5日曜美術館「狩野永徳 よみがえる実像〜国宝 檜図屏風・平成の大修理〜」 2015.03.08


この日収蔵庫からある国宝が運び出されてきました。
現れたのは400年前に描かれた古い風。
表面にめくれ上がっちゃってる所もあるんですね。
折り曲がっているはずの所が。
これは流れてますけど。
長年の汚れや絵の具の剥落。
満身創痍の状態。
平成24年10月この風の大修理プロジェクトが始まりました。
身をよじるように生える檜の大木。
金ぱくの雲が広がる渓谷でまるで生き物のように枝を伸ばしています。
殴り描きのような力強い筆。
作者は日本美術史上屈指の絵師狩野永徳。
江戸時代の「画人伝」で「五百年来未曾有」とうたわれた天才絵師です。
戦国時代織田信長や豊臣秀吉に重用され安土城をはじめとする建物の装飾を次々と手がけました。
しかしその人物像には謎が多く「檜図」は永徳の作ではないとする説もありました。
それが今回修理の過程で見つかった発見によって真実に近づきました。
見えてきたのは死を目前にした永徳のほとばしる情熱。
汚れが取れてより当初の表現が出てきた。
今の我々が持っていた永徳観の変化。
それも我々自身作り直さなきゃいけないなと。
伝説の絵師狩野永徳。
1年半に及ぶ修理の記録と新たな実像に迫ります。
「日曜美術館」です。
今日は東京国立博物館に来ています。
今安土桃山時代を代表する狩野永徳の国宝「檜図風」が修理後初めてここで公開されているんですね。
永徳といえば日本美術史上誰もが認める絵師でありながら現存する作品が少ないからなかなかその実像はつかめない人でもあるんですよね。
なので今日は「檜図風」から永徳像をしっかりつかんでいきたいなと思ってます。
では早速参りましょうか。
はい。
見えてきました。
特別な部屋に1つだけ…。
わ〜…。
これが生まれ変わった「檜図風」ですね。
いや何か…何でしょうはっきり見えますね。
ですね。
色が鮮やかで。
ぐんとこちらに来るような。
うわうわうわ…。
檜の葉が鮮やか。
新しい。
ほんと立体的に盛り上がってるのまではっきり見えますね。
見えますね。
筆の跡がとてもはっきりと見えるからですかね。
遠くから引いて見た時に何でこんなに生き生きと見えるんだろうこの檜がと思ったんですけどものすごい細かく描いてますよね。
そういった所までも今回の修復でよみがえったんですかね。
修理に先立ち状態の調査が行われました。
表面にめくれ上がっちゃってる所もあるんですね。
折り曲がってるはずの所がグルグルグルとめくれてる。
1分弱めくれ上がってて。
長年の汚れで表面が白く濁りすれた跡も見られます。
絵の具を定着させるにかわの粘着力が落ち剥落も進んでいました。
ところどころに亀裂も。
傷んだ箇所や過去の修理の跡などをチェックして「損傷地図」と呼ぶ記録を作ります。
新しいというかよく見えるやつね。
金泥と金ぱくと…。
あの金ぱくも古そうですね。
解体作業が始まりました。
風をつないでいた紙のちょうつがいを切断します。
このまま上あげて。
木の縁を外します。
工業製品の鉄くぎを使っている事などから明治以降に交換された事が分かりました。
そして慎重を要する作業。
絵が描かれている本紙を下地から切り離していきます。
ここだと深すぎる。
そうですね。
それだけ薄い。
薄いな。
かなり薄い。
めくってみると本紙を補強する裏打ちの紙がついていない所もありとてももろい状態だと分かりました。
引っ張って。
はい。
もうちょっとです。
外れた。
ようやく外れました。
ここから本紙の修理が始まったのです。
「檜図風」の作者狩野永徳は時代の寵児であったにもかかわらず肖像画一枚残されていません。
江戸時代の「画人伝」によれば永徳の大胆な絵は「あたかも鶴が舞い蛇が走り回るかのごとく。
新意にあふれ怪々奇々の趣があり誰も到達しなかった境地に達していた」といいます。
永徳が描いたとされる織田信長の肖像。
豪放磊落な画風で乱世を生き抜く天下人の心をつかみ信長次いで秀吉からも寵愛を受けました。
安土城や大坂城聚楽第。
主要な建物の装飾はことごとく永徳とその一門の狩野派に任されます。
代表作の一つ「唐獅子図風」。
