電話で取材を申し込むとその人はこう言いました。
「実はないしょで入院中です。
病室に来て下さい」。
黒田裕子さんです。
阪神・淡路大震災以来被災者支援の在り方を築いてきた看護師です。
この時末期のがんと闘っていました。
でも時間がない。
20年前黒田さんは神戸の仮設住宅に泊まり込み被災者の支援活動を始めます。
物資や金銭面の援助だけではなく暮らしや心も支える活動でした。
ごはんもおいしく頂いてますか?うんおいしいよ。
このごろはね気候もいいしね。
そうだね。
松本さんに言われて反対に言われて…。
4年前の3月11日東日本大震災が起きるとその翌日には現地に黒田さんの姿がありました。
お久しぶりこないだはどうも〜。
いいえ。
どうすれば傷ついた人の立場に立ったケアができるのか。
考え続けてきました。
(取材者)「土足で入らないで」…。
人間不在にならない。
(取材者)「人間と地域と暮らしが一体化」。
被災者を救う事の難しさと向き合い本当に必要な支援を探し続けた壮絶な人生。
黒田裕子さん最期のメッセージです。
黒田裕子さんが闘病生活を送った西宮市の病院に来ています。
黒田さんは被災者支援の歴史を作り上げた人だといえます。
今では大きな災害が起きた時助かった人たちの暮らしの支援や心のケアなど総合的な支援が当たり前に行われるようになりました。
しかしそうした考えさえなかった20年前。
黒田さんは支援の在り方をゼロから構築していきました。
阪神・淡路大震災当時私は神戸放送局で記者をしていました。
仮設住宅を取材していた後輩から「すごい人がいます」と聞かされその時初めて黒田さんの事を知りました。
仮設住宅に泊まり込んで支援に当たるその情熱と行政をも巻き込む抜群の行動力に私は圧倒されました。
去年9月阪神・淡路大震災から20年を前に改めて取材を申し込んだところ末期がんだと本人から聞かされました。
そして「伝えたい事があるので撮影してほしい」と言われました。
黒田さんから託された言葉と映像の記録です。
医師に余命数か月と告げられてから既に3週間が経過していました。
ああ…。
ああ…。
肝臓のほとんどにがん細胞が広がり肺にも転移しています。
ああ…。
看護師がやって来ました。
すると黒田さんがズボンを脱ぎ始めます。
撮影を中断しようとしましたが黒田さんに反対されました。
黒田さんには心残りがありました。
この春宮城県にある仮設住宅の支援体制を大幅に変える予定ですがそれを見届ける事が難しくなったのです。
(中川)はい。
分かりました。
多くの看護師が黒田さんのタフな活躍に引っ張られて共に現場に立ち続けてきました。
黒田さんの事仙人って言ってたんです。
仙人?仙人。
なぜかって言いますとね寝ないでもういつもお仕事してらっしゃるんですよ。
これみんなが思ってる。
仙人だって。
仙人ですって。
(スピーカー)「こちらは気仙沼市です」。
黒田さんが支援活動を続けてきた面瀬中学校に造られた仮設住宅です。
(スピーカー)「訓練訓練」。
ここには現在も110世帯270人が暮らしています。
(スピーカー)「火の元の安全を確認して下さい」。
(サイレン)4年前東日本大震災が起きると黒田さんは翌日には被災地に入りました。
当時避難所になっていた面瀬中学校の体育館。
支援の手が足りないと聞きつけここで活動を始めます。
黒田さんは看護師として被災者の体のケアを行うだけでなくその心も支えようとします。
一人で思い切り泣ける泣き場所や女性の更衣室を作るなど次々にアイデアを出し実行に移していきました。
(神崎)こんにちはは〜い。
仮設住宅に移ると暮らしの支援が中心になります。
全国から看護師が交代で来て宿泊する体制を作り見回り声かけお茶会などさまざまな方法で暮らしを支える事にしました。
