美しい奥様の秘密を隠し通した若いお手伝いさんの苦悩
奥様この頃少し変なんです。
小さいおうちに封印された秘密が今静かに明かされる
(アナウンス)「布宮様布宮様に申し上げます」「御収骨の準備が整いますのでお控え室にてお待ちください」「布宮様に申し上げました」
(荒井軍治)うーん…。
(荒井)そうか。
1人で死んでたかタキばあちゃんは。
(荒井康子)こんな事になったら困ると思って何度か言ったんだけどね。
一緒に暮らそうって。
おばあちゃんどうしても嫌だ1人がいいって言うの。
健史が第一発見者か。
電話が繋がらないから健史に行ってもらったのよ。
ね?そしたらおばあちゃん台所の流しの下でこうしてうずくまってたんだって。
テレビつけっぱなしで。
ふーん…。
俺もお前たちの親父も子供の頃世話になったからな。
なんか恩返ししなきゃいかんとは思ってたんだけど…。
あれ去年の正月か。
俺がお年玉持っていってご機嫌取りにくだらん親父ギャグ言ったら「あんたは馬鹿だね」…。
(笑い声)俺あのばあちゃん死なねえんじゃないかと思ってたよ仙人みたいに。
(康子)馬鹿ねえ…。
(鈴の音)
(読経)
(荒井健史)
布宮タキ僕の大伯母さん
神様はこの人にどうして安らかな最晩年を与えなかったのだろう?
気難しいところやちょっと意地悪なところもあったけどおばあちゃんには幸せな最期を迎える権利が十分にあったはずなのに…
(康子)健史。
はい?ちょっと。
(康子)健史にやってくださいって。
旦那さんこちらの絵どうされますか?いらんだろう。
はい。
何?そのノート。
ほら話しただろ?おばあちゃん自叙伝書いてるって。
あらきれいな字じゃないの。
字が上手だったよ。
小学校でもきっと成績よかったんじゃないかな。
頭よかったからねあのおばあちゃん。
(業者)奥さん。
はい。
「私が尋常小学校を卒業して東京へ出たのは昭和10年の春の事です」「兄弟6人のうち上の4人は皆どこかへ奉公していたから私も行くのが当然だと思っていました」「農村の口減らしに娘が女郎屋へ売り飛ばされる事もあった時代で村で評判のかわいい娘のところへ芸者屋が買いに来る事もありましたが私はちっともべっぴんではなかったのでそういう話は来なかったし親類のつてで行くところも決まっていました」おばあちゃんいいよ。
とってもいいよ。
時々誤字があるけれどもそれは俺が直してあげるからこの調子で書きなよ。
(布宮タキ)お世辞言ったって小遣いなんかやらないよ。
いや本気だって。
今度来る時までには10ページぐらい書くんだよ。
どうせ暇なんだしさ。
これ書き上げて出版したらベストセラーになるよ。
おばあちゃん大金持ちだ!馬鹿な事ばかり言って。
今夜は何が食べたいの?残念だけど今夜はコンパがあるんだ。
さっきのお鍋あとで取りに来るから。
ああそれから薬飲むの忘れちゃ駄目だって姉さん言ってたぞ。
健史。
ん?バイクの鍵。
困った事があったら電話くれよ。
電気関係とかガス関係とか。
よいしょ…。
(オートバイのエンジン音)
故郷を離れた日の事はよく覚えています
18歳の私は両親と別れる悲しみよりもこれから始まる未知の暮らしへの期待で胸を膨らませていたのでした
(カネ)なあタキ一番んまぐねのはいづまでもいづまでも訛りっこ取れね事だば。
一日も早ぐ東京弁ば覚えて訛りっこ使わねで話すようにしねっど。
わがったが?わがったわがった。
話す時は「です」どが「ます」どが言うんだべ。
わがったが?わがった。
(カネ)その「わがった」がまず訛ってんべ?ほだな事言っだでおばちゃんが「わがったが?」って聞いだがらおれも「わがった」と答えだんだっす。
(カネ)んだべか?「わかりましたか?」っておれ言わねがったか?言わねえ言わねえ。
んだべか…。
(カネ)あっ郵便屋さん!
なんといっても東京は憧れの都です
田舎娘の私が東京に着いた時の驚きはいかばかりだったか
にぎやかな商店街忙しく行き交う人々自転車荷馬車人力車
それに黒光りする自動車チンチン電車…
あの頃の帝都東京はなんと美しい大都会だった事か…
そうか。
おばあちゃん女中奉公したのか。
苦労したんだね。
若い人はそう思うかもしれないけど昭和の初め頃はね東京のサラリーマンの家庭では女中さんがいるのは当たり前だったよ。
へえ〜そうなの。
近頃はお手伝いさんなんて言い方するけど私が若い頃は女中はまともな職業だったし嫁入り前の花嫁修業でもあった。
奴隷みたいに思われたらかなわないよ。
でもおばあちゃんはお嫁に行かなかったんだろ?どうして?色々あったの?あったんだろう?それを書かなくちゃ。
揚げたてだよ。
塩で食べて。
はい。
う〜んうまい。
どうしてこんなに違うんだろうな?お姉ちゃんのトンカツとは。
ここが違うのよ。
あんたの姉ちゃんと一緒にしないで。
うん!
