今日、中国戦線で衛生兵であったTさんを取材した。
Tさんは1923(大正12)年生まれ。幼くして父と母を次々に亡くして叔父の家に預けられた。高等小学校を出てすぐに叔父の農業の手伝いをするようになったが、青年学校への通学を義務とされ、そこで軍事教育を受けた。
1943年6月に徴兵検査を受け、半年後には召集されて中国へと渡った。所属は「登11644部隊(本部は南京)」で、蕪湖(ぶこ)で歩兵訓練を受けた後、南京に移って衛生兵としての訓練を受けた。
蕪湖では、訓練のつらさにひとり寝床で涙することもあったが、南京に移ってからは訓練の内容が特殊であったこともあり、そういうことはなかったとのこと。
所属した防疫給水部の役割は「飲料水確保」と「伝染病予防」に大きく分けられるが、Tさんの所属したのはどちらでもなく、「培地」を主にやっていたと言われた。
培地とは、ペスト菌などの細菌を培養して研究に使ったり、「敵方」にばら撒くための細菌を培養すること。「培地とは何ですか」と知らない振りをしてお伺いすると、ポロリと役割を口にしてしまわれた。ただ、自分の役割は違うと念を押されたが、目が泳いでいたように感じた。
ご家族が同席していなければ、告白しやすいように誘い水を向けることも可能だったが、娘さんが「父から戦争の話はきちんと聞いていなかった」と言われていたので、今回は遠慮した。元日本兵の多くは告白できずに心の傷を抱えたまま老後をむかえているだけに(私が危惧している状況ならば)Tさんの「心の澱」は吐き出させてさしあげたかった。
所属する部隊の駐屯地から銃砲弾の音は聞こえたが、実際に戦闘に巻き込まれることは一度もなかったそうだ。
終戦間近になって上海で下士官教育を受けていたが、訓練期間の満了を迎える前に「8月15日」が来た。玉音放送は、その内容をすべて把握したわけではなかったものの敗戦した事実は理解できた。ほっとして、「これで日本に帰れる」と戦友と共に喜びを分かち合った。
武装解除を受けた後は約10ヶ月間、中国側の防疫面の協力をさせられた。そして、1946年6月に船で九州博多に戻った。奇しくも日本を出た時と同じ港だった。
1月26日、千葉県習志野市在住の三代川清さん(91)にお話を伺ってきました。
三代川さんは昭和18年6月、召集されました。当時21歳。鋳造の仕事に4年間従事していた元気な若者でしたが、身体測定で、「体格、力の面で他より劣り、軍人としては使えない」(三代川さん)第三乙種という結果が出ていました。そのため、召集の知らせには驚いたといいます。
入営のため、相模原にあった中野電信隊に向かいました。中野電信隊は、全5中隊、1000人を超える規模で、最初に試験がありました。電線の敷設工事などを行う「有線」と、いわゆる無線の通信を行う「無線」の二種に分かれており、その所属を決めるためです。無線の技術をすでに身につけている人は無線、それ以外の人は有線に落ち着き、三代川さんも有線に配属されました。
3カ月の訓練が終わってもすぐに戦地に赴くことはありませんでしたが、9カ月後の19年3月、いよいよ外地に出発することになりました。行き先は知らされていませんでした。福岡県・門司港を出て、朝鮮半島の釜山を経由し、約1カ月かけて現在の武漢市などがある華中地方に到着しました。日本軍が制圧した地域だったため、身の危険を感じることは特にありませんでした。
配属されたのは、本部から離れた分遣隊。本隊と別の町との間に敷かれた有線の中継地点でした。兵長以下5人ほどの小さな所帯で、"職場"兼生活の場は、中国の民家に間借りした一部屋(6畳ほど)でした。この家には、若夫婦と息子(当時17歳)、おじいさん(同65歳)の4人が暮らしていて、彼らとはたまに一緒に食卓を囲むなど家族的な付き合いをしました。
20年8月、この地で終戦を迎えました。電信隊という性質上、戦況の変化はそれ以前から耳に入っていました。ですから、電話で終戦を知らされた時、「とうとう負けたのか」と落胆することはあっても、驚きはしませんでした。三代川さんがいた場所は、民間人が普通に暮らす地域だったので、食料もあり、大きな混乱はありませんでしたが、それまで和気あいあいと交流していた中国人家族が、「手のひらをかえしたように」(三代川さん)急によそよそしくなったのが印象的だったといいます。