大きな図柄を豪快に描く永徳の画風は「大画様式」と呼ばれこの時代を代表するものとなりました。
京都・聚光院の襖絵。
永徳の真骨頂は室内を飾る障壁画に発揮されました。
しかし戦国時代を生きた絵師の定め。
建物もろともほとんどが失われました。
誰もが真筆と認める現存作品は10点に及びません。
「檜図風」は数少ない永徳の貴重な国宝。
修理にあたり東京国立博物館文化庁修理を行う技術者が集まり方針を検討しました。
一つの汚れや過去の修理で加えられた補修紙一枚取り除くにも何度も議論が重ねられたのです。
修理にあたって文化財としての価値が損なわれない方法で行わなければならないという事が大原則です。
永徳の作品としてのすばらしさを過去の修理で付け加えられたものが損なってしまってる場合があります。
そういったものについては取り除いてあげてオリジナルの作品が持ってる力を回復してあげるとそういう事を目指して修理を行うと。
絵の表面を保護する表打ちの作業です。
絵が描かれた本紙に表打紙を載せていきます。
そこにのりを塗っていきます。
これは海藻を原料とする布海苔。
粘着力が弱く水で落ちる優しい海苔です。
布海苔は自然の洗浄力も持っています。
こうして絵を保護しながら汚れを落とす事ができるのです。
乾燥させる間にも汚れが浮き出てきました。
絵を裏返し補強のために貼られた古い裏打紙を取り除きます。
本紙を傷めないようできるだけ少ない水で湿らせ丁寧に剥がします。
繕いと呼ばれる作業です。
亀裂や紙が欠けた部分に小麦のでんぷんのりを塗りちょうどよい大きさに切った和紙を貼ります。
過去の修理で貼られた補修紙を取り除きます。
本紙を傷めないようゆっくり剥がしていきます。
新しい補修紙には手すきで作ったオリジナルに近い雁皮紙を使います。
水で輪郭を取り手でちぎります。
「くい裂き」と呼ばれる方法で紙の繊維が合わせやすく薄いのりで接着できるため本紙への負担が軽く済みます。
新しい裏打紙。
薄くて丈夫な楮紙を使います。
本紙を裏で支える大切な紙です。
亀裂の部分は更に補強します。
2層目の裏打紙。
炭酸カルシウムが含まれていて本紙を中性に保ち劣化を防ぎます。
色を補う作業です。
使うのは水溶性の絵の具。
亀裂からのぞく補修紙に色をのせていきます。
補修の跡を目立たせないためですがオリジナルの部分と区別がつくようにします。
異物を加えてもいつでも取り除けるようにしておく。
修理の鉄則です。
ここが博物館の地下。
(神庭)そうですね。
こうなってるんですね。
こちらがその東博のバックヤードと言われる所でさまざまな修理室を置いている所ですね。
今通りますここは東洋絵画書籍そういったものを修理する部屋になります。
さまざまあるんですね。
今日はちょっとこちら刀剣修理室ちょっと皆さんのぞいて頂きたいと思いますので。
ちょっとお待ち下さい。
失礼します。
じゃあどうぞ。
失礼します。
こんにちは。
おじゃまします。
(神庭)ここでは刀剣を定期的に点検をして僅かなさびをできるだけ早期に取り除いていくという研ぎ継ぎ技術というのを使って仕事をして頂いてるところです。
今研がれている刀はいつぐらいのものなんでしょう?これは室町時代。
きらっと光りますね。
すごい。
こうした部屋一つ一つが美術品を支えているという事ですね。
じゃあ次は「実験室」と言っている部屋を。
じゃあ入ります。
入ります。
失礼します。
どうぞこちらまで。
今現在ここで大体大きくは3つの作業をしてますけども。
今こちらでは和紙に印刷された書物なんですけれども18世紀のものです。
ご覧頂くと分かるようにたくさん虫食いの穴があいてますでしょ。
この虫食いの穴に新しい和紙を埋めて補強するという事をやってやるんですね。
こうして手でちぎってるのは「檜図風」の時と同じ作業ですね。
(神庭)この処置は今後50年ぐらいはこのままの状態でいてほしいというつもりでやってますね。
そうした長期にわたって作品と同居するというか作品のそばにあるもの接着されるものというのはできるだけ天然素材のものを使うようにしてますね。
皆さんのお仕事を見させて頂いてるとこうある文化財が生き物のように見えてきますよね。
