題字 第1 源流 



 選挙用?苦労人を演出

 涙浮かべ語った「馬一頭」の逸話


 1960年代前半、十勝管内足寄町大誉地(およち)。中学生の鈴木宗男がそこにいた。砂利道で自転車を押しながら、近所の顔なじみに得意げな笑顔を向けた。「中学で1番、貯金がたまったんだ」。開拓農家の自宅で搾った牛乳を、近所に配って回るのが通学前の日課だった。親からもらった、その駄賃をためた貯金額が1番になったと、無邪気に自慢してみせたのだった。

 当時、自転車を持っているのは比較的、余裕のある家だった。古くからの住民の1人は「むっちゃん(鈴木のこと)の家では住み込みの奉公人を2、3人使っていたし、小作人もいた。雑穀を入れておく蔵もあった。それほど貧しくはなかった」と語った。

 議員バッジを着けた鈴木が好んで語ったのが「馬一頭」の逸話だ。大学進学を希望した自分のために父が馬を売って、25万円を工面してくれた。そのおかげで、一度は閉ざされた大学への道が開けたという内容。後援会の会合などで、この当時の話を語り始めると、鈴木は感極まって目を真っ赤にすることも少なくなかった。

 足寄は1962年と1964年、続けざまに冷害に見舞われた。これで進学をあきらめた農家の子弟も少なくない。鈴木が足寄高を卒業した1966年、同じ学級の45人中、大学へ進んだのは鈴木を含めて10人前後だった。

 奇妙なことに、学生時代、そして秘書時代の鈴木と交流のあった人びとは「馬一頭の秘話」について「当時、聞いたことはない。選挙用の話じゃないか」と口をそろえる。

 拓殖大在学中の鈴木はワイシャツにセーターかカーディガンをまとい通学した。住まいは質素な四畳半だったが、アルバイトに精を出し、東南アジアへの研修旅行にも参加した。学生時代の下宿には秘書になってからも住み続け、25歳まで7年間暮らした。秘書になると、盆暮れに付け届けの包みが届くようになった。

 拓大で都会育ちの学友に「故郷はイモがおいしくて、きれいなところなんだろ」と問われ、「住んでみて初めて厳しさが分かる。本州の2倍も3倍も頑張らなくては生きていけないんだ」と真顔で語ったことがある。都会育ちに比べれば、厳しい少年時代を送ったのは間違いない。

 ただ、鈴木が「貧しかったころ」や「汗を流して働く美徳」を過剰なまでに語り始めるのは、衆院選に打って出てからのことだ。

 初出馬の1983年、道内では鈴木の師の元農水相、故中川一郎の長男昭一や元道知事、故町村金五の二男信孝も出馬した。2人とも東京育ちの東大卒。民主党代表の鳩山由紀夫も同様だ。

 エリート2世議員とは違う「貧農の出」「苦労人」。たたき上げ政治家のイメージに自らの存在意義を見いだしていく。

(敬称略)


3 陳情者魅了した記憶力

北海道新聞
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