ナゾ解きガラシャ・明智光秀 どの歴史番組よりもわかりやすい本能寺の変 2015.02.28


(喜多)
1人の武将の命運が今尽きようとしていました
もはやこれまでか…
彼の名は明智光秀
京都・本能寺で主君・織田信長を討ち取ってから10日あまりで羽柴秀吉に敗れたのでした
父上さま…おっ玉子なんでこんな所に?どうしてもお会いしたかったのですわしも案じておったぞかわいそうな父上さまでも一体なぜ信長さまを討とうと思いになったのです?そ…そ…それはそれは…なんとでも言わば言え!わしはどう思われてもかまわんからないやいや…あかんあかん!そんな態度やからあかんねん!そんなふうにして黙ってあっさりと討ち死にしはったからあとあと大変な議論になってるんやで!もうなみんなな言いたい放題信長さまにいじめられたとか秀吉や朝廷が黒幕やったとかあと色んなうわさが飛び交ってるんやで!なんで信長さまを討とうと思ったのかこの際はっきりしてください!教えんそれだけはいくら玉子にでも教えん!真相はわしの胸の中や墓の中まで持ってくあぁ〜ケチ!教えてよ!光秀…じゃない秘密で!光秀秘密で!あぁ〜ケチ!光秀秘密で!あぁ〜ケチ!
(上田)
戦国時代最大の事件・本能寺の変
その真相は今もさまざまな議論を呼んでいます
その謎に迫るのは雑学王として活躍する漫画家・やくみつると京都生まれの知性派女優・村井美樹
そして本能寺の変研究の第一人者・三重大学の藤田達生教授
光秀ゆかりの地で
繰り返し町を襲う自然災害から「明智藪」というように呼ばれているそうですねこれもやっぱり水害を防ぐために植えられたということなんですか
明智家の文献に残されていた信長への忠誠を誓う言葉
1年で一体何があったのか…ということになるんですかね
中国地方から猛スピードで京都に戻って光秀を討った秀吉
それを支えた情報戦略とは?
父の汚名を着せられつつも誇り高く生きた娘・細川ガラシャの生涯
知られざる歴史の扉を今あけちゃいましょう!
はいというわけで今回は日本史最大のミステリーに迫って参ろうかと明智光秀はなぜ主君・織田信長を討ったのかもう歴史ファンの間でも長らく議論の的になってますよね諸説入り乱れておりますよね今日は三重大学の藤田教授に教えて頂こうと思います先生よろしくお願いしますよろしくお願いします今お2人に明智光秀とガラシャを演じて頂いたんですが…船岡山公園でしたっけ?実はちょっとその演技とは合わない場所なんですねえっそうなんですか?…とおっしゃいますと?ここはですね実は
(村井)えっ!?
(やくみつる)あっそんなとこに私がいるという大丈夫なんですかね?
京都市北区の船岡山公園
この山の中腹には建勲またの名を建勲神社という信長を祀る神社があるんです
信長公こんな格好でお騒がせしております
(柏手)
いざ光秀の手がかりを探しに本能寺へ
現場検証は捜査の基本です!
京都の町の中へとやって参りましたがなんてことはない町並みって感じですねこちら見てください
(村井)あっ石碑ありますね
(やくみつる)「本能寺跡」なんか全然関係ない立派な建物建ってますけど
(藤田)実はですね
(2人)老人ホーム?はいそうですねそうなんですね
信長の時代ここに本能寺がありました
過去の調査では焼け焦げた土や瓦などが大量に見つかっています
お城のように堀や土塁を巡らせた特殊な構造のお寺だったことも分かりました
跡地の一角には信長をテーマにした飲食店も…
発掘で出てきた焼けた土を眺めながら飲める地下のバーで青い炎が妖しいオリジナルカクテル「本能寺の変」なんていかがですか?
