【2002年4月10日配信】[No.057]
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【今回の歌】
人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の 香(か)ににほひける
紀貫之(35番) 『古今集』春・42
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4月です。新入学、新入社おめでとうございます。きっと希望
に胸をふくらませていることでしょう。この春のぽかぽか陽気の
ように、いいこといっぱい、の今年になればいいですね。
学校や会社に慣れるにつれ、面白いことや逆につらいことも出
てくるでしょうが、「笑門来福(笑う門には福来る)」といいま
す。みんな最初は慣れないものですので、元気に笑い飛ばしてい
きましょう。
さて、春の歌で花といったら「桜」を真っ先に思い出しそうで
すが、実は今の時期には梅もまだまだ美しく咲きほころんでいま
す。今回は平安時代の大文豪が訪れた宿でのエピソードです。
■□■ 現代語訳 ■□■
あなたは、さてどうでしょうね。他人の心は分からないけれど、
昔なじみのこの里では、梅の花だけがかつてと同じいい香りをた
だよわせていますよ。
■□■ ことば ■□■
【人は】
贈答歌ですので、「人」は直接には相手のことを指していますが、
後の「ふるさと」と対比した、一般的な「人間」という意味も含
んでいます。
【いさ心も知らず】
「いさ」は下に打消しの語をともなって、「さあどうだろうか、
…ない」という意味になります。「心も知らず」は「気持ちも分
からない」という意味ですので、全体では「さあどうだろうか、
あなたの気持ちも分かったものではない」という意味になります。
「も」は強意の係助詞です。
【ふるさとは】
「ふるさと」には、「古い里」「古くからなじんだ場所」「生ま
れた土地」「古都」などの意味があり、ここでは「古くから慣れ
親しんだ場所」という意味になります。
【花ぞ】
「花」は普通桜を指しますが、ここでは「梅」です。「人の心」
と「ふるさとの花」が対置されています。
【昔の香ににほひける】
「にほひ」は動詞「にほふ」の連用形で「花が美しく咲く」とい
う意味です。色彩の華やかさを表してる言葉でしたが、平安時代
になると視覚だけでなく「香り」といった嗅覚も含まれるように
なりました。
■□■ 作者 ■□■
紀貫之(きのつらゆき。868?〜945)
平安時代最大の歌人で、「古今集」の中心的な撰者であり、三十
六歌仙の一人です。勅撰集には443首選ばれており、定家に次いで
第2位でもあります。古今集の歌論として有名なひらがなの序文
「仮名序(かなじょ)」と、我が国最初の日記文学「土佐日記」
の作者として非常に有名であり、教科書にも取り上げられている
のはご存じでしょう。
役人で大内記、土佐守などを歴任し、従五位上・木工権頭(もく
のごんのかみ)になりました。
土佐日記は、土佐守の任を終えて都に帰るときの旅の様子を1人
の女性に託してひらがなで書かれた日記です。
■□■ 鑑賞 ■□■
さて、この歌は古今集に収められたものですが、詞書に「初瀬に
詣(まう)づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程へて
後にいたれりければ、かの家の主人(あるじ)、『かく定かにな
む宿りは在る』と言ひ出して侍(はべ)りければ、そこに立てり
ける梅の花を折りて詠める」とあります。
すなわち、昔は初瀬の長谷(はせ)寺へお参りに行くたびに泊
まっていた宿にしばらく行かなくなっていて、何年も後に訪れて
みたら、宿の主人が「このように確かに、お宿は昔のままでござ
いますというのに」(あなたは心変わりされて、ずいぶんおいで
にならなかったですね)と言った。そこで、その辺りの梅の枝を
ひとさし折ってこの歌を詠んだ、ということですね。
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あなたの方はどうだったんです? ちゃんとずっと覚えていて
いただいてたんでしょうかね。昔よく訪れたこの里は、昔ながら
に梅の良い香りを漂わせていますのに。
◆◇◆
紀貫之は、「土佐日記」で歴史上はじめて日記文学を書いたり、
古今集を先頭に立って編集し、歌論として有名な「仮名序」を書
くなど、平安時代を代表する「大文豪」です。
その彼が久々に訪れた宿。まあ言うなれば、昔なじみだったホ
テルを久々に訪れた老いた大俳優が支配人から
「ホテルは昔のままでございますよ。あなたはお変わりになられ
たようですが」
などと言われたので、花びんのバラの花を一本抜いて、
「君も私のことなんて忘れてたんじゃないかね。世間ってものは
忘れっぽいものさ。花びんのバラはずっと昔のままだけどね」
なんて小粋に切り返した、といったところでしょうか。この歌に
紀貫之の機転と粋でダンディな雰囲気を感じてしまうのは、私だ
けでしょうか。
もちろん宿の主人が女性で、遠い昔の恋愛を暗示している、と
考えることもできます。どちらにせよ、紀貫之が世間と人生を語
る一首といってよいでしょうか。
◆◇◆
この歌の舞台は「初瀬の長谷(はせ)寺」、現在の奈良県櫻井市
初瀬町の長谷寺です。近鉄大阪線長谷寺駅下車、徒歩で約20分の
距離です。お寺の中には樹齢100年を越える巨大なしだれ桜があり
ますが、このメルマガが届く頃にはぎりぎりまだ見られるかもし
れません。4月下旬からは150株7000本のボタンが咲き誇ります。
桜井は日本書紀や古事記などによく登場する、文字通りの「ま
ほろば」です。万葉の歌碑があちこちに点在しており、散策には
もってこいです。ぜひ一度訪れてみてくださいね。
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