少年犯罪と実名報道について思うこと
- By ソウタロウ
- 5 3月, 2015
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川崎の事件について
凄惨な事件であるという報道がされて、一般市民の感情としては厳罰・報復の気持ちを持つだろう。
容疑者が未成年ということも有り、事件の凄惨さとも相まって少年法によって不当に保護されているという話がほうぼうで聞かれている。
いやいや、ちょっとまて
まだ起訴はされていない。
恐らく少年ということで何かしら判決に影響が出ることはあるだろうが、まだ起訴されていない状態で守られていると怒るのはどうかと思う。
実名報道について
僕は実名報道は成人でも起訴前は止めるべきだと思う。起訴後は報道されてもいいと思うが、
起訴前はまだ単なる捜査上の”容疑者”である。
まだ犯行をしたかもどうかもわからないし、本人が自供したとしても推定無罪の原則がある。
裁判で判決がでるまでは無罪であると推定するとする原則である。
実名報道は刑罰ではない。
少年が実名報道されずに守られていて罰が甘くなっていると考えるのは間違いだ。
それは成人であっても同じで、罰は裁判所が決めるものだ。
ネット世論もこの点で一貫性がない。
冤罪が出た時は推定無罪の原則がなっていないとか、代用監獄がどうとか司法や警察を批判するが、
一方こういう少年犯罪が出れば司法に頼らない罰を望む声が大きくなる。
一貫性が無いといってもそれを主張している個人はそれぞれ別の人なんだろうけれども、
同じくらい大きい声で聞こえるので少なくない人数がダブスタ言ってんじゃないかと穿った見方もしてしまう。
まとめると、実名報道は成人や未成年の別無く起訴されたらされていいが、それ以前は控えるべきである。
また起訴されても判決が出るまでは被告の報道視点は公平に推定無罪に則った姿勢であるべきである。
少年犯罪は甘い判決が出るのではないかという不安
実名報道の他に、少年犯罪だから甘い判決がでるのではないかということや、少年院とかそういうところで刑罰をうけなくて済むのではないかという不安も聞かれる。だが、西鉄バスジャック以降は少年でも重大な事件であれば成年と同じ裁判をうけさせることが相当としている。
少年事件の場合は家庭裁判所が扱うことになっているが、故意に死亡させた事件の場合は原則的に逆送、つまり刑事処分相当として検察官に送致することになっている。
また極刑も18歳未満は極刑にはならないが、
18才以上ならば未成年でも判決がでることはある。
たとえば永山則夫事件や光市母子事件の場合だ。
今回は少年が18才以上ということも有りまた凄惨な事件であることから、十中八九刑事処分相当として起訴されるだろう。
少年法が不要とはいっても最近少年法が良い方に機能した事件もあった。
北海道で祖母と母を手に掛けた事件である。
原則として逆送に相当する事件だったが、虐待されていたという環境から家裁送致され医療少年院送致になった。
ネットにはびこる私刑
“警察や司法が裁かないなら僕らが”という気持ちで、ネット上で共感した者達が情報拡散や容疑者宅への嫌がらせなどを実行しているという。個人でも情報発信が容易に成ったネット社会ならではの現象だ。
ただ、これはやってはいけないことである。
“やってはいけないこと”には幾つか種類がある。
- やったほうがいいが、やってはダメという規則になっている。
- やってしまっては道理の上でもだめ
おそらく殆どの人が上の方の認識でやっているのではないか?
法治国家としては私刑は許されない。
力ある者が勝つ社会になるからであり、法による秩序が守られなくなる。
これは規則の上でダメに当たることだろう。
被害者の関係者なら報復という気持ちもわかるが、
第三者が正義感を出して私刑をするということは
誤った正義感で暴走しているだけ。
これが道理の上でもダメに当たること。
なぜダメなのかというと、正義というのは人それぞれある。(それをなるべく公平にさせるために法があるわけだが)
各々の正義感で相手を傷つけるということは、ただの殴りあいと変わりはない。
例えて言うならば、先輩を立てなかった事を理由に河川敷で私刑をするということと変わりは無いわけだ。
本人らは悪を裁いているつもりで居るのかも知れないが、このような暴走した正義感はただ価値観の違う人を貶める強い圧力になるだけだ。
触法しているのだったら更に質が悪い。
正義という裏付けがあれば人は残酷になれるという。
でも、多くの犯罪やイジメは意外とそういう正義感から来るものがおおい。
悪を弾劾することに心血を注いだ人が悪に染まってしまうようなそんな寓話なかったかな?
視野狭窄の誤った正義は傍から見れば同じ穴の狢なのだ。
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