ちなみに今の本能寺は秀吉によって事件の9年後に移転したものなんです
先生これ聞いてしまうとですねもう番組が終わっちゃうかもしれないんですがそもそも光秀はどうして信長を討ったんでありましょうか?これはもう江戸時代以来ですねさまざまな説が出てます
言葉だけの説明では何ですので大きなパネルをご用意しました
「不満・怨恨説」めくってみますか?よいしょいかにもっぽいですねうんいかにもありそうな…後の忠臣蔵の講談みたいなう〜ん…江戸時代なんかはこんな感じですねだから信長っていうのはですね主君としてはちょっとどうなんだろうと…気も短そうですしね
(藤田)あんまり評判よくなかったんですでは次「黒幕説」あぁこういうのも好きそうですね秀吉説って確かに何か聞いたことがある…早く戻ってきすぎなんじゃないかとかね
(藤田)そうですね
ほかにも「戦国武将ならば誰もが天下統一を志すもの」…という野望説やあまりの無謀ぶりに心を病んでいたのではという説
そして政策をめぐる深刻な対立が原因だとする説などなど…
これでもほんの一例なんです
積年の恨みがありつつこの政策で対立してそれがきっかけでっていうこともありそうですよねそうですねもともと野望があって対立したからっていうことも考えられますしね小・中学校で教えられたイメージだとやはりこの謎を解く前にですね明智光秀という人物像に迫る必要があると思うんですね
光秀の足跡をたどってその人となりを探る旅
本能寺の跡がある京都市から京都縦貫自動車道で北へおよそ50分
京都府亀岡市は四方を山に囲まれ昔ながらの町並みが残っています
丹波の国ですか?ご覧のとおりですね山がちの国なんですねですので武将たちはですねゲリラ戦が大得意もう出たり入ったり出たり入ったり光秀もですね平定にものすごく苦労したと信長もですね大変だっていうことをよく知ってたのでよく頑張ったということで激賞しています
3人が訪れたのは谷性寺
京都・山崎合戦で討ち死にした光秀の首を家臣がここまで運んできて弔ったと伝えられています
夏には明智家の家紋でもあるききょうの花がおよそ5万株も
観光スポットにもなっているんです
さぁここで明智光秀のプロフィールを詳しくチェック
信長に仕えるまでは…そうなんですね
明智光秀の出身地だといわれているのが現在の岐阜県恵那市明智町
駅も明智なら川も明智
もちろん明知城の跡もあり光秀が産湯をつかったという井戸も残っています
いやいや同じ岐阜県の可児市だという説もありますよ
こちらにも明智駅があって明智城の跡だって
生まれからすでに議論の的とはほんとにお騒がせな人物です
やがて有力な武将や時の将軍・足利義昭に仕え歴史の表舞台に現れるのは三十代
かなり遅咲きだったといわれています
年上だったんですねなんかこの肖像画のイメージが強くてちょっと若々しい感じじゃないですか
(藤田)そうですね
(村井)なんか意外な感じがしたんですけど年長だったっていうのもいろいろ考えるうえでこう材料の1つにはなりますよねあとでねあとあと…続きましてどんな人物だったのかということですが
(藤田)やはりですねやはり朝廷との関係を円満円滑に回していかなければ国が安定しないと…そういう中でですね光秀は織田家にとっては非常にかけがえのない存在になっていくんだと思いますそうですねぇ手堅い形のほうですね「しかし!」何でしょうか?
