ザ・ドキュメント 想いを伝えて〜阪神淡路大震災・父子が歩んだ20年〜 2015.03.09


(ナレーション)神戸市東灘区の中学校に阪神・淡路大震災について書かれた作文が保存されています。
これですね。
兄と弟が中学1年生のときにそれぞれ書いた作文です。

(スタッフ)お兄ちゃんはびっしり書いてる。
・こっちがお兄さんですね。
こっちが弟さんですね。
兄は小学2年生で体験した地震当日の様子を詳細に記しました。
(元気)「ガタンガタンバラバラバラと大きく揺れ家の天井が崩れてきた。
何が起きたのかもわからない間に完全に閉じ込められてしまい真っ暗で何も見えなかった。
そこから外へ出て最初に目の当たりにしたのは信じられない光景だった。
お母さんお母さんいくら呼んでも返事がない。
なぜか急に寒気が襲ってきた。
もう1度さっきよりも大きな声で呼ぶことにした。
お母さんお母さん。
やはりいくら呼んでも返事はなかった」。
きっとねっ呼んでも返事はなかったけどきっと生きてるはずや。
朝も早かったからまだ寝とうだけやずっと信じてました。
そんときにお父さんがやって来て。
で先生と弟に向かって助けようとしたけどあかんかったわっていうふうに言いました。
先生と弟はそこでず〜っと泣いてました。
お父さんはねいつまでも泣きやまへん2人を見てこうやって言ってくれました。
もう家族3人しかおらんようなってしもうたからこれからは家族3人で力合わせて頑張っていこな。
お父さんも泣きながらそうやって言ってくれました。
その言葉を支えに何とかその3人で力を合わせてこれまでやってこれました。
阪神・淡路大震災から20年。
父と息子それぞれの思いがあります。
お父さんの…この20年毎朝台所に立ってきました。
長男の元気さんは28歳になりました。
チーンチーンいつもお兄ちゃんたちの後を追いかけていた…。
…は幼稚園の先生でした。
(博也)元気いつもの時間出ていくやろ?元気。
うん。
うん。
自宅で学習塾を経営するお父さん。
家事の負担は随分と軽くなりました。
はい。
ふぅ〜ふぅ〜。
いってきます。
(博也)はいいってらっしゃい。
見送りませんそんなん見送っとったら過保護になるからな。
毎朝ああやって作ってやってるほうが僕にとってもちゃんと早起きできるでしょ。
夜あんまり飲まんでええでしょ。
だからこれがでけへんようなったらもうあかんなと自分でも思とうからねうん。
クイズ出しますね私の好きな食べ物は何々です。
元気さんは神戸市で小学校の先生をしています。
はいじゃあ。
受け持つのは2年生のクラス。
はい違います。
えぇ〜。
・わかったわかった…。
はいはいはい。
元気さんが家族を亡くしたのも2年生のときでした。
・あかんって!1回やったやん。
1回やったやん!違いました。
自分が考えてきたことを子供たちに伝えたい。
そう思って先生になりました。
ええ感じやんちょっと。
元気。
陽平にええ感じのとこ食われるぞ。
うわ〜。
あの日を境に料理はお父さんの担当になりました。
1歳下の次男陽平さん。
27歳になりました。
今は家を出て1人で暮らしています。
(陽平)今写真入ってデザインで上がってきてて今から原稿を書いていくという状態で今はけっこうそれをひたすらやっているとこですね。
まあ校了まであんまり時間ないんで。
文章を書くことが好きで情報誌のライターになりました。
何ちゃらの何ちゃらさんみたいなんで。
でちょっとひと言足すぐらいに。
でここは…。
長谷川さん一家が住んでいた神戸市東灘区は最も犠牲者が多かった激震地です。
十数秒の強い揺れで木造家屋が軒並み倒壊しました。
陽平さんは小学1年生でした。
まあそんときに祖父の車乗ってきててその車が自分らの前にこう来て。
で祖父が泣きながら中から出てきて。
でお母さんと翔人が死んでもうたとひと言言われた…。
で後部座席をこう開けるとまあ2人が横たわっておるというあれなんですけど。
ただやっぱり何でしょう横たわってる2人を見てあっこれは寝てるんじゃない死んでるんやなっていうのがやっぱり直感的にわかったんですよね。
やっぱりそこのときの衝撃というかそれはすごい覚えてます。
これは絶対この人たちは生きていない…この人たちはというかお母さんと弟なんですけど。
見た瞬間あっ死んだっていうのは正直思いました。
長谷川さんが住んでいたアパートです。
1階に寝ていたお母さんと翔人君は2階の床に押し潰されました。
陽平さんは震災についてこれまで多くを語ることはありませんでした。
どうせわからんでしょっていう。
何かこう中途半端な共感を示されるのがすごい嫌っていう。
やっぱりこれは今でも思うんですけど何かうれしかったこととかね何か喜びみたいなものをひとと分け合うっていうのが非常に僕はいいことやと思うんですけどあんまり悲しいことってひとと分け合ってもあんまり結局その悲しさは減らないし。
一番自分に合う悲しさって何か変な言葉ですけど多分それをほんまに徐々に徐々に消化していく。
それとの向き合い方はやっぱりもう僕は自分で探すしかないんかなという気はしててうん。
ここ数年は小説を書くことで閉じ込めてきた自分の心と向き合っています。
ようさんあるな。
これか。
これ着とってんけどもう何かきつなってきてな。
これかなるほどな。
これも着ぃへんからあげるわ。
これきれいから。
あっええやん。
全然いける。
ここきつない?ここ。
ここ。
肩きついやろ?多少な…。
きついからちょっと…。
でもこれぐらいので全然着るで。
手ぇ上げてみて。
それ意外といけんねん。
いやちゃう何かもういちいちいいもん買うてんなと思って。
出てきたビデオ見る?震災のあとビデオのカメラがあったんや。
はいはいはい。
(博也)ほんでそっから出てきたんやけどちょこっとだけお父さん見てちょっとしんどかったからお前らには黙っとったんやけどな。
とりあえず…。
えっだから震災前の?
(博也)そうそうそうそう。
翔人とかが…お前らも映ってるわ。
(博也)自分で弾いとんで。
(翔人)あっ!
(規子)はい。
撮影しているのはお母さんです。

