100分de名著 フランケンシュタイン(最終回) 第4回「“怪物”とは何か?」 2015.03.04


人類の敵とも言える「フランケンシュタイン」の「怪物」。
しかし作者メアリ・シェリーの書き方はどこか同情的です。
文学批評において怪物はさまざまに解釈されています。
近代社会が抑圧し排除してきた「負の部分」の象徴として読み解く事もできるのです。
かっ飛んではいるのかもしれないけど面白いですね。
文字で読まないとなかなか読み込めない部分なんですよね。
「100分de名著」「フランケンシュタイン」。
第4回は怪物という存在の意味を探り人間の本質を見つめます。

(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…さあメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」前回はヴィクターその科学者のそして人類の罪と罰という事を考えてきましたがどうでしたか伊集院さん。
「現代にも通ずる」みたいな言い方ありますけど現代の方が追いついてきちゃったという感じで感動するというか感心してます。
指南役は京都大学教授廣野由美子さんです。
さて前回お伝えしましたヴィクターに女の怪物を破壊され怒り狂った怪物ですけども捨てぜりふを吐いて去っていったんです。
その捨てぜりふがこちらでございます。
女の怪物という伴侶を破壊された怪物がヴィクターが結婚する時に仕返しにいくというそういう予告だと思うんですね。
さあそれでは新婚の2人の旅の様子をご覧頂きましょう。
故郷に戻ったヴィクターはエリザベスと結婚。
2人はハネムーンに出かけます。
しかしヴィクターの心は怪物の予告に対する不安でいっぱいでした。
宿に着いたヴィクターはエリザベスを一人部屋に残し怪物がどこにいるか捜し回ります。
(エリザベスの叫び声)そこにエリザベスの叫び声が。
既にエリザベスの息はありませんでした。
ついに恐れていた事が。
そう。
とうとうヴィクターは怪物に全てを奪われてしまうんですね。
この恐ろしい場面の直前にですね美しい描写がある。
泳いでる魚に感動するとかそういうエリザベスの無邪気さが目に浮かぶというそういう時にいきなりこういう場面が来るものですから悲惨さが読者の心にもはっきりと刻み込まれるという。
ここまでヴィクター・フランケンシュタインにとってほんとに大切な人たちが次々怪物の手によって殺められていくわけなんですけどちょっとこちらご覧下さい。
最初幼い弟が殺されてしまいその犯人としてぬれぎぬを着せられた使用人のジャスティーヌが処刑されてしまう。
この親友のクラヴァルも殺され最終的には最愛のお嫁さんになったばかりのエリザベスが殺されてしまうと。
もう周りはみんな大切な人たちを殺されてでも本人殺さないんですよね。
そういう根深い思いもあると思いますね。
何か死ぬよりきつそうじゃないですか。
かえって周りの人を奪われていくという苦しみの方が深い苦しみかも分かりませんよね。
孤独を味わわせたいという。
自分が非常に孤独であるとそれと同じような孤独を味わわせたいという…ここにも複雑なものが入ってますね何かね。
エリザベスが殺されて父親のアルフォンスもいよいよ憔悴しきってしまって死んでしまうんですね。
もうとうとうヴィクターも精神を病んであてどなくさまよい歩くんですけどもその姿を見ていた怪物がこういう事を言うんですね。
つまり死んでほしくはないというそういう本心が見られるところですね。
こういうところにもヴィクターと怪物の親子としての絆の深さというものがこの作品の中で重要なテーマにつながってくるかと思えるところですね。
「分かってほしい」であり「分かれ」という「食らえ」という。
この絶望的な孤独の中にいるのは俺だけじゃなくもなりたいし複雑なものを感じますね。
いよいよそういう怪物の思いがより明確になるのが物語のラストでそういうところがはっきりする場面があります。
エリザベスを殺されて復讐の鬼となったヴィクターは怪物を追って北極に近い海まで流れ着きウォルトンの船で命を落とす事になります。
あっそうなんですか。
ヴィクターの最期ご覧下さい。
ウォルトンにみとられながらヴィクターは船の上で息を引き取ります。
そこへ怪物が現れます。
怪物はヴィクターの亡骸を前に嘆き悲しみました。
こんな終わり方だったんだ。
とても物悲しく静かで…。
泣けますね。