今日はふれあい祭りで縁日の焼きそばを行ってきたからって頂きました。
本当にありがたいです。
ちょっと…私これ中に置いてちょっと行ってみます。
集会所ではいつでも血圧を測れるようにしました。
高えね。
うん高いね。
ついでに時間をかけて何やかんやとおしゃべりを続けます。
飲み過ぎなかった?うん?飲み過ぎなかった?ん?どっちかな?フフフッ。
あっレンズがない。
ちょっと飲み過ぎたよね。
飲み過ぎるといつも高いからね。
眼鏡も片っぽ無いですよ。
どっか行っちゃった?眼鏡。
黒田さんは独り暮らしの人に対する支援を手厚くしました。
その孤独や苦しみに気付く事ができるよう看護師たちを指導し続けました。
あまり飲み過ぎないで下さいね。
今日はちょっとだけ。
はい。
フフフフッ。
看護師の神崎真姫さんはかつて黒田さんに言われた事があります。
「靴を履いて帰る時よく見ていなさい」。
日々の靴の履き方を覚えておけばその日の足の動きや背中から体調や気持ちの変化が分かります。
被災者はつらくてもつらいと言えず迷惑をかけまいと我慢しがちです。
そのため声の調子や目の動きを感じ取る必要があるのです。
夜は孤独が忍び寄る時間です。
一人一人を見つめてきた黒田さんがたどりついたのは24時間体制で見守る事でした。
それは今後輩の看護師たちに引き継がれています。
毎日3時になると住民が集会所に集まります。
部屋に閉じ籠もらないよう気軽に参加できるお茶会を始めたのも黒田さんでした。
この何気ない会の意味についても黒田さんは看護師たちに言い聞かせてきました。
肉親の命を失い仕事や生きがいまで奪われた人にとって平凡な日常がどれほど大切なものか。
9月17日の夜。
黒田さんの盟友とも言うべき人が訪ねてきました。
阪神大震災以来医師と看護師として現場で共に活動してきました。
以上人類を代表して黒田さんに感謝状を差し上げます。
(梁)お任せ下さい。
ああ…。
(梁)黒田さんまた会おうね。
(梁)必ず会おうね。
うん。
先生もお元気でね。
(梁)元気でね。
昭和16年黒田さんは島根県出雲市で生まれました。
運動神経抜群の陸上少女でした。
中学を卒業すると単身ふるさとを後にします。
准看護師の資格を取り兵庫医科大学病院に就職しました。
(山田)黒田さんが40年前に勤めてた病棟はこちらになります。
現在この病院の看護部長をしている山田明美さんにとって黒田さんは当時確かな技術を持つ厳しい先輩でした。
(取材者)じゃあここで教えてもらったんですか?そうですね。
はい。
赤い聴診器がトレードマーク。
医師にもズバズバ意見を言うやり手でしたがどこか愛きょうがあったといいます。
2枚目はこれものすごいすてきなドレスでしょ?このころの黒田さんは聖子ちゃんカットなんです。
もう本当に美容院に行ってきれいに髪はね…こういうふうにブローをされて後ろにそよ風が流れてるような爽やかな…。
それをご自分ではなかなかできませんので美容院に1週間に1回か…洗髪なんかも美容院でされてたと思います。
すごいおしゃれだと思います。
おしゃれに関心があったと思います。
准看護師だった黒田さんは仕事に打ち込みながら学校に通い正看護師の国家資格を取ったのは37歳の時でした。
(山田)彼女は椅子に正座をするというのがすごいね…私すごいイメージ…そういうイメージなんですね。
すごく頑張り屋さんだったので…。
お勉強とかもすごくやっておりましたのでね。
お勉強とか調べ物とかする…。
あるいは寝る時はこういう形で寝るんです。
何かあればすぐに駆けつけるような…。
「いつ寝てるの?」っていう感じですよね。
その後宝塚市立病院で看護師300人を指導する副総看護師長になりました。
(サイレン)そして黒田さんの人生を大きく変えたのが阪神・淡路大震災でした。
黒田さんも被災しましたがすぐに部屋を飛び出し救援に向かいます。
黒田さんは自ら提案して体育館に救護所を設けました。
重傷患者や遺体が続々と運び込まれ不眠不休の救援が続きました。
やがて被災者は避難所を出て仮設住宅に移りますが支援を終える訳にはいきませんでした。
黒田さんは看護師の仕事のかたわら仮設住宅で活動を続けます。
神戸市最大規模1,800人が暮らす仮設住宅でした。
生活再建に手助けのいる人が大勢いましたがその事情は実にさまざまでした。
あっこんにちは浜田さん。
はいはいこんにちは。
お元気でしたか?元気な訳ないわ。
浜田幸男さんは仮設住宅にいた3年間黒田さんの支援を受けました。
幸男さんも妻の奈美子さんも目が不自由です。
自宅は全壊し杖だけを持って逃げました。
ようやく入居できた仮設住宅に土地勘はなく知り合いもいませんでした。
上がらして頂いていいですか?
この日最初に訪れたのは仮設でマッサージの治療院を開業している浜田さんのお宅です
「神戸市では来年5月か6月ごろに再度…」。
黒田さんはまず浜田さんのために手紙や地域の広報誌などを声を出して読み上げます。
浜田さん夫婦の目が見えないからです
17日の日にはこれはあれだけど追悼式が市民の集いで開催されますという事が今あります。
行政の支援も届かず孤立する人がいました。
体調が悪化し部屋に閉じ籠もる人が増えていました。
一人でも多くの方の所に足を運びながらそして私に何かさせて頂ける事があったらさせて頂きながらその方の気持ちの中に自分の気持ちを寄り添うという事ですよ。
このころ仮設住宅である事が大きな問題になっていました。
誰にもみとられずに独りで亡くなる孤独死です。
黒田さんは自分のいる仮設からは孤独死を出さないと決意し仲間と泊まり込みます。
この仮設住宅に独り暮らしのお年寄りだけでも450人。
毎日一軒一軒訪ねて回る活動を始めました。
私たちがいつも回っては歩いてるんですけども回って歩いた時にどうもなくってもやっぱしお一人の方だったらこういうふうな…何が起こるか分かりませんからね。
しかしある日恐れていた事が起こりました。
仮設住宅の一室で56歳の男性が手に酒の瓶を持ったまま遺体で発見されたのです。
若いから大丈夫だと思っていた人でした。
「遺体はミイラ化しており鼻と口からウジ虫が湧いていた。
これまでベッドの上での死としか向き合った事のなかった私はそこに座り込んでしまった。
何のためのボランティアなんだと何回も自分に問いかけた。
この活動に終止符を打つ事にしようかとも考えた。
だが一人の死の体験よりも多くの生を支援している事が大事なのではないか」。
黒田さんは病院に辞表を書き被災者の支援に専念する事を決めました。
その後の20年に及ぶ活動。
各地で起きた震災や水害の現場に飛び回ったほか講演の依頼もできるだけ引き受け報酬は支援活動に回しました。
20年一日も休んだ日はありません。
黒田さんはよくこう語っていました。
「被災者の命はせっかく生き残った命なのです。
その人がその人らしく生ききる事ができるよう見守りたいのです」。
仮設住宅が神戸から姿を消したあとも支援は続きました。
元とび職の横山秀雄さんは黒田さんに支えられてきた一人です。
自宅は全壊し転々と住まいを変えたあとこの市営住宅に独りで暮らしています。
横山さんいいですか?ごめんなさいね。
デイサービスも行ってる?今日雨降りだったから一日。
ねえ。
入居した当初は周りに誰も知り合いがいませんでした。
その部屋に黒田さんがよく訪ねてきました。
できるだけ元気でおられる間はねみんなとお話した方がいいもんね。
今何が一番心配ですか?夜になったら一人やさかいねもし明日病気になったらどないしようかいうそういう心配があるからね。
