いつか朝日が昇るまで

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そもそも充たされない承認欲求が問題ではないか

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以下のシロクマ先生(p_shirokuma)のエントリーを読んだ。充たされた承認をどうするかという話だけれども、そもそも承認欲求というのは満たされないから問題ではないのかと思うんですよね。


充たされた承認欲求、あなたは何に転用しますか? - シロクマの屑籠

 

以下のエントリーでも書いたけれども今の時代、「空虚な承認ゲーム」が繰り広げられており、承認欲求が満たされるという状況がかなり難しいと思うんですよね。 

「空虚な承認ゲーム」から抜け出せるのか - いつか朝日が昇るまで

 

 社会規範の拘束力は弱くなり、社会は自由に生きることを認めている。しかしそれでも、多くの人は自由には生きられない、見えない縛りを感じている。それは身近な人間関係の縛りであり、一見、抜け出すことは容易に見えるのに、なぜか抜け出すことができない。生きる価値を見失ったニヒリズムのなかで、自己価値の承認を手にする道筋が見出せず、身近な人間関係のなかで、「空虚な承認ゲーム」を繰り返してしまうのだ。(174頁)

 

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

 

 

こうした難しい状況ではあるのですが、そこからの脱出には「見知らぬ他者の承認」と「自分の意志で行為を選択すること」が重要であるとこの本の著者は考えています。

 

 確かに居場所を用意され、コミュニケーションの技術が少しでも高まれば、一時的に承認不安は解消されるだろう。だがそれは、身近な他者の承認のみを対象としているため、ちょっとしたことで承認不安が再燃し、「空虚な承認ゲーム」に転化する可能性がある。そこには承認を確保するだけで、自由を確保する道がない。しかもこの承認の内実が空虚なものであれば、承認不安はつねにつきまとい、自己価値に自信を持つことは難しい。

 しかし、自己了解と「一般他者の視点」による内省ができるなら、私たちは身近な他者の承認のみに執着せず、「見知らぬ他者」の承認を確信することで、また自分の意志で行為を選択することで、自由と承認、両方の可能性を切り開くことができる。たとえ承認不安への即効性がないとしても、私たちはこの可能性を捨てるべきではないだろうか。(216-217頁)

 

他者からの承認というのは難しいものであるけれども、個々が「一般他者の視点」を持って、身近な人以外から承認される必要性はあるかと思う。そして承認される側だけではなく、承認する側も相手を認める姿勢が必要になるのでしょう。

 だがもし、私たちが誰かを助けるための行為に価値を認め(=一般的承認の想定)、それを遂行するすることができれば、そうした行為の連鎖は孤立した人々の心に火を灯し、「自分は見捨てられていない」という親和的承認の実感を与えることになるだろう。また人助けをした人々も、単に自己承認できるだけでなく、相手の感謝や周囲の賞賛によって、実際に承認が得られる可能性は高いはずだ。こうして、社会のなかで少しずつ相互に承認し合えるきずなが深まっていくなら、現在のような承認不安も払拭されていくのではないだろうか。(219-220頁) 

 

そういう意味ではネット社会というのは他者の承認を得やすい場所ではあるかと思うのですが、ただそれが「一般他者」なのかどうかというのは常に考えないといけないでしょう。と同時に、他者の善行に対して承認を与えてあげること。しっかりと認めてあげること。ここまで書いて「これって子育てと同じだね」と思うんですよね。「社会で子育てをする」というのは子どもを社会全体で育てるという意味だけではなく、子どもを育てるかのごとく、社会全体が他者を認め、寛容になることが必要なのかもしれません。難しいことではあるかもしれませんが…。