(ピアノの音)何かつかまったら立てそうやけど立たれへんな。
(博也)なっ。
(翔人)ばぁ〜。
はははっ!
(博也)話するの遅かったんかな?1年…。
(博也)何かうん。
・ドレミファシュシュシュシュ・チャオチャオ・ドレミファシュシュシュシュ・バイバイバイ・ドレミファシュシュシュシュ・チャオチャオシュッシュッポッポッ!シュッシュッポッポッ!終点!うわ〜。
むっちゃおもろい。
これ秋か。
多分な。
真夏ではないな。
頭おっきいぞお前。
頭おっきいな。
こんな子おらへんもん。
2年生俺見とうけど。
(博也)もう歩きよるほら。
あれ歩いとんか。
(博也)おう。
(規子)・や〜いや〜いやい
(規子)翔人が…あっ!よいよいよい。
(規子)あっすご〜い!20年ぶりに聞くお母さんの声でした。
(規子)もっかいすんの?
(規子)せぇ〜の!
(規子)よいよい…おっ!
(規子)もうちょっとだね。
めっちゃ優しい声してましたね。
翔人やから…翔人と話しとうから余計やろうけど。
まあすごいそのとき何か思い出しましたねうん。
何か優しかったんやなぁって。
生まれたときは何かあぁ〜赤ちゃん生まれたみたいな感じやったけど。
こう一緒に生活していく中でだんだんできることがやっぱ多くなって…。
どうなっていくんかなっていうのがすごい楽しみでしたねうん。
けっこうつらかった正直。
そうやな何かけっこう2人が兄貴とおやじが割と2人共けっこうね泣いてしまいそうになるんがわかってたんですけど。
けっこう…それを何か…。
何かそれを見せんためにけっこうしゃべってましたよ無理やりね。
(スタッフ)はははっ無理やりね。
何かもう…そうそう何か無理やりしゃべってはるわとか思ってもう見たまんま言うてるやんみたいなシーンとかがけっこうあって。
あぁ〜2人共何かこらえとんやなと思って。
何かこらえる必要ないと思うんですけどやっぱりね何かみんな男なんでね。
ちょっとそんな感じになってまいますよね。
兄貴はお母さんの記憶というかそれがやっぱりけっこう強いみたいなんですけど。
僕はやっぱり何か弟なんですよねすごい。
うん。
うん。
すいませんちょっと…。
何かやっぱりまあね初めて出来た弟やったんで。
お母さんと翔人君への深い思いはそれぞれの胸の内にそっととどめてきました。
お母さんと翔人君のお骨は20年間残された3人と共にありました。
よし。
よいしょ…。
あれはね1つは僕自身の思いやけれども。
まあもう1つはやっぱり子供がね大きくなるまでほんと18ぐらいなるまでまあ置いとってもいいかなというか。
もうちょっと子供らが大きくなるまで見とってほしいなっていう…。
それ僕初めて聞きましたけどねでも。
成長見とってほしいっていう話は。
そうなんや。
いやそりゃねおやじはいろいろ…めちゃめちゃ思うことがいろいろあると思いますけどね。
新しい新築の家が出来て引っ越してけっこう間もなかった頃にこれはあんまりひとには言うてない話なんですけどおやじが風呂場で泣いてたの僕は見てるんですよ。
1人で。
…とかもあってだからその状態から今のしかたないという状態にいくまでにどんなプロセスがあったんやろうっていうのをけっこう考えると…。
割と何かそこはすごい…。
つらかったやろうと思いますねやっぱりうん。
よいしょ。
お父さんはいつの頃からか起きたことはしかたがないと口にするようになりました。
確かにしかたないのはしかたないので。
地震がなかったら多分別の生活があったんやろうなっていう…あれかな。
まあ母親がねあの子らにとってけっこう厳しくていいお母さん多分ねやったんやろうなと。
多分じゃないきっとそうだったろうなと思うから。
まあその代わりは絶対できないからね父親はね。
(博也)当時43やからね今もう63やから。
63で同じ目に遭ったら多分生きていけないと思うわ。
まだ43やったからね。
まだ未来があるみたいなねっ思ってたけど。
今はもう堪忍してほしいわ。
今から同じ苦労はできません。
20年の節目の1月17日。
陽平さんは初めて神戸市の追悼行事に参加しました。
午前5時46分ちょうどをお知らせします。
ピッピッピッピーッ!・黙とう。
・お直りください。
それでは慰霊と復興のモニュメントにて献花式を行ないます。
皆様ご移動ください。
20年前は小学1年生でした。
自分の思いは誰にもわからないそう思って生きてきました。
何かわかってたまるかって思うってことはちょっとどっかでやっぱりわかってほしいわかる人がいたらいいなみたいなのが多分あったんですよ恐らく。
だからそういうふうにちょっと突っ張れてたんでしょうけど。
まあそこを割り切ることができたのが一番大きいですかね。
今何か自分が伝えれるものというか見せれるものはあるんじゃないかなっていうのは思ってて。
だから今20年たってあのころそういうことがあった人が今こうなってますよと。
こういうこと言うてますというのを見てくれて。