2カ月間、その家で待機した後、本隊に合流。兵舎に寝泊りをしていましたが、中国軍から食料などの便宜をはかってもらうため、部隊は交代で労働にも従事するようになり、三代川さんも危険な荷役作業などをこなしました。ただ、食事がぞうすいだけとなるなど栄養状態の悪化で、病気になる人も続出。腕時計などの私物を街で換金し、そのお金で街の飲食店で食事をするなど、何とか飢えをしのいでいました。
帰国できたのは21年6月。上海から船に乗り、鹿児島港に上陸しました。帰国を実感したのは、翌日に鹿児島の銭湯に体を沈めた時だったそうです。
三代川さんは、「最前線ではなかったから身の危険はなかった。逆に内地の人のほうが大変だったと思う」と戦中の経験を振り返りました。しかし、中国の人たちとの交流が、中国を制圧した日本軍兵士、あるいは負けた日本軍兵士としてだったために、複雑な思いを心に残しているようでした。「中国の人たちに今、伝えたいことは」という質問には明確な答えは得られませんでしたが、「戦争は絶対にやったらいけない」と力強く繰り返す様子が印象に残りました。
モノの本によりますと、とんびゅうの語源は別天地とのこと。確かに、山奥に開ける集落は、湧き水も美味しく、コメどころでもあります。昔の旅人には別天地に思えたのかもしれません。集落全体で31世帯。学齢児童や生徒は皆無で、高齢者が住民の大半です。行政の手を入れなければ、廃村になるのは目に見えている山村です。
そんな村に住むKさんは戦後、隣村から養子に入られました。奥様にも先立たれ、今は長男とのふたり暮らしです。
1919(大正8)年のお生まれで誕生日が私と同じという奇遇。それだけで話が弾みます。
農学校を出られた後、志願をして昭和13年に豊橋に本部があった歩兵第18連帯に入られ
ました。陸軍教導学校に入学し8ヶ月間訓練を受けました。陸軍教導学校は、下士官の養成学校でした。
入隊する日は、村中の人たちが村の神社に集まり、入隊を祝ってくれ、戦時中に上げられるようになった花火こそ上がらなかったものの、村中の人が集まり、万歳バンザイの中を送り出されたそうです。
教導学校の訓練は厳しかったものの、しごきの様な扱いはされなかったとのことで、Kさんは同校を卒業すると、名古屋に本部のある第6連隊に転属、第7中隊に配属されました。
昭和15年、南京に本部があった「支那派遣軍第11軍」に配属となり、野戦18連隊に配属となりました。
Kさんには当時、将来を約束する許婚(いいなずけ)がいました。彼女の兄が他界したことと、Kさんが7人きょうだいの5番目で“穀潰し(ごくつぶしーコメを無駄食いするという意味)”であったことから整えられた縁談でした。戦争が終わるか、一段落したら挙式の予定でした。
会うこともほとんどなく、手紙のやり取りもあまりないまま、中国戦線に向かうことになりました。日本を発つ時は、許婚者が母親とともに連隊にまで会いに来たが、言葉をほとんど交わすことはなかったと言います。
「今の人みたいに、キスしたりとか、そんなことはせなんだ」と具体的に愛情表現を聞いた訳ではありませんが、その時の状況を話してくれました。お気持ちを聞いても淡々としたものでした。当時は恐らく多くの人が同じ様な考え方をしていたのでしょう。
現地に到着するなり、その頃は、国民党軍との間で激しい戦闘が行なわれており、戦闘を
経験することとなりました。
初めて経験する戦闘も戦友や部下の死も、Kさんは心に深く受け止めることなく過ごしてきたようで、「怖いとか、死を意識するとか、そんなことは思わんかった」と、93歳になっても鋭く光る眼を取材するカメラに向けました。
部下や戦友の死についても「戦闘をやりゃあ、兵隊が死ぬのは当たり前。特別な感情が湧くわけではなかった」とあくまでも“将校の顔”を崩しません。
恐らくKさんは筋金入りの兵士だったのでしょう。少佐にまで昇進し、約500人の部下を持つ中隊長にまで出世しました。123人の部下を失ったというから、かなりの激戦を経験されているはずです。
負傷されたようなので、その時の状況を聞きだそうとしましたが、何か心に引っかかるものがあるのか、口にされませんでした。過酷な場面・状況についても多くを語ろうとはしません。
話の流れから捕まえた敵をどうしたかという話になると、Kさんの口調に変化が現れました。「捕虜収容所?そんなもんはありませんでした」と仰るので、捕虜をどうしたのかと聞くと、途端に「捕虜をどうしたかって?そりゃあ……私は知る立場にありませんでした」とうろたえた表情を見せます。