横山さんがずっと心の支えにしてきたものがあります。
それは集会所で開かれるお茶会。
黒田さんが始めたものです。
朝定食ぎょうさん食べたやろ?横山さんはかつて職人仲間と酒を酌み交わすのが楽しみでした。
今またいい場所を見つけました。
おとうちゃん年の割には元気や食べるから。
おかずは?おかずは何個作ったんや?なあおとうちゃん…朝…あっ1品なんぼいうやつか。
えっ?何でここに来るんや言うてん。
何が楽しみで…。
面白楽しく歌わん事にゃ…。
なっ。
そりゃあそうや。
言わなんだやなあ。
やっぱりショ〜ンとするより。
その人がその人らしく最期まで生ききる。
それを目標にしていた黒田さん。
入院後思わぬ事を言いだしました。
ふるさと島根の病院に転院したいというのです。
それは黒田さんの容体から見て危険を伴うものでした。
医師と看護師の話し合いが続いていました。
医師たちは本人の考えを尊重する事にしました。
明くる9月18日。
友人の医師と看護師が同行し飛行機で移動します。
自分のための要望をほとんど口にしなかった黒田さんの珍しいわがままでした。
(井戸)すいません。
井戸知事さんお忙しいところ…。
その時兵庫県の井戸敏三知事が訪ねてきました。
自分の事ほっといて人の事ばっかりやってるじゃない。
そう。
(井戸)ねえ。
会いたかった。
(井戸)いやいや…だけどね…。
黒田さんはこの日知事に会いたいと申し入れをしていました。
多くの報道陣も病室に入れて切り出します。
頑張ろうよ頑張ろうよ。
福祉避難所とは高齢者や障害者など支援を必要とする人のための避難所です。
もっときめ細かく整備してほしいというのです。
福祉避難所の中も種類をいろいろ用意しなきゃいけないというのが今の黒田さんの遺言だから。
早速盛り込みます提言に。
是非。
被災者の多様なニーズに対応できるよう福祉避難所を災害が起きる前から準備しておかなければいけない。
黒田さんは知事に訴えました。
(酒井)本当に体調が悪いという状況の中で兵庫県知事が黒田さんの病室にいらっしゃった訳ですよね。
その時に急にしゃきっと声にちょっと張りが出てきて。
福祉避難所。
やっぱり一般に認識されていないし福祉避難所というシステムもまだ十分ではない。
これをやっぱり東海東南海が発生する前にやっぱり福祉避難所の充実をさせていきたいというのがものすごく強かったと思うんですけれども。
やっぱり被災者の声もずっとこれまでにも聞いてきていたのでここでやっぱり自分のこの時間がない中で何としてでもやっぱり訴えていきたかったと。
はい動いてよろしいですか?ありがとう。
黒田さんありがとう。
ありがとう。
黒田さんありがとうございました。
それじゃ。
会いに行きますよ。
病院の外に出ると思いがけないほど多くの人が集まっていました。
黒田さん。
ありがとうございます。
頑張って下さい。
また会いに来ます。
共に被災者の支援をしてきた仲間です。
みんな来てるよ。
黒田さんみんな来てるよ。
早く飛行機が遅れる。
飛行機が遅れちゃう。
(笑い声)これまで自分を捨て人に寄り添って生きてきた黒田さん。
この日はみんなが黒田さんに寄り添いました。
黒田さん。
黒田さん気ぃ付けて下さいよ。
(拍手)支援活動に走り回った阪神の町を眼下に見て飛行機は旋回していきます。
転院先は生まれ育った町に近い病院でした。
ふるさとに着いた時から体の痛みがうそのように和らぎました。
妹の里枝子さんも顔を見せました。
華やかな夕食。
病院食ではなくみんなで郷土料理を食べたい。
黒田さんが里枝子さんにねだって用意してもらったものでした。
(石口)黒田さん自分の死を通して映像を通してでもいいからみとりという事。
人の命がなくなっていく過程。
そして自分の生きざま。
そういったものを見せたかったんじゃないかなと思いますね。
あっこういうふうに最期は人は亡くなっていくんだと。
しかもこんなに苦しみなく穏やかに最期の時は迎える事ができるんだというのを一つのモデルとしてみんなに見てほしかったんじゃないかなと思うんです。
黒田さん自身はすごい孤独死とか孤立死とか仮設の人も含めて一般も含めてそういう社会はいけないというのをすごく思ってたので豊かに最期を迎えるという姿を黒田さんを通して見せていくというような事も思っていたんじゃないかなと思いますね。
黒田さんが見せた豊かな時間です。
翌日の午後1時。
この日血液検査の結果著しい肝機能の低下が見られました。
しかし黒田さんは語る事をやめません。
黒田さん氷氷。
最後の一人までも見捨ててはいけない。
人間だから。
午後4時黒田さんはベランダに出たいと言いました。
風は少し冷たく秋の気配が濃くなっていました。
8月に花火が揚がるのでここからみんなで。
少女時代を過ごした場所はすぐ近く川沿いの町です。
寒くないです?寒くないの?3人で。
はい。
ではチーズ。
手をつないで。
手をつないで。
私の冷たいごめんなさい。
(シャッター音)やだわ〜皆さん顔がちっちゃいのに私だけ大きくて。
ふるさとの景色を飽きずに2時間も眺めていました。
(ラジオ体操)黒田さんがずっと支援を続けてきた宮城県気仙沼市の仮設住宅です。
毎朝6時半のラジオ体操。
その日も住民たちが集まっていました。
9月24日午前零時。
黒田裕子さんは長い眠りにつきました。
ごめんなさい。
「人生の旅の荷物は夢ひとつ」ですね。
黒田さんの事大好きだったんですよね。
ごはんはおいしく頂いていますか?うんおいしいよこのごろはね。
気候もいいしね。
そうだね。
黒田さんもっとごはん頂かなあかんよ。
本当。
こんだけ働くんやからねっ。
松本さんに言われて反対に言われて。
大事な大事な黒田さん私助けてもらうんやもん。
「その人の苦しみはその人にしか分かりません。
ただ分かろうとする私が今あなたの横にいますよとお伝えする事が一番大切です。
震災でさまざまな喪失を経験した人を決して孤立させてはいけないのです。
独りぼっちの寂しさが徐々に生ききる力を失わせ明かりを見えなくさせてしまいます。
ああ生きていてよかったと思える日々が重要なのです。
時計は止まってくれない。
止めたら先に進まず復興できない。
でも人は生ききっています。
前をしっかり向いて生きていかなくてはいけないのです」。
2015/03/02(月) 00:50〜01:40
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル 東日本大震災「傷ついた人に寄り添って〜黒田裕子さん〜」[字][再]
シリーズ東日本大震災。阪神淡路大震災から東日本大震災まで、被災地の現場に立ち続けた看護師・黒田裕子さんが、去年9月亡くなった。病床の記録と最期のメッセージ。
詳細情報
番組内容
阪神淡路大震災からまもなく20年という去年9月、元看護師でボランティアの黒田裕子さんが亡くなった。20年前から、黒田さんは災害支援の道を切り開いてきた。阪神以後も、能登、中越、東日本、四川やハイチまで被災地に飛び、今、被災地で当たり前のように行われる取り組みは、黒田さんがゼロから立ち上げたものが多い。カメラは黒田さんの病床での3日間を記録、最期のメッセージに耳を傾けた。
出演者
【語り】山本耕史,【朗読】松岡洋子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番
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