言葉がすごい。
最後の怪物の言葉すごいですね。
こちらでございます。
これだけ殺人を犯したあとですから悪魔と言われてもしかたないわけですけどもそれでもまだこの太陽や星を見る事とかそよ風が頬に触れるのを感じる事に名残惜しさを感じたりそういった人間的なものはまだとどめているという。
そういうところが単なる勧善懲悪主義的な物語ではなくて何か物悲しさのようなものを感じるところがありますね。
そして「いまは死ぬことだけがおれの慰めなのだ」と。
この辺りは本で読んだ「若きウェルテルの悩み」で自殺というそういうものを知っていたという事が伏線になっているところだと思います。
「ブレード・ランナー」というSF映画も人造人間が人間らしく生きたいみたいな話なんですけど最後の最後で一番手ごわかった人造人間が死ぬ時にとても詩的な事を言うんですよ。
それは多分相当こういうものの直接的影響かどうかは分からないけどとてもいいシーンだし。
そういうものがあるかもしれないので逆に私たちは教えられるようなそういう面もあると思いますね。
まさにそうですね。
人より人扱いされてなかった怪物がいや「彼」がとても人っぽいという。
そのつくった側は「つくった」と思ってるけど「命を授かった」って思ってるとても美しい終わり方ですね。
記憶はもうなくなってしまうんだという。
そういう悲しみというのが表れてるところだと思いますね。
やっぱり本人を直接ヴィクター・フランケンシュタインを殺さずに周りの人間を殺していったという事は彼を孤独にするという罰でもあり彼と絆を深めるというか自分の気持ちを分かってもらうという作業でもありほんとにいろんな意味が入ってるね。
ただの復讐でもないまた複雑な意味が入ってるんですね。
だから結局…ここでやっぱり改めて「怪物」とは何なのかという事を考えてみたいと思うんですけどもほんとに象徴的なキャラクターだからいろんな読み解きがそれこそできますよね。
単なる恐怖小説だったらもう「悪のかたまり」で片づけておしまいなんですけども何かその怪物とは一体何なのかとか何かそこに深い意味があるように思わせるものがあるんですね。
文学研究の世界でもいろんな説が唱えられています。
こんな読み解き方もされているそうです。
ヴィクターのペルソナはまあ理想的な家庭に育った良家の長男というそういう仮面です。
じゃあヴィクターの影はといいますとそれが怪物として現れたというそういう解釈がそこから導き出されるわけですね。
同じ人物?1人の中に2人いるという。
その解釈からいくとそういうふうに読めますよね。
自分を生き苦しくさせているという…いいおうちの子供であり名門の大学に行ってみたいなその履歴書どおりの人生を演じていたくないみたいなその意識というか。
良い子で生きる事がしんどいというそういうのがあったかもしれませんね。
具現化するというか。
そういう読みも一つ可能であるという事ですね。
一種の二重人格というものをはっきりとした形で表しているというそういう解釈にも重なっていくと思いますね。
先生他にはどういう解釈があるんでしょう?先ほどの精神分析的な解釈では怪物は自我の内なる存在というそういう見方をしますけども物語の時代背景から作品を読み解くとまた違った怪物像が表れていくと思うんですけども。
物語の背景そしてこの「フランケンシュタイン」という作品が生まれた時代について知っておきたい事をまとめました。
ご覧下さい。
18世紀の終わりヨーロッパは大きく揺れていました。
まさにフランス革命が始まった時代でした。
革命を終結させたナポレオンが失脚しセントヘレナ島へ流された直後でした。
そんなフランス革命の影響にヨーロッパ中がおびえていた時代に「フランケンシュタイン」は生まれたのです。
更にこの時代を語る上で欠かせないのが産業革命です。
生活をがらりと変え失業者を生み出す新しい技術は一般市民にとって怪物的存在でした。
一方で集団で暴動を起こす可能性を秘めた労働者階級が急増。
それは支配者層にとって「怪物」のような脅威でした。
「フランケンシュタイン」の時代はまさに怪物的な不安で満ちあふれていたのです。
こちらは「フランケンシュタイン」の物語の中の時代とそのメアリ・シェリーが書いた時期をまとめたものなんですね。
まさしくもうフランス革命それから産業革命がず〜っとこの辺りから来てるという。
ばっちりこの影響下にある時代なんですね。