「檜図風」の修理の作業も見てみますとやっぱり相当こちら側の皆さんは極度の緊張をしながら作業をされてるんじゃないかなと察するんですけれども…。
(神庭)もちろん常に緊張というものは必要だとは思いますけども一旦仕事が始まれば冷静沈着で作業を進めなければいけませんね。
基本的には作業に入る前修理に入る前にほとんどの段取りはついてるわけです。
整ってからでないと作業に入れないですし。
ですから作業を開始するという事はもうその準備した事を一つ一つ丁寧に確実に実行に移すとそういう事になるんだろうと思いますね。
今回修理の過程で思わぬ発見がありました。
その一つが絵の裏に墨書きされた「一」から「八」の数字です。
「檜図風」をよく見ると引き手がつけられていた跡があります。
実は「檜図」はもともと4面から成る襖でした。
それが何らかの理由で8面の風に仕立て直されたのです。
襖だった時は真ん中に太い木の縁がありました。
絵を合わせた時に生じるずれがその証しです。
墨書きの数字は風に変えた時の覚書と考えられます。
八と書かれた絵には「山水桧」の文字。
左下は永徳の「永」とも読み取れます。
そして長い間議論されてきたのがいつ誰のために描かれたのかという謎。
確実な事は分かっていませんでしたがそこに近づく重要な発見もありました。
ここにも一つこっちにも一つ桐が見られます。
裏打ちの紙から雲母という白く光る絵の具の跡が見つかりました。
写し取ると何やら文様が。
これが「檜図」の由来につながる鍵となったのです。
京都御所の北にある旧桂宮御殿の跡です。
明治の初めまで「檜図風」はこの宮家の持ち物でした。
宮家に伝わった古い日記です。
そこには「永徳による松と檜の風がある」という記述があります。
永徳は1590年に亡くなっているため接点があるとすると初代の八条宮智仁親王。
秀吉の養子だった人物です。
後に秀吉は智仁親王に御殿を造り永徳一門に障壁画を任せました。
その一つが「檜図」ではないかとされてきましたが確たる証拠はありませんでした。
当時の御殿はなくなってしまいましたが京都に智仁親王が造った別邸桂離宮が残されています。
ここに今回の修理で見つかった発見と「檜図風」の由来をつなぐものがあります。
襖にちりばめられた八条宮家ゆかりの文様。
花の数が五七五である事から「五七桐文」と呼ばれます。
創建当初のものとされる襖の文様に「檜図」から見つかった文様を重ねると形だけでなく散らし方までぴったり一致しました。
「檜図風」が当時八条宮家周辺にあった事を示す重要な証拠です。
「檜図風」の伝来としてですけれども八条宮家から伝わってきたものだというふうに現在美術史の研究者たちは認識しているわけなんですけれども絵画そのものからはそれを示す物質的物的な証拠というのは存在しないわけですね。
今回その修理過程で発見された五七の桐の文様というのはその伝来経緯を裏付ける可能性のある大切な証拠になるんだろうと思います。
五七桐文によって「檜図」の由来に近づいただけではありません。
宮内庁三の丸尚蔵館には「檜図」と同じく智仁親王の御殿から来たと伝わる作品群があります。
数年前これらの作品を修理した際内側から五七桐文が発見されました。
それらは「檜図」のものと一致します。
三の丸尚蔵館のこうした作品は永徳が率いる狩野派一門の絵師たちが手がけたものと考えられています。
孤高の大木のような「檜図風」。
かつては同じ御殿の中でみやびな襖絵と共に飾られていたのでしょうか。
ここであの「檜図風」が生まれ変わった場所なんですね。
まあこんなにたくさんいろいろな資料が修理の過程で出来上がっていきます。
「檜図風」だけでという事ですよね。
そうですね。
例えばこれ私たちが日頃必ず使っているカルテというものです。
病院に行った時とね同じような。
そうですね。
大体これを見ればどういう経過で修理のプロセスを歩んできたかというのが分かるんですね。
これは修理の打ち合わせですね。
それぞれの発言がメモされてますね。
私も現場に入って修理に直接じゃないですけども美術史の実際に扱う方の立場から意見を言わせてもらったり。
今ここに用意いたしました。
これちょっと不思議な画像ですけれども裏から光を透過させて撮った写真なんですね。
随分傷んでますでしょ。
これが全部亀裂です。
しかも亀裂のある部分はやはり何らかの手が重ねられて。
(神庭)たくさんここに裏から補強された跡があります。
重ねて重ねて…って見えますね。
(神庭)更にその補強されたもの自身もこんなふうに傷んでるんですね。
そこさえも亀裂が入っていってるんですか。
痛々しい…。
(神庭)この修理を行う過程でいろいろな事が見つかったその中の一つに五七の桐の文様というのが見つかったんですけれど。
ごくうっすらとでしたけれども。
これですね。
ここに。
見えますか?見えますね。
ここが葉脈の部分ですね。
(神庭)光のあて方によってはこんなふうにね随分きらっと光る。
まさにこの雲母という雲母の絵の具なんですけれどもそれがここに残ってるんです。
これが唐紙です。
かつてこういうものがこういう形で接着されたかあるいはこれがこういう形でくっついたか。
これをめくった時にこの雲母の部分絵の具の部分だけがここに残ったという事になるんです。
こうやって見ると作品の中や裏側という所にとても多くの情報が潜んでいてそれが歴史をひもとく鍵になっているんだというのがとてもよく分かったんですけども。
新しい発見というのがありましたから我々が絵の表では見えないものが見えてくる。
じゃあそれを含めて作品の解釈をどうするかあるいは絵師の息遣いそれをもう一回見直すそういうののいい機会になるんじゃないかなと今回本当にそういう事を思いました。
絵の修理が終わり風に仕立てる作業です。
数種類の和紙を使い分けて何層にも貼り合わせます。
こうする事で温度や湿度の変化によるかたよった収縮を抑え作品を守ります。
風の下地が完成しました。
いよいよ本紙を貼ります。
素手で扱わなければならない最も緊張する作業。
絵の具や紙の状態によってのりの浸透具合が違うため塗る順番もあらかじめ決めておきます。
もうこれ置いときますね。
ぴったり。
折れ曲がり横ちょっと見ていきますね。
風の裏には薄い青の唐紙。
全面に五七桐文を施しました。
今回の発見を機に桂離宮にあった襖の型を借りてすりました。
縁にあてる木は本紙に影響を与えないようくぎなど金具は一切使いません。
8曲だった風は4曲ずつに分けられました。
国宝の形態を変えるのは異例中の異例。
しかし長い議論の末襖だった当初の状態に近づけるため変更を決断しました。
4曲1双。
新たな姿でお目見えした国宝「檜図風」。
表面のくすみが消えみずみずしい生命力を取り戻しました。
今回の修理によって全体が大変色が鮮やかによみがえってきた。
これによって今まで「檜図」を含んだ永徳の作品というのはどうもくすんだ感じの重厚感というふうに我々意識してたんですけれどもそれがもっと華やかで鮮やか。
檜の幹は前はくすんだ茶色だったんですけれども今は赤い色が鮮やかにありこの群青の深い水の色がだいぶ明るい色になってきた。
思った以上に永徳の次の世代の画家たちの作品と近い感覚を持ってる。
永徳のイメージを少し新たにしなければいけなかったんじゃないかという事を感じました。
よみがえった「檜図」は永徳の実像にも光をあてます。
京都御所から程近い所に永徳が生まれ育った狩野家の屋敷がありました。
「檜図」を描いた年永徳は48歳。
100人を超える絵師を率いる棟りょうとして秀吉や御所寺などから請け負う大量の仕事をこなしていました。
ある依頼主に宛てた永徳直筆の手紙が残されています。
「大坂城の山里曲輪の御鷹屋に障壁画を描くよう仰せつかってしまいこれが大急ぎの仕事なので夜も昼もなく描いております」。
仕事に忙殺され納期を遅らせてほしいと懇願する様子が分かります。
大きなものだけでも「檜図」があった八条宮の新御殿御所そして東福寺の天井画。
力尽きたのか永徳はこの年急死します。
そのため永徳は「檜図」の制作を指揮しただけ。
あるいは全く描いていないとする説さえありました。
しかし修理の過程で下描きの線が明らかになり永徳の関わり方が分かってきました。
例えばこの部分。
右の下描きを見ると小さな枝が太い枝の先まで伸びています。
しかし完成作を見ると後でこの枝の先を消した事が分かります。
複雑な枝の絡みをなくす事で太い枝の躍動感が強調されています。
棟りょうの下描きを弟子が直すとは考えにくいため永徳自身が手を下した可能性が高まります。
大量の仕事を掛け持ちしていても最善を追求する。
絵師としての情熱がこの絵に表れているのです。
永徳が関わった事を確信させる最大のポイントは最後に加えられた墨の線です。
修理前と比べると全体にくすみが取れ黒い線が鮮明に浮かび上がってきました。
例えばこういう所のですねすごく乱暴なまでに筆を走らせて描いている。
そしてこれも非現実的とも言えるような大変直線的で線だけが自立して生きてるような力強さを持っている。
むしろ他の画家だったら絵としてのまとまりというような表現に行くんでしょうけどもそれを超えている。
「檜図」は永徳の一番弟子狩野山楽が描いたのではないかという説がありました。
しかし山楽の絵を見ると墨の線は曲線が連なり優雅で自然な印象。
永徳とは大きな違いがあると田沢さんは見ています。
永徳の筆は自由奔放。
スピード感にあふれています。
1年半に及ぶ修理によってよみがえった「檜図風」。
謎多き巨人狩野永徳の新たな実像です。
いや〜…。
改めてまた対面ですね修理の様子を見たあとに。
これは…。
とても鮮やかだほんとに。
今回まさに大修理というか大きく変わったのがその見せ方というか形がまず大きく。
国宝で形が変わるのはほんとにまれだという。
(田沢)元は襖ですから平らだったはずなんです。
折った時の形ではなくて平らにのびたその時どう表現するかというのが永徳の表現だったはずですからその永徳の表したかったものをできるだけ再現できるように。
それによってあの枝がすごく複雑に込み入っていてそれが特徴とされていた。
風で折った時にはすごくそれが強調されてて我々は「ああ永徳の特徴なんだな」と思ってた。
平らにのばしてもやっぱり込み入ってるんですけども大きく枝が伸びていってる勢いというのが平らになった時にますます表れてきて複雑に暴れるように悩むような木の枝からほんとに若いエネルギーがという。
それが絵の中によく再現されてるんだなというのが改めて思いました。
面白いなと思うんですよ。
確かに枝ぶりは曲線なんですけど引いて見るとうねっているじゃないですか。
近くで見ると一本一本が全て直線によってそのうねりを表してるので。
ちょっと離れて見るとますます全体での動きというのが見えると思いますし。
大胆ですけども緻密な計算というかこまやかなところがやっぱり見えてるのが更にこの檜を生き生きとさせている。
初めから荒っぽく引いてるだけではこうはならずに線だけが浮き立つんだと思うんですよね。
ほんとは細かく描きたかったのかもしれない。
ただあまりにも注文が多くそれをこなすためには大きなタイプで描こう。
そして大きなタイプの絵を生かすにはこういうような力強さがいいだろう。
恐らくそれが彼の世界になってそしてその時代の武将たちの好みに合いまさに時代の空気をこの絵がつくっていった。
そういうような気がしますね。
2015/03/08(日) 20:00〜20:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「狩野永徳 よみがえる実像〜国宝 檜図屏風・平成の大修理〜」[字][再]

東京国立博物館が誇る狩野永徳の国宝「檜図屏風」が、一年半に及ぶ修理を終え、よみがえった。鮮明になった色彩、そして、修理の過程での発見から見えてきた永徳の実像とは

詳細情報
番組内容
安土桃山時代、狩野派の頂点に君臨した狩野永徳。最晩年の作とされる「檜図(ひのきず)屏風」は、東京国立博物館が所蔵する国宝の中でも特に人気が高い作品だ。その傑作が、一年半に及ぶ修理によって鮮明な色彩でよみがえった。その裏には、技術者や研究者たちの努力がある。貴重な国宝の修理とはどのように行われるのか、カメラが詳細に記録。そして、修理の過程で出てきた発見から、謎の多い檜図屏風、さらに永徳の実像に迫る。
出演者
【司会】井浦新,伊東敏恵

ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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