初めて女中奉公に上がったのは本郷にある小説家小中先生の立派なお屋敷で私より年上の女中さんが2人もいました
(小中先生)おーい!誰か!はい…。
(小中)これ捨ててくれるか?この部屋散らかってるけど大切な原稿や手紙があるから気をつけてくれよ。
タキって名前だっけ?4〜5年前の話だけどね俺が付き合ってた芸者からラブレターもらってそれをうかつにもその辺にほったらかしておいたんだ。
当時文さんというとっても賢い女中さんがいてねその子がその手紙を女房に見つかる前にそーっと引き出しへしまっといてくれた。
どうだ?気が利く女中さんだろ?女中は本当に難しい仕事なんだ。
そうだろ?夫婦の円満は女中さん次第なんだから。
(笑い声)
(小中夫人)なんの話してらしたの?ううん…。
女中という仕事の心得についてまあ一般的な話をしていたんだよ。
もう下がっていいわよ。
本当に一般的な話?個人的なお話じゃなかったの?違うよ。
何を言ってるんだ。
その翌年の桜の散る頃先生の奥様の紹介で時子奥様のお宅に奉公する事になりました
(平井時子)じゃああなたの事タキちゃんって呼ぶわね。
私時子。
タキと時子…発音が似てるわね。
そこの棚開けて。
角砂糖が入ってるから。
そうそう。
2つずつね。
(貞子)よく家なんか建てる気になったわねあの子。
どうして?だって関東大震災で東京じゅうがすっかり焼けて家だの財産だの持つもんじゃないってあれだけ思い知らされたのに…。
あなたやきもち焼いてるの?自分の妹に。
違うわよ叔母様。
あの子のためを思って言ってるのよ。
お姉様お土産ありがとう。
(貞子)いいえ。
いいおうちじゃないの。
趣味がよくて。
これから先が大変ですけどね。
何が?銀行に借金したのよ叔母様。
うんと。
時子お金かけるなら家よりも子供が大事よ。
今さら言ってもしょうがないけど。
どういう事?小学校からちゃんとお金かけないといい中学に進めないの。
正人なんか大変よ。
今中学受験で。
何言ってるのあなた。
恭一はまだおちびちゃんじゃないの。
(貞子)じきに大きくなるのよ。
(小中夫人)そうね。
あなたもこの間までおねしょしてたもんね。
(貞子)やだー!叔母様…。
(貞子)嫌だわもう…。
恭一!こっちいらっしゃい!
(平井恭一)はーい!
(小中夫人)あら恭ちゃん大きくなったわね。
ほらご挨拶なさい。
今でも目を閉じればまざまざと思い描く事が出来ます
昭和10年に建ったばかりの赤い瓦屋根のおうちは本当にかわいい小さいおうちでした
私はあの小さいおうちが大好きでした
(ラジオ)「丘を越えて行こうよ」おしっこしたの?うんこした。
おてては拭きましたか?
(平井雅樹)今日会社で話題になったんだけどな次のオリンピックは東京でほとんど決まりだよ。
あら素敵。
対立候補はヘルシンキだが東京はあんなのとは比較にならないぐらいの大都会だから絶対に有利だ。
へえ〜。
アジアで初めてのオリンピック開催地となれば競技場は建設される…。
(平井)道路は整備される世界中の人が日本にやって来て金を落とす。
僕の会社のおもちゃはどんどん売れる。
当分日本経済は安泰だな。
まあいい事尽くめね。
今どんどん人を採用しているんだよ。
へえ〜。
何しろアメリカではこのキューピーがすごい売れ行きだからな。
これからは世界を相手にしなければいけないんだよ。
おもちゃの製造も。
結局戦争で東京のオリンピックは中止になりましたが私はあの頃のうきうきした奥様たちとの日々を思い出すと楽しくなるのです
(時子とタキの笑い声)ああ〜!恭ちゃん…。
今読んだけどねおばあちゃんは間違ってるよ。
昭和11年の日本人がそんなにうきうきしてるわけがないよ。
二・二六の年だろ?駄目だよ過去を美化しちゃ。
日本はもう戦争してたんだよ?中国と。
支那事変は昭和12年だよ。
お前のくれた年表にそう書いてあったよ。
昭和6年の満州事変からずーっと戦争は続いてるんだよ。
15年戦争といって事変なんて言い方してるけど中身は戦争なんだよ。
軍国主義の嵐がもう吹き始めてる頃だろ。
昭和11年といえば。
嵐なんか吹いてないよ。
いい天気だったよ毎日。
私楽しかったんだもん。
あまりにも主観的だよその言い方は。
もっと客観的にならなきゃ。
そんな説教するならもう書かねえ。
だから事実をありのままに書くんだよ。
美化しちゃいけないっていう事なんだ。
美化なんかしてないよ。
私はちっともべっぴんじゃなかったって書いたじゃないか。
そういう事じゃないんだよ。
おばあちゃんも結構言うなあ。
直ったよ湯沸かし器。
ありがとう。
時子!はーい!とにかく一刻も早く連れてらっしゃい。
タイミングが早ければ必ず治るからってそうおっしゃるのよ日本橋の先生が。
だから急いで!タキちゃーん!はい!