しばらくして気持ちを取り直したKさんは、「確か、教育をして見方にしたと聞いております」と言われましたが、何か言い繕った感は否めません。そして、それを話したときは、私に目を合わせることはありませんでした。
終始、感情を押し殺した話しぶりのKさんでしたが、一度だけ感情が顔に表れた時がありました。南京の手前で敗戦の報を受け、命令で連隊旗を燃やしたことを話された時です。
「悔しくて涙が出ました」とおっしゃられました。その時の虚ろな眼は、印象的でした。
敗戦と同時に連隊本部や司令本部では大量の証拠隠しが行なわれたと聞きます。連隊長であったKさんもそこに関わったかと思い、「連隊旗の他にも極秘文書とかを燃やされたのですか」と聞くと、「それは本部の連中がやったことで自分たちは関わっていません」と言われた。
インタヴューを終えると、政治の話がお好きなようで、来る10月21日の岡崎市長・市議・県議(補選)を選ぶトリプル選挙の見通しや、日中問題のことを私に聞かれました。
家の外に出ると、支持する政党の候補者のポスターがあちこちに張られ、家の前の空地には、ご自分の叙勲を記念したり、「中隊訓」を書いた石碑が幾つも建てられていました。
行きました。私、井上朱実はBFPには設立当初から関わっているのに
取材は初めてでした。フィリピンに駐在していた私には戦争を感じる瞬間は沢山あったのに
なぜか、向き合う事が怖かったのです。
Kさんはまもなく90歳になるというご高齢にもかかわらず、とても鮮明に当時のことを覚えていらして
私たちに3時間もの長い間お話をくださいました。
昭和16年、志願兵として赤坂62部隊として中国・北支に行かれました。軍曹だったそうです。
北支は平和であったと聞いていたのに、実際は違い天と地ほどの差があったそうです。彼の地での
新兵として教育を受けた事、のちはご自分が教育をする立場になったことなどを
よどみなくお話くださいました。討伐には何百回も行かれたそうです。
今まで話した事はありません・・と辛い思い出まで話してくださり、
これが、戦争というものなのだ、と私は胸が張り裂けそうでした。
今でも、よくよく戦友のことは思い出すし、反対に中国には行きたいないとおっしゃっていました。
何のために戦争をしたのだろうか・・・とご自分に言い聞かせるように
つぶやいていたのがとても印象的でした。
Kさん、お話をありがとうございました。
私には、Kさんが闘っていた21歳と同い年の息子がいます。
思いは本当に複雑でした。
いつまでも、お元気でいて欲しい・・・と心から願っています。
井上朱実
今回、お話してくださった方は、中国やフィリピンなどへ出兵経験のある、さいたま市在住のAさんです。95歳で1人暮らしをしているそうでとても元気で明るい方でした。
Aさんのお話を聞いて、終戦までの生活は本当に戦争一色だったことがわかりました。朝から晩まで戦争のことを考えていたそうです。しかし、「今の日本は本当に平和だ」とおっしゃったときの笑顔は印象的で、心からそう思っていることが伝わってきました。
体験者の方のお話を聞いて思うことは、体験者の方の数だけエピソードがあるということです。
これから、できるだけ多くの方のお話を聞き、それを何らかの方法でつたえていけたらいいなと思いました。
●杉浦銀治さんの紹介
大正14年2月25日愛知県で5人兄弟の長男として誕生
昭和19年に19歳で召集される
昭和20年の1月は名古屋で名古屋中部2部隊に所属。その後、釜山、ソウル、北京、南京、安慶と移動。この間わずか2〜3年。
名古屋では軍隊のしきたりなど。
安慶では、ほふく前進、敵が来たらどのように対処するべきかなど。また、刺殺訓練を行った。もたもたしていると殴られた。
●刺殺訓連
杉浦さんは一回、ひとりの中国人捕虜をこの訓練で殺してしまったそうです。 芝生をグサッとシャベルで掘った感じという表現が生々しかったです。しかし、命令だからやるしかなかった。このように、簡単に人を殺せてしまうことが、戦争の恐ろしさだと杉浦さんはおっしゃいました。
●現在行っている活動杉浦さんは現在86歳でいらっしゃいますが、世界中で炭焼や植林に力を注いでおります。なぜ、植林なのかというと、戦争の時、多くの日本兵は現地の住民から食料を略奪した過去があるため、その恩返しの気持ちとしておこなっているそうです(自分は訓練中に終戦を迎えたため、住民の食べ物を略奪していないが、同じ時代を生きた者として)。
●戦後時代にメッセージ
