藤原学思
2015年3月8日01時18分
はじめて担任を受け持った2年2組には、28人の児童がいた。70年間、その誰とも会えていない――。東京大空襲で多くの教え子を失った元教師の女性が8日、東京都内で“最後”の講演に臨む。
1945(昭和20)年3月10日未明。田近治代(はるよ)さん(88)=東京都葛飾区=は両親や弟たちと千葉県市川市の自宅にいた。もんぺ姿で、母と寄り添って寝ていた。「東部軍管区情報」。ラジオから流れる警報。庭の防空壕(ごう)へ入った。西の空が、銀色を帯びた不気味なサーチライトで照らされた。
ござや古布団で穴をふさいだ。ブーッと獣のうなり声のような音が響く。米軍の爆撃機B29による空襲だ。当時18歳。東京都城東区(現・江東区)の第一大島国民学校で働く、駆け出しの教師だった。学校は。子どもたちは。音が静まり、穴から出た。東京の空が赤い。
早朝。電車は動いていない。学校まで直線距離で約10キロの道のりを急いだ。焼け焦げた髪、すすけた顔面。死臭が漂う。何かにつまずいた。丸太だと思ったが、遺体だった。
やっとたどり着いた学校は、土台だけの姿に。焼土で28人を捜した。家の場所すら見当がつかない。生死が判明したのはケイコちゃん一人だけ。「自宅の土蔵で亡くなった」と近所の男性が言った。名簿も焼け、いつしか児童の名前も思い出せなくなっていった。
◇
「軍国少女でした」
田近さんは当時を振り返る。「欲しがりません勝つまでは」「贅沢(ぜいたく)は敵だ」。児童にも、そう教えた。「日本は強い」。勝ちを疑う発想はなかった。
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