1571年の比叡山焼き打ち
信長の命令は寺の建物をすべて焼き払い女・子どもまで皆殺しにせよという容赦ないもの
この陣頭指揮を執ったのが光秀でした
ちょっと残酷なこともかなりここではしたということですねただやらなければ自分の首が飛んでしまうからやらざるをえなかったっていう…そうですね
主君の命令に光秀がしぶしぶ従っていた様子が周りへのアフターケアからうかがえます
滋賀県大津市にある西教寺は比叡山焼き討ちの際にすっかり焼けてしまいますがその後光秀が復興に力を入れました
そんなわけでお寺は現在でも明智家を手厚く弔っています
その西教寺に残る供養米の記録
亡くなった家来たち1人1人身分にかかわらず同じ量の米を供えています
まるで平社員やバイトも分け隔てしない優しい中間管理職です
その後治めた丹波の国でも家来や領民から「いいね!」と慕われていました
それを示すものが今も残っているそうですよ
立派なお宅ですねそうですね旧家ですね
3人が訪ねたのは亀岡市内のとてもとても立派なおうち
うわ〜これは…長槍が…
槍や弓がこんなに…
ご先祖はきっとお侍に違いありません
光秀公のゆかりのものがあるとお聞きしたんですがこちらですこちらの…
(やくみつる)お城の中みたいだ
(村井)あっかっちゅうがありますね
ききょうの家紋を描いた胴に古めかしいかぶと
後の時代に修復した跡は見られるものの明智家とのつながりがありありと感じられます
このかっちゅうはどうされたんですか?そうですね
(村井)光秀の家臣だった方が着てたかもしれないということなんですよねこれだけ大きくドーンと入れるというのは相当やっぱり忠誠心があったということなんでしょうか?
光秀に親しみを抱いているのはこのお宅だけではありません
毎年5月に行なわれる亀岡光秀まつりでは時代行列が城下町を練り歩き街中が光秀一色に沸き返ります
僕らにしてみたら
治めた街に今なお残る名君の面影
さらに主君・信長へ忠誠を示す史料も…
なのになぜ!?
1年で一体何があったのか…ということになるんですかね
亀岡に次いで明智光秀が取り組んだのは京都北部最大の街・福知山の整備
彼がいなければ今の福知山はなかったといってもいいぐらいです
ここが福知山城ですかそうですね
(村井)立派なお城ですね
(藤田)そうですね
(藤田)はい特に加工せず積み上げていくっていうのはなかなか難しいんですが
転用石とはもともとお墓や五輪塔などほかの用途で使われていたもの
国を平定した際に敵方のお寺や神社を取り壊して運んできたといわれています
敵地を攻め滅ぼしたというようなことの象徴的意味もありますしまぁできるだけ早い短い時間で立派なお城を造らなければいけない
(やくみつる)使える石は使ってしまえと
(藤田)そうです合理精神ですね・「ドッコイセドッコイセ」・「チョイチョイノチョイノチョイノチョイ」
「ドッコイセ」と歌う福知山音頭はこの石を運ぶかけ声から生まれたんだとか
・「…光秀丹波をひろめ…」
この城に登ると光秀が行った大事業の名残を見ることができます
(藤田)そうですねちょっとこちらを見てください川が流れてますね由良川という川です去年も水害があったんですが
福知山市の中心を流れる由良川は光秀の頃からたびたび氾濫を繰り返していました
街を発展させるために光秀は治水工事に乗り出します
弓型の大きなカーブをまっすぐに付け替えて利用できる土地を生み出し城下町を造りました
その時に築いたのが明智藪
木や竹を植えて流れに耐えるようにした堤防は今なお現役です
じゃあもうやっぱり領民にとってはそうですねそうですね私もなんだかよく分からなくなってきましたすごくいい人な感じがしますけどね
知れば知るほど主君を討った逆臣とは思えない明智光秀という人物
ここ福知山に残る彼の文章からもきちょうめんで謙虚な姿が浮かんできます
先生これは一体何なんですか?
(村井)家中軍法?はい
(藤田)軍隊に対する内部統制規制ですよね規律をきちっとしてですね新しい軍隊を作ろうと最後なんですが少し書き方が変わりまして自分はもともと石ころのような分際であったとそれをですね主君の信長によって取り立てて頂いたんだとありがたい存在であるということを書いている
(やくみつる)この「天正九年」?
(藤田)そうなんですね「天正九年六月二日」です6月2日っていうのはまさに本能寺の変の日付ですよね1年前ということ?そうなんです
この文章を素直に読むと本能寺の変の一年前光秀には信長を討つつもりなど全くなかったということになりますよね
1年で一体何があったのか…ということになるんですかね
それを解く鍵は信長が進めていた政治改革にあり!?