(小中夫人)車で待ってるからね。
はい!奥様玄関の鍵…。
持ってる持ってる!
年の暮れ恭一坊ちゃんが高熱を出して1週間ほど寝込み熱が引くと今度は足が動かなくなった
お医者様が小児麻痺という診断を下し平井家は大騒ぎになった
(平井)マッサージか…。
一にも二にもマッサージ。
手を抜かなければ必ず治るんですって。
あの子の足の指からくるぶし膝太ももからお尻。
丁寧にさすったり叩いたり…。
あの子は痛がったりしないのか?むしろ気持ちよさそうにしてたわ。
マッサージには週に1回とか2回とか?毎日ですって。
えっ?毎日?1日も欠かさない事が大切なんですって。
だからあなたお金がかかるけど…。
そりゃ大丈夫だ。
今年はボーナスもたくさん出る。
そう…。
しかし毎日…。
お前大丈夫なのか?それは頑張るしかありません。
奥様。
それは私の仕事です。
私が坊ちゃんをおんぶして…。
タキちゃん毎日通ってくれるの?日本橋だろ?遠いんだぞ。
電車を何度も乗り換えたりして。
旦那様私は小学校まで1里の道を毎日1時間かけて通ったのでございます。
雨の日も雪の日も。
末のちっちゃな妹をおんぶして通った事もあります。
日本橋ぐらいまではなんて事ございません。
私が必ず治してご覧に入れます。
力強いわ。
頼むよタキちゃん。
お任せくださいまし。
はい。
ありがとうございます。
雨の日も風の日も私は坊ちゃんをおんぶして日本橋の治療院に通った
私の力で必ず坊ちゃんの足を治してみせるんだと思うとちっともつらくなかった
(治療師)いや〜辛抱辛抱。
痛い…。
動くようになるからな。
ああ…。
はあ…。
今まで見てたからわかるだろう?僕の真似してやってごらん。
はい。
あ〜暑い…。
去年の冬から半年間よく頑張ったよ。
だいぶよくなった。
マッサージの仕方教えるからこれからはあんたが自宅でしてあげなさい。
はい。
そう膝の関節の周りをもっと丁寧に。
そう。
あんた上手だね。
いい女中さんがいてよかったな。
坊や。
タキちゃんのほうがいい…。
聞いたか?ハハハハ…参ったな。
寝たの?この子は一生タキちゃんに頭が上がらないわね。
本当にありがとう。
いいえ。
奥様が一生懸命看病なすったから…。
何も出来ないのよ。
タキちゃんにばっかり任せないで私もマッサージしてあげようと思うんだけどこの子嫌がるの。
お母ちゃまのはくすぐったい。
タキちゃんのほうがいいだなんて。
憎たらしい。
何が違うのかしら?さあ…。
ねえタキちゃんちょっと私の足をマッサージしてみてくれない?坊やと同じようにやってみて。
同じように出来ますかどうか…。
大きさが違うものね。
でもいいからやってみて。
ねっ。
あっくすぐったい!ああ…気持ちいい…。
あったかいんだわ。
そうよ!タキちゃんの手私のよりあったかいんだわ。
ほら私の手冷たいでしょ?坊やが嫌がるはずねこれじゃ。
ああ気持ちいい…。
あの1年間はひたすら坊ちゃんの足をなでて過ごした
小学校入学は1年遅らせる事にしたがそれを聞いた麻布の奥様が慌てておいでになった
まだ決めてないの?小学校。
まだよ。
この辺の子はみんな宮前小学校というところに行くんだけど…。
じゃあどこも受験してないの?恭一君は。
ぼんやりだわねあなたも。
どうして?遅いわよ。
付属小学校やなんかの試験なんかみんな終わっちゃったじゃないの。
いいおうちを建てましただなんてのんびりしてるけどこの辺の名前もないような公立小学校に入れてしまったら上級学校への進学は無理だわよ。
(息を吹きかける音)熱っ!これ!すいません。
何笑ってるのよ。
1年入学が遅れてしまったのは仕方がないけれども私はあなたがその間にしっかりと受験の準備をしてるもんだと思ってたわ。
でもお姉様のところの正人君だって小学校受験はしなかったでしょ?受験はしなかったけどうんと早くに申し込んだわよ。
人気のある学校はすぐにいっぱいになってしまいますからね。
本郷の誠之青山の青南麹町小学校番町小学校それから正人の行ってる白金小学校。
この辺に入れなかったらまともな中学へは行かれないわよ。
だってそんな小学校うちからじゃどこも遠いわよ。
何のんきな事言ってるの。
正人の同級生やなんか越境して遠くから定期券持って通ってくるのよ。
そんな事初めて知ったわ。
へえ〜。
(ドアの開く音)あらお帰りかしら。
(ドアの閉まる音)嫌だこんな時間!いけない私帰らなくっちゃ!おかえりなさいませ。
(平井)お客さんか?麻布の奥様が。
おかえりなさい。
お邪魔してました。
義姉さんですか。
いいじゃありませんかたまにはゆっくり。
今日は駄目ですの。
いずれまた。
義姉さん見ましたか?南京陥落。
ついにやった!あらそうなの?「南京城頭燦たり日章旗」日本中大騒ぎだぞ!時子デパートできっと大売り出しやるわよ。
お買い物行きましょう。
(貞子)ごめんください。
(ドアの開く音)
(貞子)ああ寒っ!