海外に行って、どれだけ日本人が悪いことをしてきたのか、またよいことをしてきたのか知ってほしい。
●初めて日本兵に取材して
杉原さんは、自分は運が良い部隊に配属できて、ある程度人間らしい生活が出来たとおっしゃられていました。しかし、自分を戦争の時代を生きた一員として考え、植林活動や炭焼活動をとうしてインドネシアやモンゴルなどに恩返しをしているということに感銘を受けました。
また、杉原さんは、家族には今日のように戦争体験を語ったことはないとおっしゃっていていました。BFPの活動の重要性を感じました。
松村由樹
(※「●戦後一番よく思い出すこと」のなかで、内容に2点ほど誤りがありましたので、誤字と共に訂正させていただきました。失礼致しました。(8月15日))
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坂倉清さん
1920年 千葉県生まれ
農家の長男として誕生
●刺突訓練
入隊直後、度胸試しのために刺突訓練をやらされた。一回もやっていないが、見る側にいた。30分間の訓練で、20人くらいで1人の中国人を突いた。「(銃剣で)突いたらすぐねじって抜け」などと教えられた。人間の形に見えなくなるほどまでやった。
●中国へ
五ヶ月の訓練を経て、中国山東省泰案に渡った。歩兵砲教育隊に編入された。それから5年間中国にいた。
・初めて人を打ったとき、敵だと思って打ったその相手は農民の主婦で、「戦果にならない」と思った。するとその女の赤ん坊らしき子がはって出てきてこちらをみてにこっと笑った。不気味だった。その赤ん坊の笑った顔が今も目に浮かぶ。
・小銃など隠していないか、農民に水責め拷問をした。農民を寝かせてロープでしばり、水を飲ませながら銃のありかを教えるよう迫った。しだいに農民の腹が飲ませた水で膨らんでいったので、足で踏んではかせて、また飲ませる・・・ということを繰り返した。そのうち吐く水に血が混じり始めた。30分くらい続けた後、水をやめて焼酎を飲ませた。また30分くらい同じことをした。すると「ある」といい始めたのでふらふらになった農民をかかえて歩いていくと、その農民は倒れて、そのまま動かなくなってしまった。たぶん死んでしまったのだろう。そのまま引き返した。
今度は村長を木につるして拷問した。「言わなきゃこの村長の首を切る」といって農民を脅した。でも、農民たちは「ない」といい続けたので、村長の首を切った。ものすごい量の血が首からふきだした。
●集団拷問について
集団拷問は、一番の罪だと思っている。しかし、やっている時は「早く言ってくれ」という気持ち。情報が入れば功績になって出世できるからだ。「かわいそう」とか、人間的な気持ちは全然ない。
●戦後一番思い出すこと
拷問したこと。見る側であったことが非常に多かったが・・・
先輩が目の前で、農民の頭を桑で殴って殺してしまった。自分も何かしなくては、と思い、その死体を彫った穴の中に蹴落として、知らぬ顔して帰った。ろうそくで背や足に火をつけるような拷問も見た。
●中国の人に伝えたいこと
拷問したところに行って、謝りたい。やってしまったことを全部告白して、謝りたい。
●戦後世代に伝えたいこと
戦争はいいことがない。兵隊だって死ぬ。やられるし、かつ殺さなくてはいけない。
強盗や拷問はみじめなものだ。「正義の戦争」「不正義の戦争」・・そんなものはない。戦争をやって良いことは何もない。
●「(体験を)話す」ということについて
つぐないの気持ち。人の命を奪ったのだから、命を懸けて守らなきゃいけない。話すことで、平和になれば良いと思う。
でも、話して楽になりきる、ということはない。
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とても貴重なお話をしていただけたことに心底ありがたいと思うと同時に、坂倉さんはじめ多くの元日本兵の方たちの共通の思いであろう「償いの気持ち」「戦争はダメだ」という気持ちを、聞いた私は責任を持って周囲の人や後の世代の子どもたちに伝えていかなくてはならない、と改めて思いました。
しかし正直なことを言ってしまうと、お話を聞いている最中はそのような思いはなく、なんと言うか、ただただ無念さ、悲しみ、憤り、・・・気持ちが真っ暗になってしまって、ずしんと重いものが心に乗っているような、そんな心境でした。坂倉さんの当時を一生懸命想像する自分と、その想像した映像をかき消したい自分が混在していて、私の脳内では葛藤がおきていました。