その見てくれた人が何か思うことがあればいいかなというかうん。
遺族が思いを伝えることにどんな意味があるのでしょう。
神戸で語り部の活動を始めた元気さんは東日本大震災の被災地で自分の体験を伝え続けている人たちにその意味を尋ねにきました。
宮城県…全校児童108人のうち74人の児童が死亡行方不明となりました。
大津波警報が出ていましたが裏山へ上るという判断ができず学校もろとも津波にのみ込まれました。
遺族の1人で中学校の先生でもある佐藤敏郎さんを訪ねました。
佐藤さんは6年生だった次女みずほさんを失っています。
膝がちょっと今…。
(佐藤)ええどうぞ向こうに行きましょう。
いいですか。
(佐藤)はじめまして佐藤ですよろしくお願いします。
長谷川と申します。
よく子供はほら地域の未来であり地域の宝っていうじゃないですか。
それは実感しました。
大川地区は10年後20年後にここの中心になるべき未来が消えたわけですよ。
例えばここの地区だって8人小学生いたうちの6人がいなくなった。
一気に一瞬のうちに。
だからそのことのね意味の大きさっていうか。
(佐藤)ここに街があったことここに生活があったことここに命があったことを多分誰も思い出さなくなるなと思ったんですよ。
割とこうそっとしてほしいんだけども忘れてほしくないっていうのってもしかしてこう両立できるんじゃないかなと思うんですよね今は。
大川小のことも。
そっとしてほしいので目を背けたい人も多いんだけどでも多分目を背け続けることは逆に穏やかにならないなっていうふうにも…。
きちっと何があったかだから今があってこれからの未来があるっていうことなのかなって思って今話をしているんですよ。
少しでも向き合おうとか前向こうっていう思いになってくれるんやったら何かそういう…自分が今こういうふうに思って小学校の子供たちの前で話をしてますとかっていうことを何か伝えていくことは大事かなっていうような思いで僕もいるんですけど。
(佐藤)そうだよね。
1人でも2人でもそういうふうな…向き合えるっていうかね。
いわゆるこう閉じ込めてきたりとか言葉を失ったまんまだったりする人が少しね動くようなきっかけになれるかもしれないですね。
中学3年の只野哲也さん。
当時大川小学校の5年生でした。
3年生だった妹お母さんそしておじいさんを亡くしました。
(只野)多分午後には雪になると…。
へぇ〜。
哲也さん自身も津波にのまれ一時意識を失いました。
(只野)木がいっぱい倒れてるとこあるじゃないですか。
杉の何か上のほうに。
多分っていうか上がったのがちょうどあそこの上らへん。
へぇ〜。
(只野)これがこう上がったそこで…。
目覚めた?
(只野)目覚めたんですよ。
気が付いたのがあそこだった。
だいぶ上がったんですよね。
でもあっち側だったから多分やっぱ流されたのかなって思ったんですけど。
やっぱりのまれた瞬間はもう記憶ないんで。
ひとにこう…こうやって後ろから押された感じになってのまれたときは。
何でかわかんないけど特に理由とかじゃなくて伝えなきゃいけないっていうのがあって。
忘れないうちに伝えなきゃみたいな自分が体験したことを言わなきゃと思って言って…。
そのあとですかね何かこういうことが二度とないようにとかそういう理由が出てきたのは。
先に行動に出てしまって後から理由を探してるみたいな感じですね。
(只野)震災前なんか大川小?えぇ〜どこ?みたいな感じの田舎で誰も知らないような学校だったけどやっぱりあっちの都会とは違う昨日行った山とか川とか田んぼとかで遊んだこととか学校であそこの木になった木の実は渋いけどおいしいとか。
いろんな話を…いろんなことして遊んでたとか確かにこの大川地区で遊んでた子供たちとか同級生がいたってことを伝えたいみたいな。
忘れられないようにしてほしいなぁって。
やっぱり忘れないことが一番みたいな。
(櫻井)娘2人とうちの奥さん全部一気に失ったんですけど生きる気力さえももうなくなってしまって。
まあどう自分が生きるべきかとかこのまんま自分1人助かって生きてていいのかとかすごく悩んで…。
それでも今も同じなんですけど。
今も同じでほんとに1人だけ生き残ってしまってほんとに申し訳ないっていうのがすごくあって。
(櫻井)自分が死んだときそのときに家族と会えた。
そのときにやっとこの悲しみとか苦しみとかから解放されるのかなっていうのは思うんですけどね。
それがいつなのかっていう。
長いですよこの人生ってね普通に生きてたら。
(丹野)遺族会を立ち上げたのも慰霊碑を作ったのも語り部って活動してるのも自分が多分生きていく言い訳が欲しかったんですよ。
こういうことをしてるから生きててもいい?って。
今日誰かにお話をしにいくからお母さん今日も生きてるけどごめんねっていうほんとに…自分自身のね多分言い訳。
ほんとに申し訳ないくらい阪神のテレビ見ても中越のテレビ見ててもいろんな災害のテレビを見てても命ってこんなに大事だなって考えたことがねほんとに悲しいくらい…ばかなくらいなかったんですよ。