(ドアの閉まる音)この調子でいくと来年の3月辺りには支那との戦争も終わりだ。
そうすると2年後は…オリンピックだ!タキちゃん忙しくなるぞ!お父ちゃまおんぶ。
(平井)恭一歩けるようになってよかったな!さあおんぶしよう。
ちょうちん行列見に行こう。
ちょうちん行列。
花電車もあるぞ!
(平井)バンザーイ!
(恭一)バンザーイ!
(平井)バンザーイ!
(恭一)バンザーイ!
(平井)バンザーイ!
(恭一)バンザーイ!
南京陥落の知らせに私たち日本人はもうすぐ戦争が終わるような祝賀気分に浸っていました
デパートは戦勝大売り出しで買い物客の大行列
花電車アドバルーン
思えばあれが最後の東京らしいにぎやかな年末でした
アチチ…。
なんだか悪夢みたいだな悪い夢。
そうだろう?南京じゃあ大虐殺が起こってるっていうのに東京では戦勝大売り出しのアドバルーンがデパートに上がったり祝南京陥落の垂れ幕が下がったりしてたって事だろ。
本当にそんな事したの?私はあんたの言うとおりに正直に書いてるんだよ。
へえ…。
それじゃあ戦争の事はそれぐらいにして恋人の事書けよ。
いたんだろ?戦争中だったし恋愛なんかしなかったの。
おばあちゃん嘘ついてるよ。
私の事ばっかり言うけど自分はどうなんだい?いつか言ってた弓道部の白い袴はいてたきれいなお嬢さんうまくいってんの?もうとっくに終わってるよ。
ああ嫌な事思い出した正月早々。
悪かったね。
じゃあお雑煮の前に形ばかり。
それじゃあおばあちゃん明けましておめでとう。
いつまでも長生きしてください。
おめでとう。
今年こそあんたに彼女が出来ますように。
言われっぱなしだなあ…。
年の暮れはそれはそれは忙しかった
奥様と2人で大掃除
家中どこもかしこも
勝手口の扉から道に置いたゴミ箱まで雑巾で拭いたものだった
お年賀のお客様のために応接間のテーブルセッティング
お玄関には松の盆栽
名刺受け代わりのお盆を置いておく
大晦日の夜やっとおうちの事が片付いて旦那様と奥様にご挨拶をしたら私は女中部屋に戻りそっと風呂敷を開く
奥様から頂いたお下がりの銘仙が入っている
板倉正治さんが赤い屋根のおうちを訪ねて見えたのはそのお正月の事だった
(お囃子)
(男の子)早く!
(男の子)大紀俺も!
(男の子)いいよ!
(板倉正治)おめでとうございます。
僕板倉正治です。
ちょっとお待ちください。
あなた板倉さんという方が。
(平井)おう。
よう来たか。
(板倉)お言葉に甘えまして。
今度うちの会社のデザイン部で採用した板倉正治君だ。
美術学校を卒業した優秀な男だよ。
今度我が社の戦力になってもらう。
さあどうぞ。
(板倉)遅れまして。
おめでとうございます。
ねえ今来たお客さん素敵よ。
主人の会社の人たちとはちょっとタイプが違うの。
いい雰囲気なの。
タキちゃん見てらっしゃい。
はい。
とにかく近衛さんに任せておけば大丈夫だよこの国は。
(品川)なんたって生まれ育ちがその辺の政治家とは違うからな。
(大久保)頭がいいし。
(品川)そうそうここが違う。
すっきりしなかった支那の情勢もこれで片が付きますね社長。
(柳社長)うん。
板倉が来たところで改めて乾杯するか。
(柳)おう。
(品川)それでは大日本帝国の…!
(平井)大きな声出すなよ。
(品川)発展を祝って乾杯!
