「日本政府は、栗山さんがたった一人で続ける仕事に、負けてはいられません」
2014年1月、エチオピア・アディスアベバで行われたアフリカ政策スピーチ。安倍晋三首相が、一人の日本人女性の名を口にした。
栗山さやか氏、34歳。エチオピアの医療施設などでHIVや末期ガン、貧困に苦しむ患者に献身的に寄り添ってきた。現在はアフリカ南東部にあるモザンビークで、貧しい女性たちへの医療・衛生情報の提供や、子どもたちの学習支援などを手がける。
2014年12月には、現地で医師に代わって初期段階の医療行為を行う「医療技術師」の国家資格を取得した。しかも、この地に足を踏み入れるまで話すことも読むこともできなかったポルトガル語で。モザンビークで医療技術師になった日本人は彼女が初だという。
縁もゆかりもないアフリカの地に渡り、なぜこのような活動を始めたのか。『なんにもないけどやってみた――プラ子のアフリカボランティア日記』を執筆し、9年ぶりに日本に一時帰国した栗山氏に話を聞いた。
(聞き手は瀬戸久美子)
2006年にバックパックひとつ背負って日本を離れ、アジアや中東を回った後、アフリカの医療施設で多くの患者の最後を看取る活動を手がけてこられました。2014年12月には邦人初の医療技術師の国家資格を取ったと聞いています。栗山さんのことを「日本版マザー・テレサ」と称する人もいますが、バックパッカーを始める前は「SHIBUYA 109」の店員だったとか。
1980年静岡県生まれ。SHIBUYA109のショップ店員を経て、都内の有力店の店長に。OLやさまざまなアルバイトを経験した後、25歳でバックパッカーとして世界60カ国以上を巡る旅に出る。エチオピアの施設でボランティア活動に従事し、モザンビークで協会「アシャンテママ」を設立。2015年3月からは医療技術師として現地の病院に勤務している。『なんにもないけどやってみた――プラ子のアフリカボランティア日記』を上梓。
栗山:20代前半の頃は、いわゆる渋谷の「ガングロギャル」でした。短大に通いながら、知り合いの紹介で109にあったショップの店員になって。週に3回は日焼けサロンに通い、真っ黒な肌につけまつげを2枚付けして、髪は真っ赤。家にもほとんど帰らず、派手な格好をして朝までクラブで遊ぶ生活でした。
22歳で店員を辞めた後は、企業の受付業務から家政婦まで、さまざまな仕事を掛け持ちしながらフリーター生活をしていました。ボランティアやアフリカといった世界とは、まったくの無縁でした。
親友の死を胸に、バックパックを背に
そんな栗山さんがなぜ、アフリカで女性や子どもたちの可能性を広げる活動を始めることになったのですか。
栗山:きっかけは、25歳のときに訪れた親友の死でした。
乳がんだった彼女は、22歳を過ぎた頃から闘病生活をしていました。手紙やメールで頻繁にやり取りをしていましたが、日が経つにつれて状況は悪化していく。ある日、東京にいた私に彼女はこんな手紙を送ってきました。
「もう2度と家に帰れない気がする。どうしようさやかちゃん」
でも当時の私はお金を稼ぐことに必死で、静岡で闘病生活を送る彼女に年に数回会いに帰るのがやっとでした。そんななか、彼女が亡くなる3日前にお母さんから連絡が来て、「もう先が長くないと思う。会いに来てやって」と言われたのです。
急いで静岡に帰ったら、苦しそうな様子の彼女がベッドに横たわりながら聞くんです。「さやかちゃん、東京はとっても寒いでしょ? ひとり暮らしで、ちゃんとごはん食べてる? 風邪引いたりしていない?」って。酸素マスクをつけて意識も朦朧としているのに。
彼女が亡くなった後、彼女からのメールや手紙を読み返しながら自分の汚れた心を恥じました。「どうして私は自分のことしか考えていなかったんだろう」と。同時に、私は残りの人生をどう生きればいいのだろうと、自分自身のあり方について深く考えました。
もっと視野を広く持って、彼女のように強く、優しい人になりたい。そう心に決め、彼女の一周忌が終わるのを待って、いずれ親に渡そうと貯めていた400万円を資金源に、バックパックを背負って日本を出ました。