NNNドキュメント「震災の棘 津波に消えたわが子」 2015.03.02


・大きな津波が2波3波4波それ以上に大きく何度も押し寄せています・
(丹野さん)「津波だ〜!」っていう大きい声が聞こえました。
私は娘がすぐ隣にいたのでそのまま娘と一緒にグラウンドから公民館の2階に駆け上りました。
上る際一瞬フッと息子がいるであろうグラウンドを私は見ています。
息子の姿が見えるか?そう思ったけど分かりませんでした。
息子の名を大きな声で叫びましたがその声が息子に果たして届いたかどうかそれは分かりません。
ただ「津波だ〜!」っていう大きい声とともにグラウンドにいた多くの人がわ〜っと建物に駆け上った時私は息子の姿をもう見失っていました。
丹野祐子さん
心に刺さったその記憶を語り継ぎます
息子が通っていた閖上中学校
震災の語り部として必ず案内します
これが閖上中学校です。
門構えに「水」と書いて「ゆり」と読みます。
残念なことに今回の震災では14人の尊い子供達が命を落としました。
1年の丹野公太。
これが私の息子です。
2週間後ちょうど皆さんがさっきバスを降りたあの辺りで私の息子は発見されたんです。
もしここまで走り切れたらこの学校までたどり着いてたら助かったんだなってそう思うとどうしてもこの場所にゴール地点をつくってあげたかったんです。
今日はホントに寒いです。
冷たい石ですが皆さんにこうやって触っていただくことによって冷たい石がちょっとでも温かくなればいいなと思いたくさんの人に触っていただく石にしたいと思っています。
ぜひよかったら子供達も触ってください。
後悔があります
「逃げなさい!」
なぜそう叫ばなかったのか
750人以上が犠牲となった名取市閖上地区
丹野さんは長女を連れ避難場所の公民館へ
公太君も友達とグラウンドにいました
そこに津波が
「公太!」と叫びながら丹野さんと長女は2階に駆け上がりました
その時公太君は公民館から中学校へ
あと100m
2週間後そこでわが子は見つかりました
夫の両親も亡くし自宅も流されました
デジタルカメラの中に見つけた集合写真
わずかに残った息子の姿
母親思いの公太君
その笑顔が家族みんな大好きでした
そばにいたのに守ってあげられなかった
生き残った自分を責め続ける日々を送って来ました
欠かさないことがあります
毎週月曜日には息子が大好きだった漫画を買います
消えることのない後悔無念
震災の棘は心の奥底に深く突き刺さったままです
あの子達が生きた証しを残したい
中学校の遺族と共に慰霊碑を建てたのは震災から1年後のことでした
多くの人達が足を運び祈ってくれます
「確かに公太は生きていたんだ」
そのことを知ってほしい
慰霊碑の近くに建てられた小さなプレハブ
丹野さんは被災地を訪れた人に自らの体験を語り始めました
2011年3月11日。
あの日は金曜日でした。
私は家族の思い出の品が何かないかと毎日のようにこの閖上の町に入って来ていましたが。
鉛筆1本箸1本拾うことできないまま瓦礫が片付きこれからどうしようとそう思い込んでいたその頃嫌な噂が聞こえて来たんです。
誰からともなく「閖上にお化けが出るんだよ」…ってそんな声がささやかれるようになりました。
「津波から逃げるためにお化けは一生懸命走ってるんだって。
感じる人はね肩がぶつかるらしいよ」ってそんな心もとない噂が私の耳にも届きました。
家族が寝静まった夜中私は真っ暗な閖上の町にこっそり来てみたんです。
でもお化けはおろか私は息子にも会うことはできませんでした。
ただただ冷たい風が吹き付ける閖上の町をひと晩中ぼんやり眺めていました。
その頃になると自分は何のために生きてるんだろう息子がいないこの世の中でなぜ私だけが生き残ったんだろうと。
自分のこともだんだんと分からなくなって来たんです。
仮設住宅で1人息子を思いめそめそと涙を流してると…。
なぜ公太が死ななければならなかったのか
どうして自分は助かってしまったのだろう
震災を語れば心に刺さった棘から悲しみがあふれます
閖上地区の瓦礫は1か月後には片付いていました
更地となった町の時計はそこで止まったまま
丹野さんは毎日のように自宅跡を訪れます
せめて大根が収穫するまで…。
畑を作ったのは震災後
ここに通う理由が必要だったからです
「何しに行ってるの?」って言われちゃうでしょ。
何にもない所に。
だから「畑作ってるの」って言えば。
言い訳。
小さな畑に鯉のぼり
やがてここもかさ上げのため土に埋もれます
優しい子でしたよ。
ホントにいい子。
多分神様ですよね。
だからね何かこの場所がなくなるとホントに…また一つ思い出がなくなっちゃうなぁって。
一緒に暮らしてた所がねなくなっちゃうなって。
悲しくなりますね。
喜ぶべきなんだけどね本当は復興することを。
素直にね喜べないですよね。
辺り一面真っ黄色の閖上です右に行きます。
ただここももともと雑草畑が開けていたわけではなくかつてここには家があったんです住宅があったんです。
私の家はあそこに鯉のぼり泳いでるの分かります?あそこが私の自宅。
ここからかさ上げが…すぐそこにお墓があるでしょ。
お墓からかさ上げが始まるんです。
津波対策のため海抜5mまで土が盛られ新しい町が出来ます
消えて行く記憶を前に何を語り継いで行けばいいのか
迷いを抱えたまま丹野さんが訪れたのは沖縄
会いたい人がいました
去年10月丹野さんが訪れたのは閖上から1800km離れた沖縄
沖縄での戦いを伝える…
ここである人に会って確かめたいことがありました
負傷兵の看護のために戦場に駆り出された…
17歳だった与那覇百子さんは砲弾が行き交う最前線での体験を今も語り継いでいます
与那覇さんも戦争で家族3人を亡くしました
(与那覇さん)ですからもうホントに危険なことです。
そうすると…。
そしてお腹も裂けて肋骨なんかもみんな出てしまった。
2人を見せられた…。
ホントに恐ろしかった。
70年もの年月
悲しく辛い記憶と向き合い続けることがどうしたらできるのか
そのことを確かめたかった
あらためましてすみません。
(与那覇さん)どうぞお客様も。
立っていいんですか?全然構わないです。
ぜひお伺いしたいことが一つありまして。
この何十年っていう長い間ホントに昨日起きたお話のようにお話しくださることを聞いてて。
やっぱり思いはずっと変わらずにお話し続けていらっしゃるのかなっていうことを。
(与那覇さん)あのね…何ていいますか…。
自分の体験を伝えることってホントにお辛かったと思うんです。
伝えることね。
はい。
そうですねでもね…。
おたくの場合は…。
私も私だけ生き残ったことをずっと3年間後悔してたんです。
(与那覇さん)1人しか生き残って…。
同じ場所にいたのに息子が亡くなって自分は助かってしまったので。
でももう…。
ありがとうございました。
いやいやいや。
頑張りましょうよ。
ありがとうございます。
(与那覇さん)泣いてたってね解決にはなりませんよ。
私も泣いてましたけどね。
もうとにかく一生懸命ね前向いて…。
震災の爪痕が消えてもあの日の後悔は消えることはない
それでも語り継ぐことが未来の命を守ることにつながるかもしれない
翌日丹野さんは沖縄の高校生の前に立ちました
皆さんの前であの日のことをお話させていただいています。
災害はいつかやって来ます。
私自身東日本大震災の「震災後」っていう言葉を軽はずみに使っていましたが今は実は「震災後」ではないんです。
次起きてしまう「震災の前」なんです。
とにかく地震津波警報が鳴ったってなれば一目散に高い所。
大事なものは命しかないんで命だけ持って高い所に逃げるっていう行動をぜひ取ってほしいと思います。
最後に一つだけ私からお話させてください。
きっと何度も聞いたことだとは思いますがぜひ親より先に死なないでください。
親より先に死んでしまうことは最大の親不幸です。
私の息子は最大の親不幸をしました。
大ばか者です。
ぜひ皆さんはこれからも長く生き続け最大の親孝行をしてください。
私の息子ができなかった親孝行。
ぜひ皆さんには続けていただきたいと思います。
(拍手)そう17歳生きてたら高校2年生。
だからね本音を言うと制服姿がね私は一番辛い。
うん。
でも…みんなに知ってもらわないとおばちゃんはすぐ死んじゃうから。
これから長生きする皆さんにねこういうことが現実にあったってことをやっぱり知ってほしいし力を貸してほしい。
ひめゆりのね86歳のおばあちゃんが一生懸命しゃべっているのを聞いて私もあと40年しゃべるからばあちゃんになったの見に来てください。
(生徒)はい行きます。
ぜひ楽しみにしてます。
今立派な町に生まれ変わるから生まれ変わった閖上っていう所にぜひ来てください。
YouTubeにいっぱい出てるから見てください。
ありがとうございます。
(生徒)すいません形見見せてもらっていいですか?いいよ。
中にね遺骨が入ってる。
だからどこ行くのも一緒に。
この景色を見せたいなってどこ行くのも一緒。
多分ね男の子だからふざけんなって思ってるよ。
アハハハ母ちゃんかよ!って絶対思ってる。
でも一緒に行きたいなって思って。
公太がいつも見守ってくれている
しかし思い出の場所は消えようとしていました
自分の目で見ないと納得しなかったり。
(司会)閖上地区被災市街地復興土地区画整理事業着工。
えい!えい!えい!
(一同)えいえいえい…。
(司会)ありがとうございました。
無事鍬入れが終了しました。
(拍手)
震災から3年半
復興という時計が動き始めます
丹野さんの自宅があった場所には災害公営住宅が建設されます
自分の目で見ないと納得しなかったり理解できないこともあるから。
自分の目で見届けます。
なくなりましたね。
なくなったね。
(泣き声)ハァ…。
なくなっちゃいましたね。
どこまでが自分の家か私に分かんなくなっちゃった。
多分ここまでかな。
(泣き声)どこに行ったんだろうねこの町は。
ホントに…どこに行ったんでしょうね。
(泣き声)
(泣き声)ありがと。
ありがとね。
目印になってくれたんだもんねありがと。
ねっ。
ありがとうございました。
またね。
雪が降って来ましたよ〜。
冷たいね〜。
みんなお家に帰りなさいね雪降って来たから。
お家ないけどお家帰ろうね。
帰ろうね。
ねっ。
3年後ここには息子の知らない町が出来ます
その町で丹野さんは公太君と一緒に生きて行きます
震災の語り部として
私達が暮らしていた閖上という町のメーンストリートだったんです。
もし願いが叶うのであれば私はここに家を建てたいと思っています。
そしてこの景色を見ながら息子のことを一生思いここで亡くなって行くのが私にとって一番ではないかと思っています。
この閖上という町がこれから新しくなるに従ってまだまだ皆様のお力を必要としています。
ぜひここに町があったこと私の息子をはじめたくさんの命があったこと忘れずにいただきそしてこの町がどのように変わって行くのか一緒に見守っていただければと思います。
あの日から4年
ネネコ〜。
東日本大震災で今も2590人が行方不明のまま
愛する人を捜す家族がいます
2015/03/02(月) 00:50〜01:20
読売テレビ1
NNNドキュメント「震災の棘 津波に消えたわが子」[字]

丹野祐子さんは津波から長男(当時13)を救えなかったことを後悔し震災の語り部となった。津波の爪跡が消え復興が進む中で深い悲しみを抱えながら震災の教訓を語り継ぐ。

詳細情報
番組内容
津波で750人以上が犠牲になった宮城県名取市閖上地区。「そばにいたのに助けられなかった…」津波で長男の公太君(当時13)を亡くした丹野祐子さんは、あの日の後悔から震災の語り部となった。津波の爪跡が消え復興が進む中、息子への思いが変わらずに語り継げるのか…。答えを探しに沖縄へ向かう。胸のペンダントには公太君の遺灰。「今は震災後ではなく次に起こる震災の前だから…」震災の風化を防ごうと活動する母の思い。
出演者
【ナレーター】
玉川砂記子
制作
宮城テレビ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
ステレオ
サンプリングレート : 48kHz

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