(大久保)乾杯!このまま支那の情勢が安定すればかの大陸の子供たちに対しておもちゃを売り出す事になる。
これはもうものすごい人口だぜ。
支那には4億の民があるというからね。
その市場はもう無尽蔵と言っていい。
まずは大規模な工場を造らなきゃいかん。
板倉君のような若い力には期待したいところだな。
ひとつ頑張ってくれよ。
はあ…。
(大久保)おもちゃといえばどうしてもアメリカという事になりますが社長去年の視察旅行の話して頂けませんか?ああ…アメリカか。
いやあなんたって食い物から違うからね。
河内山宗俊のセリフじゃないが我々はひじきと油揚げでしょ。
あっちはもうこんな厚いビフテキだよ。
それをまたバターでジュウジュウ焼いて食うんだから。
体もでかいし。
(ため息)女はきれいだしなあ。
もう足がスーッと長くて…。
(平井・品川・大久保の笑い声)
(柳)なんだ?本当なんだよ。
なんのお話ですか?楽しそうに。
いやあ…支那事変の展望についてね。
(品川)社長!ハハハハ…!
(柳)なんだよ真面目に話してたじゃないか。
(柳)真面目に聞きたまえ。
(柳たちの笑い声)
(ため息)男って嫌ね。
正月早々仕事の話と戦争の話。
他に話題がないのかしら。
君も男か。
嫌だ。
タキちゃんの田舎は今頃雪が降ってるの?軒の下まで積もってますよ奥様。
だから雨戸閉めきりで。
囲炉裏たくから煙だらけでしょっちゅう涙拭いて。
あら大変なのね雪国は。
へえ…軒まで雪が。
(板倉)失礼します。
どうぞ。
あっ…ここ坊やの部屋ですか。
ええ。
お宅の中を見せて頂いてるんです。
平井さんのお許しを頂いて。
入っていいですか?どうぞどうぞ。
さあ。
ああ…いい部屋だなあ。
ここだけの話ですが戦争の話は苦手でね。
僕は油絵が専門ですが美校に入った時は建築がやりたかったんです。
実はこのうち前から興味がありましてね。
友達が近くに下宿してましたから。
あの坂の上の赤い屋根のモダンなうちにはどんな人たちが住んでるのかなあと憧れていました。
板倉さんのお故郷はどちらなの?弘前です。
あら東北地方ね。
この子山形よ。
へえ!じゃあ今頃雪でしょう?軒まで積もるんですって。
(手を叩く音)
(平井)おーい!はい!酒がないぞ!
(手を叩く音)はーい!どうぞごゆっくり。
(板倉)あっ…おもちゃがいっぱいだ。
お父さんおもちゃ会社だもんな。
(ため息)入学試験を受けるために東京に来た時ビックリしたなあ。
冬なのに青空で太陽が照ってるんだもんなあ…。
君もそう思ったろ?はいビックリしました。
こったらこと北国のもんでねばわがんねべさ。
んだわがんね。
タキちゃんちょっと来て!はい!あの…。
僕坊やと遊んでるから。
はい。
(戸の開閉音)僕板倉正治って言うんだ。
君の名前は?恭一。
恭一君か。
こんにちは。
こんにちは。
いいなあこんな部屋があって。
おっ…『コドモノクニ』だな。
誰が買ってくれた?お母ちゃま。
あのきれいなお母さんが買ってくれたのか。
読んでやろうか?
(恭一)うん。
「SOS!」「ああタイタニック号!」「イギリスの汽船タイタニック号は山のような氷山に衝突」「2223人の人を乗せたまま大西洋の底深く沈んでしまいました」
(柳)大丈夫大丈夫…。
(品川)大変ごちそうになりました。
今年も頑張りましょう!
(平井)頑張ろう。
(柳)おい板倉はどうした?