息子の命がなくなってそれで初めて命ってこんなに大事だなってことが身をしみてわかったので。
僕は何かその経験をねやっぱり自分に何ができるかって考えたときにやっぱりいつからかお母さんと翔人が…弟が見てくれとうと。
自分のことずっと見てくれとうから。
だからお骨もおうちにずっと置いてるんですけどそれは多分お父さんの思いもあって置いてるんですけど。
だから見てくれとうからやっぱり胸を張って見せれるような生き方をせなあかんなっていうのをずっと思ってきて。
一生懸命頑張っとうでって。
これからの子供たちに助け合ったり支え合ったりするために人って生きとんちゃうかとか。
そんなことが伝えていけたら僕が関わった人…子供らが力を合わせて何かほんまにそういう復興だけじゃなくてねひとのためになることをやってくれるんちゃうかなって何か…。
女の人はね勘が鋭い。
(代里子)鋭いねそうやね。
帰るで。
(代里子)ありがとうございました。
すいません。
優しい…。
心優しい。
話したくないときあんねんひとと。
でここで1人でおったらちょこちょこ代里子さんとね。
(代里子)いろいろと…。
いろいろと。
(代里子)いろいろ言うてもらってねお料理のお話とか。
(博也)そう女性の話。
女性の話とか。
はいどうぞ。
歩いて帰ってきた。
競馬は?えっ?競馬や。
競馬?競馬負けたよもちろん。
またか。
あんなん当たるはずがないやん。
何やそれ。
いやいやまあそれはあれなんやけど…。
(博也)おかえり。
はいただいま。
「おばあちゃんの骨をみんなで拾いました。
真っ白い色の骨でした。
地震がなかったらおばあちゃんも死ななかったのに。
とても悲しかったです」。
はい。
じゃあちょっと質問です。
おばあちゃんを亡くしたって知ったときどんな気持ちだったと思いますか?マツバラさん。
とても悲しい気持ち。
とても悲しい。
地震がなかったらおばあちゃんは死ななかったのになっていう。
何でこんなときに地震が来たんやろ?いっぱいねどんな気持ちやったか考えられました。
後もう1つ。
先生も地震で2年生のときでした地震があったときね。
小学校2年生。
この子とさっき同じぐらいや言うたけど同じです年。
先生はある日突然お母さんと翔人を亡くしました。
二度と会えなくなりました。
そのときに初めて気が付きました。
お母さん翔人自分の大切な人がいてくれるっていうことがとっても幸せなことなんやな。
いてくれるだけでそれはもうめっちゃうれしいことなんやな。
逆にいることいてくれることは当たり前じゃないんやな。
そのとき初めて気が付きました。
それと同時に後悔しました。
何でもっとお母さん大事にせんかったんやろ。
何でもっと翔人のことを大切にせぇへんかったんやろ。
もっといっぱいお母さんの笑顔が見られるようにお母さんに優しくしたりお手伝いしたりしたら良かったな。
もっと翔人の笑顔が見られるように翔人が好きなサッカーをしたりとか積み木遊びしたりとか電車ごっこしたりとかもっといっぱいしたったら良かったな。
すごい後悔しました。
だからみんなには先生と同じような後悔してほしくない。
泣かんでええやん。
大丈夫大丈夫。
ううっ。
想像してもうたん?なあ。
想像してもうたん?ううっ…。
無理して書かんでもええで。
無理して書かんでもええ。
お母さんから託された大きな宿題。
それは残された2人を育て上げること。
2人は今それぞれの方法で生きること伝えることの意味を模索しています。
お父さんこれお骨はひっつけたほうがええの?やっぱ。
(博也)それはもう好きなようにしてください。
いやお父さんがひっつけとったからや。
ほなひっつけとこか?何かあれやんな。
前まで離しとったやんな?前までっていうか俺が知っとうとき。
ほんなら…。
そうして。
水の位置を変えていい?じゃあ。
お母さんのお骨のほうに水を僕置きたいねん。
あぁそやな。
お母さんのやつやから。
その器な。
うん。
3人で支え合ってここまでたどりつきました。
多分つらいこともあったと自分でも思うし子供らもつらいことあったと思うけどまあそれよりもやっぱり朝起きて飯食って学校行ってで帰ってきたら誰かおってみたいなね。
ほんで晩飯食ってみたいなそういう普通の生活がちゃんとできたらいいなと思ってたんで。
(博也)子供がまっすぐに生きてるしね嫁さんと子供が亡くなったことは悔やまれるっていうか悔しいことではあるけど。
残念やけど。
まあ僕としてはもうしかたないという言い方したけどまあええかなと。
まあそれなりに今のところは悪い人生ではないやろなぁと。
まあ僕自身もそうですけどね。
書いていくこと。
語っていくこと。
阪神・淡路大震災から20年の時が流れました。
2015/03/09(月) 01:35〜02:30
関西テレビ1
ザ・ドキュメント 想いを伝えて〜阪神淡路大震災・父子が歩んだ20年〜[字]

