦勝国に配慮して、わが国だけを悪者にするようなストーリーで昭和の時代を描こうとしては、歴史叙述が真実から遠ざかっていくばかりではないか。

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2013-02-02 20:43 | 記事へ | コメント(3) |
| 歴史雑記 / 昭和時代雑記 / 太平洋戦争雑記 |
ナチス・ドイツと蒋介石の中国
ドイツが軍事援助の見返りとして中国に望んだのがタングステンなどのレアアースだ。タングステンは砲弾の生産やドリルなどの工作機械の刃に不可欠で、中国は現在でも世界の生産高の8割以上を誇るが、ドイツでは全く産出されなかった。国民政府が提供したタングステンがドイツの軍需産業を支え、これによる軍事力がヨーロッパでのドイツ勢力の拡大を可能にしたのである。
中国とドイツは互いに支え合い、両者の利害は一致したのである。
北村・林(2008)「日中戦争」(PHP研究所)p.113-114.より

軍備の刷新をめぐる国民政府とドイツの親密な関係は、最近では日本の研究書でも触れられている(兵藤二十八・別宮暖朗「技術戦としての第二次世界大戦」PHP研究所、2005年)。
しかし、国民党独裁時代の台湾で出版され、国民政府の立場から詳しく日中戦争を論じた「蒋介石秘録」には、フォン・ゼークト将軍とトラウトマンの和平斡旋以外は、国民政府とドイツとの関係は取り上げられていない。
この理由を考えてみると、「日本のファシズム」を抗日戦争により打倒したと主張する国民党には、「日本のファシズム」の盟友で「歴史の罪人」となったナチス・ドイツとの親密な関係は、第二次世界大戦後には触れてはいけない過去なのである。
さらにまた、日本における日中戦争研究では、「日本の侵略戦争」を批判することが大前提である。そしてこの大前提に立つ限り、「日本の侵略戦争」と闘った中国の国民政府がナチス・ドイツの軍需産業の発展に大きな貢献を行い、この軍需産業の発展がナチス・ドイツのヨーロッパ侵略の原動力となった事実は、説明できない歴史の皮肉であった。
中独間の親密な関係が、日本では詳しく取り上げられてこなかった理由である。


我が国の近現代史研究者が、戦勝国史観という敗戦利得者の既得権益にまみれ、「国民のための歴史を明らかにしようとしない」のは、後世指弾されるでありましょう。
左翼歴史家は後世に恥を残せ。
異を唱えるのは歴史研究のシロウトばかり。独文の西尾幹二氏、英文の渡部昇一氏、しばやん氏ですね(W

戦後、大学法学部も左翼に占領されました。「日本国憲法無効宣言」を書いた南谷喜久治氏は、「法学部を出なかった弁護士」であるということも、興味深い事例です。

利権から離れた素人が、自由な立場から学問の新局面を拓くのであります。
たつやさん、素晴らしいコメントを頂きありがとうございます。私は、偉い先生の足元にも及びませんが、名前を並べていただいき恐縮です。

「日中戦争」という本は未読ですが、ナチスドイツと中国との関係をしっかり記述している本がほかにもあるのですね。

戦後の公職追放の後に、有名大学の法学部だけではなく、経済学部や歴史関係の講座はかなり左翼に占領されました。マスコミや出版界、教育界、映画界などもそうだと思います。
「敗戦利得者」という言葉は言いえて妙で、彼らは未だにその「利権」を守る姿勢を崩してはいません。しかし、いずれはそれらの世界も世代交代が進んで、それぞれの若い世代がまともなことを研究し、語るようになることを期待しています。

確かに今までは、「利権」から離れた素人の方が、まともなことを言っている印象がありましたが、その考えがなかなか広がらなかったのは、「敗戦利得者」が拡げた「自虐史観」に国民の大多数が洗脳された状態にあるからだと思います。
自由な立場で議論がなされていくためには、国民が自らその洗脳を解いておかしい記述にNoが言えるようにならないといけませんね。

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