(大久保)だから酔って眠ってるそうです。
(柳)おおそうか。
しょうがない奴だな。
奥さんあいつをよろしく!はいわかりました。
(大久保)おやすみなさい。
(柳)ああありがとう。
(柳たちの笑い声)
(平井)まだ寝てるのか板倉は。
(平井)そろそろ起こせよ。
何か食わしてやれよ。
俺寝るから。
失礼するってそう言っておいてくれ。
はい。
ああくたびれた…。
(平井)あーあ…。
まあ…。
板倉さん。
板倉さん。
皆さんは?ついさっきお帰りになったわ。
いやあ大失敗だな…。
怒ってたでしょ?社長。
ええ。
うわ〜!お腹すきません?今タキちゃんがお雑煮を作ってますけど。
うわあ嬉しいな。
ごちそうになります。
どうぞ。
(戸の閉まる音)
(クラシック音楽)ストコフスキーだ指揮者は。
あの映画ご覧になった?ディアナ・ダービン『オーケストラの少女』。
楽しかったわね。
貧しい楽団の演奏が意外に素晴らしくてストコフスキーがだんだんのってくる。
そしてノン・タクトの演奏を始めるところよかったですね。
ノン・タクトって言うの?指揮棒を持たないのがストコフスキーの特徴なんですよ。
ほらこうしてたでしょ?そうそう!映画の中で。
このレコードの演奏も多分ノン・タクトでしょうね。
こうして?そうそう。
(笑い声)さあお雑煮。
お腹すいたでしょう。
ありがとうございます。
お雑煮か…ようやく正月が来たなあ。
どういう事?一人暮らしですからなんにもないんですよお正月だって。
じゃあうちにいらっしゃればいいのに。
いただきます。
ああ…うまいなあ。
よかったね。
板倉さんの下宿は電車の駅2つ目で近かったから時々レコードを聴きにいらっしゃるようになりました
奥様がお留守で1人で黙ってレコードを聴いていらっしゃる事もありました
あっそうだ。
今度の土曜日夜は外で食べる。
協会の集まりがあるんだ。
あなたその日はコンサートよ。
えっコンサート?ああそうか忘れていた!社長から切符をもらっていたんだな。
そうよお忘れにならないで。
社長も土曜日は大事な接待があるから僕が代わりに協会の集まりに行く事になったんだよ。
この間も協会の集まりとかおっしゃったじゃないの。
今度は輸出玩具協会の集まりでこの間のは玩具工業組合の集まりだよ。
同じようなものじゃないの。
何言ってんだ同じじゃないよ。
じゃあ切符はどうなさるの?2枚頂いてるのよ。
しょうがないお返ししよう。
タキちゃん仏壇の横に封筒に入ったコンサートの切符があるから持ってきておくれ。
はい。
せっかく頂いたものをお返しするの?だって無駄にするわけにはいかんだろ。
ああそうですかわかりました。
なんだ難しい人だな。
返しちゃいかんのかね?いいえそんな事ありませんわ。
お返しするとおっしゃるならそうなさって。
何を怒ってるんだ?怒ってませんわちっとも。
怒ってるじゃないか…。
なんだ女中の前でみっともない。
じゃあこうしたらどうだ。
1枚お返しして君だけ行ったら?そんな事出来ませんわ。
あなたがいらっしゃらないなら私も行きません。
誰かお義姉さんでも睦子さんでも誘ってみたらどうなんだ。
社長のほうでも無駄になるよりはいいと思ってくれるさ。
頂いたものをそんなふうによそへ回せませんわ。
第一あさっての今日よ。
間に合わないわよ。
困った人だね君も。
それじゃあ1枚だけお返しするよ。
君が1人で行けばいいだろう。
そんな失礼な事出来ないわよ。
だって君行きたんだろ?コンサートに。
行きたい行きたくないという話じゃないわ。
社長さんのご招待だから常務の妻として伺わなくちゃならないと思ってたんですよ!大きな声出すなよみっともない。
とにかく1枚だけ置いていくよ。
まったく朝から嫌な思いさせやがって…。
いってらっしゃいませ!「竹や竿竹」
(ため息)タキちゃん。
はい?今朝の私おかしかった?奥様があんなにお怒りになったの初めて見ました。
私の言い分間違ってたかしら。
そうですね…。
旦那様が奥様一人で行くようにとおっしゃったのですからそうなすったらと私思いましたけど…。
どうしてだろう?私近頃時々イライラするのよ。
(健)バーンバーンバーン!
(健)バーンバーン!
(恭一)お母ちゃま健ちゃんと遊んでくる。
うん。
わっ!おばちゃまさようなら。
さようなら。
その夜会社からお帰りになった旦那様は社長が「奥様一人でもいいからコンサートに行ってください」と言われたとおっしゃり奥様は「はいわかりました」と素直に返事されたので私はホッとしました
(演奏)
(演奏)奥さんでしたか。
どなたが見えるかと思ってたのよ。
社長から券もらったんです。
来てよかった。
(咳払い)
(演奏)ありがとう。
(演奏)
(ドアの開く音)ただいま!