藤田先生は3つのキーワードで分析します
最初のキーワードは「城割」です当時はですね大っきい城からほんとに小っちゃい城までいっぱいあるんですねそれをですねいっぺんに破壊していくと
当時の武士は村ごとにそれぞれ城を持っていました
この城を壊し信長の家臣が治める城下町に兵力として集めたのです
統廃合してまた中央から管理しやすくするというそういうことですね何百年前から支配をしているとかそういった歴史との引き離しといいましょうかですね次のキーワード「検地」秀吉が行なったいわゆる太閤検地はですね非常に有名なんですがそれに先行してですね信長が検地を行っていたということも分かっていますこれによってですね大名・武将の領地については数値でつまりデジタル表示することができるようになった
この2つの政策が当時の日本をひっくり返すような構造改革につながっていくんです
信長が統一をする中でですねどんどん人を動かしていきたいわけなんです城割や検地をすることによってこの武将ならばここの国に配置しようと1万石と1万石なら交換可能でしょうと
家臣たちの動きっぷりを見てみると大変な人事異動だったことが分かります
(藤田)まず丹羽長秀ですねあっこれですね佐和山にいたんですが天正元年ですが若狭ここに国替え転勤を命ぜられますでその次にですね柴田勝家ですね「大和多聞山」と書いてありますが奈良県にいたんですがこれが北ノ庄を任せられます福井県ですね
(村井)こんな遠いところに
とまぁこんな感じに縁もゆかりもない土地に次々と飛ばしまくり10年ほどの間にここまで配置が変わったんです
残るは光秀と秀吉の2人だけ
秀吉の場合ですと長浜にいたんですが中国具体的には毛利氏との戦いですね任されていましたので姫路に拠点を移しつつありました残るのが光秀です毛利氏との戦いが終わったあとはですね転勤ですね転封が待っていたとたとえばですねこの石見国ですね島根県辺りではなかったのかと推測されていますずいぶん遠いですね
光秀の強みは朝廷や公家との太いパイプ
京都を離れては腕の振るいようがありません
50の坂を超えて聞こえてきた転勤話は相当ショックだったようですね
不安…そういったものがあったんじゃないですかね信長の臣下としてはそれがまたいち支店長というかいち営業所長ぐらいの今さらそこですかみたいなね
こういう話って今でもよくあることですよね
あるある
転勤ぐらい応じてもよかったんじゃないですかもう若くないんだし島根支店長にでも収まってのんびりすればよかったじゃないですか何も社長を襲わなくても今言うか?それを父上のせいでさぁあちこち迷惑したって自覚あります?私なんて旦那の家族と超気まずくなったんですけど知ってる?細川ならうまくやってくれると思ったもんよだってよ…ハァ…もういいです私キリシタンになって名前も変えて神さまに仕えます!玉子お前…もう玉子じゃありませんガラシャと呼んでくださいあのソクラテスのか?それはギリシャガラシャですあの鶏のスープか?それはガラスープガラシャですあのギヤマンか?それはガラスですガラシャです!ガラシャ?ガラシャ!
