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ある学習塾で、中高生の英語を教えていたことがあります。今回は、その塾での経験も交えつつ、「英語ができない子」はどの程度いるのか、そして、その「英語ができない」レベルが、この記事を読まれるであろう方々の想像を、はるかに超えているということを書きたいと思います。
アルファベットが書けない中学3年生
ネットではよく、学力が極端に低い層を“底辺”と表現するのを見かけます。あまり使いたくない言葉ですが、塾の夏期講習で、中3の「学力がいちばん下」のクラスを受け持ったときは衝撃を受けました。T君という子がいたのですが、彼は英語のテストで、100点満点のうち「20点」取れれば良い方。最低は「7点」でした。
まず、アルファベットが上手く書けません。ごく一般的な大学を卒業した人であれば、「中3にもなって、ABCが書けない子供なんているのか?」と思われるかもしれませんが、いるのです。彼は小文字の“p”と“q”、”b”と“dを、よく混同します。T君のような子は特別ではなく、中3になってもアルファベットが上手く書けない、読めない生徒は沢山いました。考えてみれば、初めて接する外国語で、大文字と小文字をすべて覚えるのは結構大変です。
学力(と学習意欲)が低い子たちにとって、“U”と“u”、“K”と“k”は同じようなシルエットなのに、“A”と“a”、“Q”と“q”など、全く違う形になる文字は「意味が分からない」し、覚えられないのです。
最初でつまずくと、その後もずっと英語ができないままになる
英語が10点や20点の子は、中1の最初に習う「be動詞」と「一般動詞」の違いから頭がこんがらがってしまうようです。彼らは、be動詞だけを使う文、“I am Emily.”(私はエミリーです)とか、“You are tall.”(あなたは背が高い)なら、ちゃんと理解できます。be動詞の変化形、“is, am, are”も使い分けられるので、教える側は「けっこう覚えが早いなぁ」と感心するのですが、一般動詞が出てくると、途端に「分からない」と言い始めます。
彼らはその時点で、少し前に習ったはずの「be動詞の使い方」を忘れてしまうからです。というわけで、「問題:私はサッカーが好きです。=“I ( ) soccer.”」に対し、「“I ( am like ) socer.”」などと答えてしまい、しかも、それがなぜ間違っているのか、本質的には理解できないのです。ここでつまずくと、否定文や疑問文でもbe動詞と一般動詞を混同し、“Ken is not play tennis.”とか、“Are you like music? ”といったミスをし、それが「なぜ間違っているのか」分からず、イライラしてしまう子も少なくないのです。
学習科目の中でも、英語は数学などと同様に「積み重ね」が重要な科目です。ある単元だけ丸暗記すればいいというのではなく、中1で習う基本事項(アルファベットやbe動詞、一般動詞、疑問文、否定文の作り方など)が分からないと、その後に出てくる全ての単元(命令文や代名詞、不定詞など全部)が、「理解不能」になってしまうのです。こうした子たちは、だいたい学年の3割くらいいると、個人的には思います。
塾で教えていた時は、こうした子たちにも出来るだけ楽しく英語を教えようとしたのですが、実力不足から、上手くいきませんでした。中3にもなると、「英語は無理」という諦めと苛立ちから、授業中に立ち歩く、自分よりできない子をからかう、キレるなどの行動に出る子もいます。
『ドラゴン桜』で描かれた「底辺高校」の実態は嘘??
少し前、「ドラゴン桜」が書かない本当の日本の底辺と題した、小山晃弘氏のブログが話題になりました。大ヒットした『ドラゴン桜』(三田紀房、2003年~2007年、講談社)は、“落ちこぼれ”の高校に通う生徒2名が、個性あふれる教師たちのもと、東大を目指すというストーリーです。
ところが、塾講師や家庭教師をしている小山氏によれば、主人公の2人は決して「底辺高校の生徒などではない」というのですね。たとえば彼らは、英語の学習を始めて1日目に、下図のような英作文を書くことができているからです。
「『ドラゴン桜』が書かない本当の日本の底辺」より転載
確かに図を見る限り、冒頭で述べたT君のようなアルファベットの間違いはありませんし、それなりに長い英作文も書けているようです。この水準のアウトプットができる『ドラゴン桜』の主人公は、小山氏の経験からすれば、明らかに「底辺」なんかではないといいます。私も、『ドラゴン桜』批判をしたいわけではないのですが、本当の「落ちこぼれ」というのであれば、アルファベットが書けなかったり、一般動詞とbe動詞の使い分けができなかったりする子たちを対象にすべきかと思います。
そういう子たちは、高校進学すらしないこともありますし、進学したとしても、英語はずっと「捨てた」まま、社会に出ていく。彼らが仕事で英語を使うことは、おそらくないでしょう。
本当に英語ができない子たちにとって、理想の教育とは何か
塾で教えていた時、「このままでは、どの高校にも行けない」と心配した親御さんに連れられて夏期講習に来た男の子は、「早く働いてお金が欲しい」と言っていました。そもそも学力向上へのモチベーションが、全くない子も沢山いました。そこにメリットを感じないからです。アルファベットも満足に書けず、英語がハナからできないと決めつけて苛立つ生徒を前にして、「英語って楽しいよ!」なんて、簡単には言えませんでした。
英語を「楽しい」と感じるためには、「理解できた!」という成功体験が必要ですが、それには地道に「英語の成り立ちが日本語とは違うこと」から教え、階段のように積み上げて、英語の構造を理解してもらう必要があります。夏休みの短い期間では、あまりに難しく、悔しさが残りました。が、休み時間や授業中の雑談で見せる彼らの笑顔や、教室を走り回る元気な姿は、やっぱり可愛いですし、彼らを“底辺”とは言いたくありません。
英語なんてできなくても、楽しく生きていける世の中が理想だとも思います。が、英語が分かる喜びも実感して欲しい。そんなジレンマを感じました。「英語の楽しさを云々」とか「点数アップの喜びを」というのは、教える側の、ある種の“傲慢”なのでしょうか。
北条 かや1986年、石川県金沢市生まれ。「BLOGOS」はじめ複数のメディアに、社会系・経済系の記事を寄稿する。同志社大学社会学部、京都大学大学院文学研究科修士課程修了。民間企業に勤務後、14年2月、星海社新書より『キャバ嬢の社会学』を刊行。Twitter: @kaya8823
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