(ドアの閉まる音)おかえりなさいまし。
遅くなってごめんね。
音楽会に行ってたの?そうよ。
素晴らしかった。
あのね恭ちゃんには特別なお土産があってよ。
はい。
うわあ『タンク・タンクロー』!欲しかったんだ。
恭一君はきっと好きなはずですよって板倉さんからのプレゼントよ。
あら板倉さんと?会場でばったりお会いしたの。
お父ちゃまがいらっしゃるはずだった切符を社長さんに頂いたんですって。
音楽会が終わって資生堂でコーヒーを飲んでその帰り銀座の近藤書店でこれ恭一君にお土産って。
気が利くわね。
本当にいい方。
「グーグーグー」
(ドアの開く音)あらお父ちゃまだわ。
(ドアの閉まる音)おかえりなさい。
行ってきたわコンサート。
社長さんの奥様とそれから会社の板倉さんにもお会いしたの。
ふーん…。
とってもよかったわよ演奏。
そうか…。
風呂。
あとから考えるとあの時期旦那様の会社はとても難しい局面を迎えていたのです
一方奥様のご機嫌のよさはそれからもしばらく続きました
(ノック)
(ブザー)きっとお父ちゃまよ。
(ブザー)
(板倉)タキちゃん僕だ。
まあ!奥様板倉さんです!あらどうなすったの?ご主人は藤沢の工場にご出張でしたが…。
ええ帰りが遅くて心配してたの。
それがこの嵐で東海道線が止まって横浜で足止めだそうです。
夕方事務所のほうに電話がありました。
すぐにお知らせしたいと思ったんですが会社のほうも大騒ぎでこんな時間になってしまって。
まあありがとう。
とにかくひと安心だわ。
私タオルを。
さあお上がりになって。
それより2階の雨戸をなんとかしたほうがよさそうですよ。
今見たらパッタンパッタン風に煽られてる。
えっ雨戸が?タキちゃんこのうちに梯子あるかい?ええお勝手の裏に。
それと何か打ち付ける板みたいなものと大工道具は?私持ってきます。
じゃあ君ぬれてもいい格好に着替えて手伝ってくれよ。
はい。
梯子で屋根に上がるの?危ないわよ!今のうちにやっておかないと夜中過ぎにはとんでもない事になるらしいですからね。
奥さんは坊やと一緒にいてください。
じゃあタキちゃん僕も裏にまわるから。
はい。
気をつけてね!はい。
(雨と風の音)あっ!はい板!ああ…。
お待ちどおさま。
急いで作ったからあんまり美味しくないかもしれないけどこれ食べて温まってちょうだい。
うどんかあ。
嬉しいな。
いただきます。
どう?うまい。
よかった。
恭ちゃん今夜はこの部屋でお母ちゃまと一緒に寝ましょうね。
タキちゃんの部屋も近いしなるべくみんなが一緒に寝たほうが心強いわ。
タキちゃんがいい。
奥様の布団はここに敷きますか?いいのいいの。
坊やのそばに潜り込んで寝るから。
タキちゃんがいい。
はいはい。
板倉さんは応接間のソファで休んで頂くわ。
(板倉)いや僕は帰ります。
私鉄はまだ走ってるでしょうから。
駄目よ。
うちに泊まってよ。
こんな晩に何があるかわからないじゃないの。
ねっタキちゃん。
はい。
お願いします。
困ったなあ。
あっ。
停電だ。
タキちゃん懐中電灯持ってきて。
台所にあるでしょ。
はい。
痛っ。
あっごめんなさい。
ねえ泊まってくださるわね?はいそうします。
ああよかった。
朝になればきっといいお天気になるわよ。
板倉さんちょっと起きて。
玄関のドアが変なの。
(ドアの閉まる音)あれか。
見てくださる?うん。
ラッチが壊れてるな。
奥さんそれ。
どうするの?この下駄箱をね…。
これでいいか。
台風は峠を越えたし。
明日になったら大工さんを呼んだほうがいいな。
よかったあなたが泊まってくれて。
これでゆっくり休めますよ。
ゆっくりなんて無理よ。
こんな嵐の中あなたじゃあるまいし。
僕よく寝てましたか?かわいい顔してね。
(雷鳴)
(雷鳴)いよいよ登場しましたね彼氏が。
板倉正治。
おばあちゃんも好きだったんだ?三角関係。
でもついに赤紙が来て悲しい別れ。
胸がドキドキするなあ。
あんた頭がいい割には想像力が貧困だね。
そう。
頭のよさと想像力の豊かさを同じように考えるのが間違ってるんだ。
テレビに出てくる偉そうな政治家を見てごらんよ。
一流の大学は出てるかもしれないけど想像力なんてまるでないって目つきだよあの連中は。
石油ストーブ直るのか?これさそろそろ電気に変えたほうがいいんじゃないか?年寄りは何が起きるかわからないからな。
年寄りの前で年寄り年寄りって言うもんじゃないよ。
デリカシーがないねお前は。
昔の人って鉛筆舐めながら書くんだね。
なんで?そのほうが色が濃く出るの?トンカツ作るけど食べていくかい?よっこらしょ。
トンカツかあ。
俺の貧困な想像力を刺激するなあ。
作ってる間俺が誤字直してやるよ。
「田舎を出てから5年結婚適齢期の私に縁談がきた」おお〜。
「相手は」…。
相手は私の郷里の中学の先生
立派なインテリゲンチャだが年は50過ぎ
子供は3人
すでに孫もいて3回目の結婚だという
(花輪和夫)ストコフスキー…。
(ドアの開く音)私やるわ。
布宮タキです。
タキちゃんこちら花輪さんと叔母様。
はじめまして甥の和夫です。
さあどうぞ。
おかけなさい。
花輪さんは山形のどちらですか?ああ庄内でがんす。
山形どひと口に申しましても海岸と内陸部とでは言葉まで違いましての。
タキさんは米沢の方でがんしたの?