光秀の娘・玉子後の細川ガラシャ
本能寺の変でその運命を大きく変えられました
幸せの絶頂から不幸のどん底へ
彼女のタフな生きざまに引き込まれます
明智光秀の娘・玉子後の細川ガラシャ

(歌声)
聞いたことないよっていう方も多いかもしれませんが海外ではオペラの題材になるほど高い評価を受けている人物なんです

(歌声)
幸せの絶頂から不幸のどん底へと急転直下した彼女の波乱万丈の人生をたどってみます
京都府長岡京市にある勝龍寺城は明智家の盟友・細川家の城玉子は10代でここに嫁ぎます
玉子はどんな女性だったんですか?あのね非常に美人で和歌の素養も大変すばらしい琴だとか横笛も上手だとおしゅうとさんの細川藤孝に大変気に入られたひとしお最愛の嫁だというふうにいわれてる立派な女性だったようですよじゃあ理想的な女性だったということですね
2人の結婚は戦国の世の常・政略結婚
それを決めたのも織田信長でした
信長が家臣の子どもの結婚にまで口を出してたってことなんですか京都の近くにいる明智光秀それから勝龍寺城の細川藤孝この2人が結束すると非常に自分の都合のよい状態になると
両家の結び付きの強さは勝龍寺城が光秀の城と同じ瓦を使っていたことからも分かります
2人の仲もよく玉子はこの城で子どもを2人授かっています
玉子にとっては非常に幸福な結婚生活だったというふうに思いますね主君に見守られながらお父さんどうしも仲がいいというほかでは考えられないくらい幸福な状態ですよねじゃあ一番玉子がほんとにここは輝いていた頃…そうですね時を過ごした場所なんですね
その後夫の転勤に伴って玉子は丹後・宮津へと移り住みます
その幸せな暮らしをいきなりぶち壊したのが本能寺の変
一夜にして逆臣の娘となった玉子は細川家と離縁され丹後半島の深い山の中に幽閉されてしまうのです
玉子は一体どんな所に追いやられたのか?
ロケ隊が向かったのは12月の上旬
運悪く最初の大寒波がやってきていました
先生さっきからと一転してすごい雪が降ってきましたね大変なことになってきましたねこんにちは今から玉子が幽閉されていた場所に行きたいんですけれどもこの天気で行けますか?あら〜行けないんですか…
そう冬になるとロケ隊がたどり着けないような所に玉子はいたんです
皆さんも雪が解けたらこの味土野の地に行ってみてください彼女の気持ちが分かります
新婚でラブラブだったのにいきなり夫や幼い子どもとも引き離されこんな所で暮らすはめに
しかも…しかもですよその間に夫は側室を迎えて子どもまで作っちゃったんですありえない!
子どもたちはいくつぐらいだったんですか?その…幽閉された時は?2歳と1歳ぐらいですねそれは本当に身のちぎれるような思いだったでしょうね
つらくさみしい暮らしの中で打ちひしがれた玉子を支えたもの
それは侍女が話してくれたキリスト教の教えでした
玉子の思いを形にしたかのような教会が宮津市に建っています
キリスト教に頼らないといけない何か強い思いというのが玉子にあったんでしょうか?キリシタンですと一夫一婦制っていうものが非常に大切な教義としてありまして日本でこれから施行されなければならない正しい結婚の作法だというふうに思ったんじゃないかと思いますね
その後玉子は復縁を許され大阪の細川家の屋敷に移ります
しかしここでも外出や面会を厳しく禁じられた幽閉同然の暮らし
玉子はますますキリスト教への思いを深めひそかに洗礼を受けてガラシャを名乗ります
味土野時代からの非常に苦しい環境の中での色んな疑問っていうのがキリスト教によって解決されるということで180度違った性格になったようです非常に快活になってもっと積極的な性格になるんです
ガラシャの最期は関ヶ原の戦いでした
敵の人質になることを拒みみずから死を選ぶのです
ガラシャさまの自害にお供したいと一緒に死にたいと言った女房たちをですねそれはやめてほしいとそこまで考えて…伝えなさいとほんとに武家の妻としての誇りもちゃんと持ちつつ短い花の命なんですけれどもそれを非常に潔い形で使われたんだなというふうに思います
運命をはねのけ信念を貫いた最期でした
行かれへんかったやんか味土野ロケ隊も行かれへんようなとこあたし2年もいたんやで?まぁ行かせたのはうちの旦那やけどもとはといえば父上のせいなんやからねほんま分かってんの?玉子…じゃないガラシャ!必見!
舞台はいよいよ天下分け目のジャンクション・山崎合戦の地へ
光秀をあっけなく破りさった決め手は秀吉が作り上げた情報ハイウェイ?
(やくみつる)出ましたね
(村井)夜久氏ですよやくさん
京都府には光秀・ガラシャゆかりの地がいっぱい
まずはガラシャのいた宮津市
亀岡で訪れた光秀の首塚
実はここ盛林寺にもあるんです
えっ?首って2つあるの?
亀岡経由でここまで持ってきたのかもね…
続いては舞鶴市ここは細川家の居城だった田辺城
当時の石垣が残っています
関ヶ原の戦いでは取り囲む1万5000人の兵を相手に僅か数百人で守り抜いたお城なんだって
ほう〜映画みたいな話ですね
西国街道沿いに古い町並みが残る向日市
細川家が滅ぼした豪族の城の跡が今も竹藪に残っています
向こうの竹藪に竹立てかけたのは竹立てかけたかったから竹立てかけたのです
続いて綾部市
「向田の観音さん」と親しまれている長福寺にはこんな言い伝えが残っています
光秀が戦の褒美として家臣に観音像を授けたところこの場所から動かなくなりお堂を建てて祭ったそうです
なんでここから動かんのん
1年に一度しか見られないそうです
さぁいよいよ京都市
美しい庭園で知られる廬山寺
比叡山焼き打ちの際に一緒に燃やされかけましたが時の天皇じきじきの頼みを受けて光秀は火を放つのをやめました
後に光秀は持っていた地蔵ぼさつをプレゼント
やっぱりいい人〜
南禅寺・金地院の方丈の脇に建つ門はその名も「明智門」
本能寺の変のあと残された信長の私財を光秀が寄進して建てたそうです
閉まっていても明智門
そしてまたしてもこんな所に光秀の首塚が
3つ目!?首塚多いな
お土産に「光秀饅頭」はいかがですか?
「抹茶」?それとも「黒糖」?
(村井)さぁ京都北部から縦貫道を通って戻ってきましたね中学校があって…石碑が建ってるのはご存じですか?こちらです
(藤田)足元気ぃつけてくださいね
(藤田)ここです読んでください
(村井)「天下分け目の天王山山崎合戦古戦場」
天下分け目とまでいうほどの大事な場所を示す石碑がまさか中学校の敷地の端っこにぽつんと建っているとは…
実際はねこの辺りを中心に広く展開したはずなんですけどもね
光秀と秀吉が雌雄を決することになったこの現場
その原因を作った本能寺の変が起きる前の状況をもう一度おさらいしてみましょう
時は信長の天下統一目前
家臣たちは各地の最前線で戦っていたため近畿の守りが薄くなっていました
僅かに大阪にいた丹羽長秀の軍は四国攻めの準備中
徳川家康は堺見物をしているところ
あとは光秀とつながりが強い武将だけ
ところがですね結果的に見ますとこういうことですねガラシャの嫁いでいた細川氏ですがくみしないとそれからですね与力関係にあった筒井も相当に迷ったようですが最終的にはくみしないと
あてにしていた仲間に裏切られた光秀は京都・近江の支持を集めようと必死でした
中国にいる秀吉なんかにかまっていられませんでした
えぇ?早すぎませんか?当時の通信手段でどうしてそんな距離を瞬く間に情報が伝播していったと?そうですよねそれはいくつかのルートを準備していたというふうに私は見ていますちょっと見てみましょうかうん?出ましたね
(村井)夜久氏ですよやくさん
夜久氏とは光秀が治める丹波の国の武士
現在の京都府福知山市夜久野町にいました
秀吉側から夜久氏に送られたこの手紙には「いつもいつも使者を無事通してくれてありがとう」と書かれています
なんと光秀の領地を秀吉の使者が通っていたというんです
光秀の領地を通るのが一番安全ですよねなぜですか?それは当然ですね光秀の軍隊はそれこそ総力を上げて本能寺に行っているとそうか今ここは手すきなわけなんだ
(藤田)実はそうなんですねなるほど〜
すばやく情報を得た秀吉は歴史に名高い中国大返しをスタート猛スピードで京都へ戻ります
と同時にあちこちの武将にメール攻勢をかけていたんです
本来は光秀に近い大名たちなんですが彼らに一生懸命手紙を書いて中には信長が生きてるとかですねウソの情報まで流しながらですね歓心を買うとまずは宣伝ですね自分は帰ってきてるぜ帰ってきてるぜ自分は実は遠くにいながらもこちらのことはよく知ってるよとやはり秀吉の情報戦でありですね快進撃といいましょうかそこがはるかに光秀を上回っていたと
準備不足のまま迎えた山崎の合戦
結果は見えたも同然
光秀が命を落としたのは本能寺の変から僅か11日後のことでした
肝心要のですねそもそもなぜ本能寺の変が起きるにいたったのかというところがまだ分からないのでございますがねこれについてはですね最近資料が出てきてですねかなり明らかになっておりますいわゆる四国説といわれるものです
(藤田)四国のこれは勢力地図です
天下統一を間近にした信長が最後に攻めていた中国・四国地方
このうち四国で最も大きな力を持っていたのが長宗我部元親です
元親と信長は長年の盟友で四国の中なら領土はいくらでも取っていいよと認めるほど
間に立っていたのが光秀でしたところが…
(藤田)元親がどんどん力を持っていってですねなかなか信長が統御できなくなっているとだからこのぐらいにしておけばいいのではないかと
本能寺の変の1年前信長は元親との同盟関係を一方的に解消
対立する大名を援護するという正反対の行動に出ます
この敵方の大名に取り入ったのが光秀のライバル・秀吉でした
四国の大名どうしの対立がいつの間にか秀吉と光秀の争いになっていたんです
そうですね信長のまぁ言ってみればマネージメントのですね大きな特色として重臣層をですね実力主義で競わせていくというのが彼の大きな特徴でした大名相互の争いが実はですね信長の天下取りを支えていった2人の重臣の激しいバトルになってしまうと
このたび岡山市の美術館が所蔵する古文書の中から本能寺の変直前の元親の手紙が発見されました
信長の政策転換に一度は反発したものの一転して従う意向を示したという内容です
手紙の日付は本能寺の変の僅か10日前
しかし信長からの攻撃は止まりませんでした
なんで6月2日になったのかなんで?なんでですか?これが6月2日から3日にかけてとということは光秀がその時に本能寺の変を起こしたというのは出陣を阻むと
(藤田)そういうことですね
信長のもとで目覚ましい活躍を見せながら次第にその大胆な改革についていけなくなった老将・明智光秀
信長を討とうと決意したその心中は果たしてどのようなものだったのでしょうか?
さぁ今までを踏まえてやくさんにひとコマ漫画にして頂きました驚愕の真相でございました「信長貴様の四国政策異議あり—!!」「そこ!?」って感じですねおぉ〜なるほど〜今この炎入れて頂いてます炎入ってますなんというか身につまされるようなですねそういう大きなクーデターだったと思いますやはり拡張主義ですねそれから極度の実力主義というものだけではなかなか時代は進んでいかないと現代にもつながるような話な気がしますよね信長はブラック企業的なところがあったということですか?古きよき時代に戻そうよとしたのかもしれないですよね光秀が天下取ってたらどんな世界だったんでしょうね名君だったかもしれないですねかもしれないですね2015/02/28(土) 16:00〜16:55
ABCテレビ1
ナゾ解きガラシャ・明智光秀[字] どの歴史番組よりもわかりやすい本能寺の変

「明智光秀」とはどんな人物で、なぜ主君を討つという決断をしたのか。娘・ガラシャが壮絶な死を選んだ理由は?など、本能寺の変の謎を、大きなボードでわかりやすく解説。

詳細情報
◇出演者
やくみつる(漫画家)
村井美樹(女優)
藤田達生(三重大学教授)
田端泰子(京都橘大学名誉教授)

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
映像
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz

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