文学作品というのも時代の産物というそういう見方をした場合に何かとてつもない力が呼び起こされているというそういう不安感があった時代ですので…なんと怪物は「女性」であるという大胆な解釈もあるんだそうですね。
少し極端と言えば極端な読み方かもしれませんがフェミニズム批評で面白い解釈があります。
怪物は女性の立場に結構似てるという説なんですね。
というのがミルトンの「失楽園」では女性というのはアダムのあばら骨から男性のためにつくり出されたと。
そしてけがれた存在として居場所を追われたイヴの末えいであるという。
怪物もヴィクターという男性からこの世に生み落とされて彼を破滅させるものとして居場所を追われた。
かっ飛んではいるのかもしれないけど面白いですね。
時代的に女性がバリバリましてやこんな怪奇小説なんか書く時代じゃないじゃないですか。
そうやって考えていくとメアリ自体がいろんな作家の影響を受けてすごい作品に集結させていくという事自体は怪物をつくってる工程と似てますよね。
いろんな死体のパーツパーツをつくって完璧なやつをつくろうと思うわけですよね。
唯一の弱点は何かというと当時彼女が女性が生み出すという事を社会は醜いと思ってる可能性があるじゃないですか。
そうやって考えるとこの作品自体がかなりそこに。
ええそれはドキッとするほど鋭い指摘ですね。
さっきのフェミニズムの観点というのもちゃんと当てはまるなと思っちゃう。
そういえばこの「フランケンシュタイン」って最初はメアリ・シェリーは名乗っていたんでしたっけ。
いえこれは無署名で出しましてそれに序文を夫がつけて出したんですね。
当時は女性がそのペンをもって作品を書くという事はこれはよくない事だと男性がすべき事だと。
文学史というのは男性によって形成されてるという考え方でしたから女性が名前を表に出すという事に対しては偏見があったので書かないというそういう時代背景。
そうするとこの本自体がもう名もなき怪物になるわけですもんね。
メアリ・シェリー自身が自分のこの作品の事を「醜いわが子」と言ってるんですよね。
そうだ。
そう考えるとやっぱり興味深い。
この執筆に先立って「失楽園」を2度読んでいたというメアリ・シェリーなんですけども本の一番最初にこんな引用文を書いております。
そして怪物は創造主フランケンシュタインにこんな言葉を投げかけるんですね。
これはなかなか「失楽園」を思わせる怪物の言葉ですね。
「失楽園」のモチーフと重ね合わせると怪物というのは結局神によってつくられた後に見捨てられてそして反逆するものとそういうふうに位置づける事ができるかもしれませんね。
だから無慈悲な神に対して怪物は悪魔のごとく反逆したと。
怪物とは何ですかってまたちょっと一つキーになりますね。
この「怪物とは何か?」という問題を考える時に抜きにできないのは創造主と被造物。
つまり生む側と生まれる側の関係というのが抜きにできない問題だと思いますね。
これやっぱり母親だと親と子という事ももう直接的に考えちゃいますしね。
そうですねこの子供の立場から見ると親の虐待であるとかネグレクトなんかいうのはこの怪物がヴィクターから受けた無情で無責任な態度と同じだという事になりますし逆に親の立場から見ますと子供というのは自分が生んだものでありながら制御できないもので時には自分に刃向ってきたり重い責任を負わせるある意味で怪物的な存在であると。
そういう普遍的なものがあって……という事がこのヴィクターと怪物の関係からは読み取れるのではないかと思います。
でも「フランケンシュタイン」をそう考えた事一度もなかったけど当てはまりますね。
怪物も子供としてはここまでねじれてしまっていたとしてもまた姿がどんなものであったとしてもとにかく愛情に飢えていたという事は確かだと思うんですよね。
女性の怪物をつくってほしいとせがんだ事もありましたけども…それがかなわなかった時に人はいかにゆがんでいく可能性があるかというメッセージも読み取る事ができる作品ではないかと思います。
どうすればよかったんですかね。
このお話はハッピーエンドになったんですかね。
自分がつくったものは命を与えたものに対してはやっぱりちょっとかわいがってほしかったなあ。
俺かわいがるというよりもねもっと彼が自分の持ってる科学力を信じるべきだったと思う。
俺はこの怪物をちゃんとなおせる。
育て上げる事ができる。
もしくは醜くてもそれを上回る魅力を彼に与えられてるはずだって。
現にあったんだから彼には。
目の見えないおじいさんが気付いた何かみたいなものは実はそうつくったんだから信じるべきだったと思うんですよ。
ところがヴィクターはそれをとうとう最後まで理解しないまま死んでしまった。
いかに人間的な力を持ったものをこまやかな感情まで持った優れたものをつくったかという事をとうとう分からないまま死んでしまったわけですよね。
その事が不幸ですよねやっぱり。
全く怪物側からの一方的な理解で終わってるというところが悲しいというか。
怪物は怪物で何かあったはずだっていう探して探して探すべきだったなというのはありますね。
ここで改めてちょっとこのシーンをご覧頂きたいと思います。
怪物が友達になりたいと願った盲目の老人の言葉です。
「あなたは誰なのですか?」。
「あなたは誰なのですか?」。
唯一理解してくれた老人ですよね。
何か刺さる言葉ですね。
改めてこうやって聴き直すとすごく印象的な言葉というか象徴的な言葉というか。
そうですね。
他人に自分を認めてもらいたいと必死になっている時に「あなたは誰なのですか?」という。
いわば絶壁に立たされた時に私たちが突きつけられる究極の問いでもありますよね。
そういう事を感じさせるシーンだと思いますね。
何かいろんな局面を助けてくれそうな気がする。
いろんなその自分の悩みとかの答えの一つになったりとか手がかりの一つになったりとかしそうな気がする。
相当意味の深い所なんですけどやっぱりこれは文字で読まないとなかなか読み込めない部分なんですよね。
やっぱり単なるホラーものとして「見る」だけではもったいないと言いますか今という時代だからこそ身近な物語として読み直せると思いますね。
4回にわたって「フランケンシュタイン」見てまいりましたけれど。
僕はいろんな人の感想が聞きたいです。
すごいきれいな人がこれを読んでどう思うという。
きれいな人はきれいに生まれた事でのきつさみたいなのが逆にシンクロしたりとかあるような気がして。
いろんな人の解釈…僕思ったんですけどね先生が解釈を押しつけないじゃないですか。
「こういう解釈のしかたもあります」「これは極端かもしれませんけどもあります」とおっしゃられるのがすごく心地よくて。
私が話したのは本当にただ一つの解釈にすぎないと思いますのでやっぱり読者の皆さんもご自分の読み方というのを大切にして頂けたらと思っていますし。
それでまたもう一つこの現代において私たちのこの時代においてこの作品をどういうふうに読み直す事ができるのかという事を探っていく事も私たちの大切な課題だと思いますね。
僕音読します。
柳楽さんと違う感じで読んでみようと。
是非皆様もお読みになって下さいませ。
先生本当に4回にわたってどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
新しい世界でしたまた。
2015/03/04(水) 05:30〜05:55
NHKEテレ1大阪
100分de名著 フランケンシュタイン[終] 第4回「“怪物”とは何か?」[解][字]

作者は人類の敵「怪物」を同情的に描いた。近代社会が抑圧・排除してきた「負の部分」を象徴的に担った存在として「怪物」をとらえる視点から、物語を読み解く。

詳細情報
番組内容
人類の敵ともいえる「怪物」を作者は同情的に描いている。近代社会が抑圧・排除してきた「負の部分」を象徴的に担った存在として「怪物」をみていたからだ。「抑圧された醜い欲望」「社会のゆがみが生み出した下層階級」……いわば「怪物」は人間社会が生み出してきた分身でもある。だからこそ、私たちは「怪物」を否定できないのだ。第四回は、「怪物という存在」が担った象徴的な意味を読み解き、人間の「負の部分」を見つめる。
出演者
【ゲスト】京都大学教授…廣野由美子,【司会】伊集院光,武内陶子,【朗読】柳楽優弥,安藤瞳,【語り】好本惠

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
趣味/教育 – 生涯教育・資格

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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日本語
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