ある家族の20年から、「生きる」ということ、「伝える」ことの意味に迫る番組です。

詳細情報
番組内容
関西テレビは『想いをたずねて〜6430人 いのちの記録』(2000年1月16日放送)で、伴侶を失った父親が迷いながら中学1年と小学6年の兄弟の子育てに取り組むある家族を中心に取材し、平穏だった日常を地震に奪われた人々に「想い」をたずねるドキュメンタリー番組を放送しました。

阪神・淡路大震災から20年、少年たちが大人になり、心に封印していた想いを語るようになりました。
番組内容2
東日本大震災でも多くの子どもたちが家族を亡くしています。
突然、家族を失った子どもたちは、何を感じながら大きくなるのでしょう。

人は時に、思いもよらない困難に出くわします。
それでも生きていかねばなりません。
20年の月日を歩んできた長谷川家のそれぞれの想いを伝え、「生きる」ということ、「伝える」ということの意味に迫る番組です。
スタッフ
【ディレクター】
迫川緑
ご案内
【番組webサイト】
http://www.ktv.jp/document/

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 自然・動物・環境
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32724(0x7FD4)
TransportStreamID:32724(0x7FD4)
ServiceID:2080(0x0820)
EventID:24255(0x5EBF)

カテゴリー: 未分類 | 投稿日: | 投稿者: