NHKスペシャル「それでも村で生きる〜福島 “帰還”した人々の記録〜」 2015.03.07


おはようございます。
福島県双葉郡川内村。
今年の元旦村外れにある高台に住民たちが集まってきました。
あのちょうど今…福島第一原発を見下ろす高台です。
あの原発事故で避難生活を余儀なくされた人々。
去年の秋ようやく村に戻ってきました。
4年ぶりの初日の出です。
それが一番。
東京電力福島第一原子力発電所の事故。
大量の放射性物質が拡散し周辺の町や村では全ての住民が自治体ごと避難を強いられました。
あれから4年。
どの自治体よりも早く住民の帰還を進めてきたのが川内村です。
しかし村に戻った人々は放射能と隣り合わせの生活を余儀なくされています。
除染などで出た廃棄物は村のあちこちに置かれたまま。
運び出すめどが立っていないのです。
白い花が咲き誇っていたそば畑も大量の廃棄物で覆われています。
これ見たら…取れたものは全て口にする前に検査にかける。
それが村での日常になっていました。
そんな中でも人々は暮らしを取り戻そうと懸命に模索しています。
あの事故から4年。
住民がいち早く戻った最前線の村。
そこに生きる人々の記録です。
東京電力福島第一原発から山一つ隔てた福島県川内村。
農業と林業が主な産業のこの村にはおよそ3,000人が暮らしていました。
原発事故で川内村を含む9つの町と村が自治体ごと避難。
しかし川内村の放射線量は周辺自治体に比べて低かったため事故の翌年どこよりも早く帰村を宣言しました。
村では住宅や道路田畑の放射性物質を取り除く除染を行ってきました。
放射線量は今生活圏のほぼ全域で国の除染の目安とされる毎時0.23マイクロシーベルトを下回っています。
去年10月国による強制的な避難指示が解除され住民が帰ってきたばかりの地域があります。
原発から20キロ圏内の毛戸地区です。
事故の前33世帯が暮らしていました。
集落の中で誰よりも早く戻ってきた…「住民が戻らなければ地域が消滅してしまう」。
強い危機感を抱いて帰ってきました。
避難指示の解除から半年帰還したのは33世帯のうち10世帯にとどまっています。
放射能への不安から帰還を断念したという家です。
集落のあちこちに大きなビニール製の袋が置かれていました。
汚染された家屋の解体などで出た廃棄物。
放射線を遮蔽するとされる袋に入れられ留め置かれたままです。
この日まだ帰ってきていないはずの家に人の姿がありました。
おはようございます。
おはようございます。
避難先から家の様子を見に帰ってきた住民でした。
代々農業を営んできたこの男性。
戻って暮らすつもりはないといいます。
その理由は山の汚染です。
国の除染は住宅や田畑が対象で村の9割を占める山林はほぼ手付かずのままなのです。
川内村の住民の帰還は段階的に進められてきました。
原発から30キロ圏内のエリア。
事故の翌年帰還の対象となりました。
そして秋元さんの暮らす原発20キロ圏内のエリアも去年秋一部を残し帰還が可能になったのです。
秋元さんは妻一子さんと2人で暮らしています。
独立した3人の子どもを頼り避難先を転々としてきた2人。
ふるさとで過ごす冬は4年ぶりです。
よしOK!庭の畑は既に除染が終わっています。
2人は自給のための野菜作りを再開していました。
父親の代から兼業農家だった秋元さん。
去年会社を定年退職し今は臨時雇用の仕事をしながら生計を立てています。
秋元さんには定年後かなえたいと思ってきた夢があります。
田舎暮らしが体験できる農家民宿を夫婦で開く事です。
多くの人が集まれるよう事故前にローンを組み自宅を建て替えていました。
しかし状況は一変。
それでも夢を諦めきれず将来的にはお客さんを受け入れたいと思っています。
民宿の大きな売りにしたい。
秋元さんが考えていたものがあります。
自宅の裏に広がる豊かな森です。
(笑い声)おっキジキジ…。
事故前の川内村。
春から秋にかけ山は恵みにあふれ人々はそれを享受しながら暮らしてきました。
たとえ現金収入が少なくても十分に暮らしていける。
そんな豊かな里山でした。
秋元さんは村に戻って以来こまめに裏山を回り放射線量を測ってきました。
この半年で森には放射線量が高い場所がある一方国の基準を下回る場所もある事が分かってきました。
村で生きる事は放射能といやおうなしに向き合いながら暮らす事です。
自宅から50メートルほどの沢辺には野生のわさびが群生しています。
あのすって食べるやつ。
この時期毎年楽しみにしてきたものです。
摘んだわさびは村内5か所に設置された放射能の検査施設に持ち込みます。
こんにちはどうも。
わさび。
お願いします。
わさびのほかにも住民が作った野菜が持ち込まれていました。
食品は細かく刻まれてから容器に詰められ検査機へ。
結果はその日のうちに伝えられます。
1月に測定された検査結果の一覧です。
食べる事が制限される国の基準は1キロ当たり100ベクレル以上。
ほとんどの食品は放射性物質が検出されない事を示す「ND」となっています。
しかし参考のために測ったイノシシの肉で2万ベクレルを超えるなどいまだに高い汚染を示すものもあります。
口にするものは全て検査する。
村で今日常になった光景です。
一子さんが出したわさびの検査結果は51ベクレル。
基準値以下でした。
100以下だとねもう…。
ここで暮らしてる分にはね。
気になりだしたら切りがないし。
3年前から住民の帰村が進められてきた川内村。
原発から30キロ圏内村内で最も早く帰還が始まった地区です。
既に住民の半数以上の1,500人余りが自宅へ帰りました。
はいありがとうございます。
(太鼓の音)原発事故後初めて開かれた新年を祝う祭り。
人々が一堂に顔を合わせる久しぶりの機会です。
せ〜の!
(太鼓の音)やった〜。
(拍手)乾杯。
乾杯。
は〜い。
ハハハハハ…。
しかし村に戻った多くはほとんどが60代から80代の高齢者です。
3年前の帰村宣言を受け真っ先に帰ってきた坪井清明さん。
若い世代が戻ってこない事に不安を抱いています。
まあ見て分かるとおりここにいる人大体もううちらの年代60くらいの人がほとんどですからね。
だから60っていうともう高齢者ですからね。
これから若い人が帰ってきてもらえればありがたいですね。
坪井さんは村で唯一の公共交通機関であるバスの運転手をしています。
運行を取りやめていた路線が再開すると聞きふるさとの復興に役立ちたいと村に帰る事を決意しました。
はいどうぞ。
隣町まで1時間余り。
山道を一日2往復しています。
原発事故の前坪井さんは娘夫婦と孫と暮らしていました。
しかし避難生活が長引く中娘夫婦は岐阜県に移住。
離れ離れになりました。
ペットボトルに入れて。
フフフ…。
坪井さんの心のよりどころはインターネットで孫の声を聞く事です。
「じいちゃん!」。
「じいちゃん!」。
あいよ!ハル元気か〜?元気か?「元気ですよ」。
「はあ?」。
(坪内)雪降ったよ川内。
「ん?」。
(坪内)雪いっぱいある。
「え〜!」。
(娘)「じゃあ行かなきゃだわ」。
「明日行くね」。
(坪内)明日?「明日」。
(娘)「明日は行かんよ」。
「じゃあその次かな」。
「おじいちゃん!」。
来っ時は寒くなくして来いよ。
娘夫婦が帰村しない理由は事故後家族を養っていくだけの仕事が見つからない事。
そして何よりも放射能への不安です。
子育ての事を考えると戻りたくても戻れないといいます。
「じいちゃんバイバ〜イ!」。
(坪内)は〜いバイバ〜イ!ハル君。
目に見えないこの放射能のあれで…そういう状況なのでまあ無理には言えなかったんで娘たちが向こうに行くって言えばやむをえず…。
ねえ向こうに行った…無理に止める事はできなかったですね。
う〜ん…まあねしょうがないでしょうね。
まあお互いに…我慢して一緒に住める日を待つしかないですね。
今のとこは。
集落の奥深く。
山の中腹にある家にも人が戻っていました。
(取材者)おはようございます。
加藤吉英さんとタマエさん夫婦です。
戦前父親が開拓農家としてこの土地にやって来て以来農業を営んできました。
ここにいっぱい出た跡あっぺ。
これクリタケ。
加藤さんが村に帰ったのは大切に耕してきた土地で再び農作業がしたいという強い思いがあったからです。
加藤さんにとって原発事故で失った一番大きなもの。
山を切り開き仲間と育ててきたそば畑です。
ここで育てられたそばは香りがよいと評判で県外からも多くの人がやって来るほどでした。
山奥にある1万5,000坪の荒れ地を村から借りそば作りを始めたのは17年前。
仲間と木を切り石を除き畑を開墾しました。
何年も手をかけるうち荒れ地は豊かな土壌に生まれ変わりました。
そして質の高いそばが収穫できるようになったのです。
しかし事態は一変しました。
除染で出た廃棄物を保管する仮置場として山奥のそば畑が選ばれたのです。
(取材者)またやっぱりそば畑つくりたいですか?つくりたいってみんな。
つくりたいなやっぱりな。
当初村の廃棄物は今年1月から運び出される事になっていました。
年明け加藤さんは仲間と共に畑の様子を見に行きました。
いやいやいやいや…いやいやいやいや…これ見たらがっかりしちゃったね。
がっかりした。
そば畑は緑色のシートに覆われた廃棄物で埋め尽くされていました。
まあ…こんなふうになってると思わなかったです。
全然違うよ。
だって畑だったんだから。
こんなふうになっちゃったんだもの。
いや〜そば畑とは思わねえしここでそば作るあれはないな…ここでは。
原発事故で奪われたかつての暮らし。
住民たちには東京電力からの賠償金が支払われてきました。
去年秋避難指示が解除された20キロ圏内の人たちには今1人当たり月10万円の賠償があります。
一方いち早く帰村が始まった30キロ圏内では3年前賠償は打ち切られています。
除染が進み生活基盤が回復する見通しが立ったと国が判断したからです。
(取材者)こんにちは。
しかし実際は30キロ圏内では生活の再建は思うように進んでいません。
こんな大根撮ったってしょうあんめえ。
保存食だこれは…。
(取材者)いつ埋めたんですか?秋。
12月。
埋めただわい。
八巻力さん79歳です。
農業や林業などをして生計を立ててきました。
この日作っていたのは村に伝わる保存食…ゆでた大根を寒風にさらして1か月乾燥させます。
野菜や米は自給自足。
足りないものは互いにお裾分けし少ない収入でも暮らしは成り立ってきました。
ところが原発事故で光熱費などに充ててきた僅かな現金収入を失いました。
月2万円ほどの売り上げがあった野菜の直売所。
客は途絶え閉鎖せざるをえませんでした。
八巻さんは夫婦2人暮らし。
妻のユキ子さんは去年の暮れ足腰を痛め寝たきりになりました。
もうちょっと飲め。
八巻さんが帰村したのはユキ子さんの「どうしても村に戻りたい」という願いを聞き入れたからでした。
3年前に賠償は打ち切られ今は月8万円の年金だけで暮らしています。
今晩のおかずはこれだけ!あとはない!ハハハ…。
以前住民の多くは買い物や病院通いのため原発近くの隣町に行っていました。
しかしここは今も人が住めません。
そのため往復2時間以上かけて別の町まで行かねばならずガソリン代などの支出も増えました。
生活費は限界まで切り詰めています。
風呂はガスを使わずまきで沸かします。
洗い物などに使うお湯は風呂で温めガス代を節約しています。
村に戻って3年。
年を追うごとに生活が立ち行かなくなる人が出てきています。
今年…村の人々を失望させるニュースが飛び込んできました。
国は除染で出た廃棄物を保管する中間貯蔵施設の計画が遅れている事。
その結果廃棄物は村の仮置場に今後も数年置かれたままになるという見通しを発表しました。
村で農家民宿を始めたいと考えている…複雑な思いでこのニュースを聞いていました。
そばを栽培していた加藤さんのもとにも村から通知が届いていました。
仮置場になっているそば畑からも廃棄物の搬出が遅れるという知らせでした。
(一子)あら〜何だこれ雪降ってきたよ。
ほら〜!また大変な事だ。
村に失望感が広がる中秋元さんは民宿を始めるための準備を黙々と続けていました。
今新たに力を入れている事があります。
事故前地域の人たちと手入れをしてきたわらび園の再生です。
ここは除染を済ませている事も秋元さんを後押ししました。
春わらびが再び豊かに育つよう購入した堆肥。
放射能に汚染されていないものを村の外から買い付けました。
「雪が解けたらわらび園を再生したくさんの人に来てもらおう」。
秋元さんの夢は膨らんでいました。
更にうれしい出来事がありました。
ちょっといいですか?お客さん。
(秋元)おはようございます。
どうも。
秋元さんの親しい隣人が避難先から戻ってきたのです。
山ぶどうの実を漬けた焼酎。
去年村に帰った直後に秋元さんが裏山から摘んできたものです。
と言われると何となく…。
それは今度梅酒をそろそろ…。
よいしょ。
自宅では一子さんが春を迎える支度に取りかかっていました。
こうだっけかな?25年前娘のために買ったひな人形。
今年は孫に見てもらいたいと事故以来初めて飾りつけました。
あっついた。
わ〜点灯!点灯した点灯した。
6歳になる孫は県外に離れて暮らしています。
以前は休みの度に遊びに来ていましたが事故のあとは一度も来ていません。
(シャッター音)「どうだ!」って…。
写真だけでも見てほしいと孫のもとにメールを送りました。
前に進もうとする秋元さんのもとに思いがけない知らせが届きました。
秋元さんが民宿の目玉にと考えていたわらび園の計画に県が自粛を求めてきたのです。
「仮にわらび園で基準を超える放射性物質が検出されたらほかの地域にも影響が出てしまう。
考え直してほしい」というのです。
除染された土地で検査を続けながら少しずつ軌道に乗せていきたい。
そう考えていた秋元さんにとって納得のいかないものでした。
2月の初め。
一子さんのもとに心待ちにしていた孫からの電話がありました。
「ばあばありがとう」ってね。
「ばあばありがとう」って電話来たんだけど「ばあばんち行きたいな」って言うから「おいで」って言ったのよ。
そしたらね「でもね…」って「福島は爆発したから」って「福島は爆発したんでしょ」って。
「だからね女の子は行っちゃいけないんだって」って言われてね…。
何にも言えないよね。
そんなちっちゃい子がさそんな事…言う事自体が切ないじゃん。
まあしかたがない。
6歳になる孫は友達の親が話している事を聞いたのだといいます。
しかたないよね。
だって…誰にぶつけていいか分かんないじゃん。
本当にね…。
「ばあばんち行きたいな〜」なんて言うんだけどねしかたない。
「しかたがないしかたがない」で本当に。
(一子)う〜ん。
避難した自治体の中で最も早く住民の帰還を進めてきた福島県川内村。
「暮らしを取り戻したい」。
人々はかつて誰も経験した事のない再生への模索を続けています。
あっこれこれ。

(一子)よし!2015/03/07(土) 21:00〜21:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「それでも村で生きる〜福島 “帰還”した人々の記録〜」[字]

原発事故で避難を強いられた自治体の中で、いち早く「帰村」を宣言した福島県川内村。事故から4年。「復興のフロントランナー」とされてきた、村の人々のいまを見つめる。

詳細情報
番組内容
原発事故で、9つの町村が自治体ごと避難を強いられた福島県。川内村はこれらの町村の中でいち早く「帰村」を宣言、住民の帰還を目指してきた。しかし、帰村後の再生の道のりは厳しい。中間貯蔵施設の整備が遅れ、除染で出た廃棄物は村内に置かれたまま。そして、放射線への不安などから、若い世代の多くは村に戻って来ない。「復興のフロントランナー」・川内村のいまを見つめ、事故から4年が経つ福島が抱える問題を考える。
出演者
【語り】伊東敏恵

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

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