坂倉さんの「話して楽になりきるということはない」という言葉にとても心が痛みました。お話の中に出てきた中国の農村の人たちも、目の前にいらっしゃる坂倉さんも、同じ「戦争の犠牲者」なのだと。そしてその傷を坂倉さんはこの先も一生背負っていくのだと、そう思うと、戦争というものは終わらないものなのかもしれない、とも思いました。でも、敵対感情は終わらせなくてはならないし、ましてまた新たに始めることなどがあってはいけない。だからこそ、私たち若い世代が証言をもとに事実をつたえ、共有していかなくてはならないのだと思います。
思うことはたくさんありますが、とても長くなってしまったので、これで報告を終わります。
以上です。
畑江奈つ希
*取材チームの斉藤由美子による報告です。
大津さんに赤紙(召集令状)がきたのは、あと半年ほどで戦争も終わろうとしていた1945年3月末、20歳になったばかりの時でした。大津さんは徴用令によって17歳頃から、日本光学の横浜工場で高射砲算定具を組み立てる作業をしていました。昼夜勤交替で一日14時間というきつい労働でした。 3月9日夜から10日未明にかけての東京大空襲は、当時住んでいた五反田から目撃し、日本は危ないという気もしたけれど、心のどこかで「神風が吹く」と信じていたと話します。 この頃は徴兵検査も19歳で行われるようになっていて、大津さんも1944年に合格していました。仙台から朝鮮経由で中国・山西省に送られ、北支派遣軍第一軍、独立混成第三旅団歩兵砲中隊に配属されました。初年兵の大津さんにとって、軍隊はとにかくめちゃくちゃないじめ(私的制裁)が横行しているところでした。様々な理由をつけて、来る日も来る日も殴られることばかり。大きな金属のバックルが付いた皮のベルトで殴る、鋲をうったスリッパで往復ビンタなどは日常茶飯事、古い兵隊の陰湿ないじめにオチオチ眠ることもできませんでした。3カ月の初年兵訓練が終わると、初年兵全員に「突撃一番」というコンドームが配られました。しかし当時は「慰安所」行きを考える心理的余裕は全くなかったと言います。その後、源平鎮の病院で衛生兵の教育を受ける中で、八路軍兵士の捕虜2人の「人体解剖」にも参加させられて、モルヒネを注射したことが今でも忘れることができません、自分は「加害者」ですと語ります。
国民党軍(閻錫山の部隊)に編入(1945年8月15日〜1949年4月)
8月 15日後、中国の名前をつけられ、日本の敗戦も知らされなかった。
1949年4月に山西省の省都太原が八路軍(中国共産党軍)に包囲され、激しい総攻撃で、陥落。
残留した2600人中、約550人が戦死
中国人民解放軍の捕虜(1949年4月〜1954年)
鉄道病院や臨分の病院などで働きました。元衛生兵の技術を買われたためです。全く中国語が話せなかったのに、たった一人で中国人ばかりの病院の五官科(目、耳、鼻、舌、皮膚)に配属され、仕事しなければならず、四苦八苦しました。1950年に朝鮮動乱が勃発すると病院中の人たちが、「朝鮮戦争反対!」と言ってデモに繰り出したので、自分も参加したけれど、今では考えられないと笑います。
1951年からは、河北省永年の捕虜収容所や西陵の農場で綿摘みや麻の刈入れ作業などをしながら、思想学習をさせられました。
1954年(昭和29年)9月30日、長い抑留生活を終えて第8次興安丸で、日本の舞鶴に帰国。姉と伯父が迎えに来てくれて、いわきに戻った。中国帰りということで、警官が1週間位の間、隣の家まで来ていた。大津さんたちは、軍の命令で中国に残留させられたのに、「現地除隊」扱いになっていて、「逃亡兵」として、軍籍を抹消されていたことを後から知った。
2001年に、奥村和一さん(映画「蟻の兵隊」のモデル)と大津さんを含む12人の元兵士とひとりの遺族が、国を提訴、軍人恩給の支給を求めたが、全面敗訴。 その後上告。
2005年9月に最高裁で上告棄却(最高裁は一度も審理を開かなかった)
(1954年に山西省残留問題が国会で追及された時に、当時のi澄田司令官と山岡参謀長が「兵士たちは志願して勝手に残った」と嘘の答弁をし、問題は決着済みとされたていたため)
手先の器用な大津さんは、戦後、歯科技工士の国家資格をとって働きながら、日中友好と平和のために地道に活動してきました。いつもやさしく穏やかな風貌の大津さんですが、「山西省」と聞くと今でもいたたまれない気持ちになるようです。