(花輪)今奥様に伺いましたども東京さ来られてから一度も病気をした事がねえどか?は〜なんていっても体が丈夫。
これが一番でがんす。
そして子供いっぺ産むごど。
(花輪)んだ。
和夫は子供が大好きでのまだ何人も欲しいと言うなでがんす。
いやいや産めよ増やせよこれは国民の務めでがんす。
それだばあんた頑張らねば。
はい。
フッ…。
あの…お茶をどうぞ。
ありがとがんす。
(お茶をすする音)あ〜。
(お茶をすする音)あ〜。
あ〜ええお茶だの〜。
ああ。
おらえの番茶はこげだ茎入ってるさげの。
んだの。
こげだ茎…。
茎…。
(すすり泣き)嫌なのね。
そうよ当たり前よ。
嫌に決まってるわ。
心配しなくたっていいのよ。
私断るわ。
でもせっかく旦那様が口を利いてくださった話だから。
大丈夫よ。
私知らなかったのよあんな年寄りだなんて。
なんぼなんだって図々しいわ。
ね泣かないで。
でも旦那様が若い人はすぐ兵隊に取られてしまうから年取った人のほうがいいんだって。
そんなふうに…。
何言ってんの。
あんな年寄りの人だったら鉄砲玉に当たらなくたって先が知れてるじゃないの。
大丈夫。
あなたをうんといいとこにお嫁にやるのが私の夢よ。
ねっタキちゃん。
奥様。
何?私お嫁になんか行かなくていいんです。
一生この部屋で暮らして奥様や坊ちゃんのお世話をしたいと思っています。
駄目よそんなの。
あなたは凛々しい若者と一緒になって幸せな家庭を作るの。
ねっ。
おやすみ。
支那事変が長引く中で日本中が金属不足になってきた
旦那様の会社は金属製のおもちゃを諦めて木製や紙製に主力を移し始めていた
そのうち家庭内の鉄製品も回収する事になるらしいよ。
鉄のベンチとか扉とか鉄鍋とかシャンデリアとか。
こういう状況になるとはな…。
南京陥落の頃はもっと明るい見通しを持っていましたがね我々も。
ここまで長引くとは思わなかったよ支那事変は。
バックにアメリカがいるからな。
やはり戦争ですか?あいつらと。
(柳)いやアメリカとはやらないほうがいいと思うんだよ俺は。
向こうに行ってみればわかるんだ。
なんたって食べ物からして違うからな。
こっちはひじきとおから。
向こうはこんなビフテキにバターだからな。
まあ近衛さんがどう出るか。
近衛首相もおおかた社長と同じ考え方ですよ。
うん。
彼も頭がいいからね。
まあ一国の運命の前に我が社の経営などどうでもいい事なんだけど。
お待たせしました。
いつもおきれいですな奥さん。
僕はそろそろ…。
え?いいじゃないかゆっくりすれば。
どうせ待ってる人なんていないんだろう。
なんだ君はまだ独り者か。
残念ながら。
そりゃいかんよ嫁さんもらえよ。
まだいいです。
君がよくても世間がいいとは言わない。
なあ。
戦時下でまともな男が不足しとるんだ。
引く手あまただぞ。
女学校出の美人が結婚したくてうずうずしとる。
なるほど。
(柳)兵隊検査はどうだった?僕は気管支が弱くて目も悪いから丙種でした。
(柳)じゃあますますいい。
早く結婚して子供をどんどん産まなくちゃ。
大東亜建設も道半ば。
我が日本は将来を担う子供を1人でも多く殖産せねばいかん。
早く結婚してバンバン子供を作るんだ。
まあ女と違って男はいくつになっても子供は作れるけどな。
それじゃあ僕…。
本当に帰るのか?この設計図を完成させなければいけませんし。
そのうち見合いの話持ってくるからな。
早く結婚しろ。
社長命令だ。
お見送りを。
それじゃあ奥さん。
するの?お見合い。
まさか。
するわけないでしょ。
(平井)時子早く酒にしろ。
はい。
ねえタキちゃん。
板倉さん結婚なんてまだまだ早い早い。
そうですね。
早い。
早いわよ。
断然早いわ。
熱っ!
(平井)おい見たか?1人は翼賛会生活部のそういった方面に顔の利く人の娘ともう1人は統制のほうをやってるお役人の親戚筋にあたる娘さんだそうだ。
どっちか1人板倉君にどうだろうと社長が言うんだ。
板倉さんのお見合い?
(平井)うん。
(平井)ともかく今時は若い男が戦争に駆り出されていない。
ところが国は殖産政策で結婚を勧める。
若い娘を持った家は血眼で婿を探しているそうだよ。
へえ〜。
板倉君は兵役検査が丙種で兵隊には取られない。
会社員でまだ30前でこんないい条件を持った男はなかなかいないさ。
この2人の娘さんのうちどちらかに決まればうちの会社としてはとても都合がいいんだ。
お前まとめてくれるか?まとめるって私がですか?こういう事は女のほうがうまいんだ。
そうでしょうか?頼りないねえ。
板倉君と君は馬が合うんだろ?女の好みぐらい聞いていないのかね?そんな話は別にしてません。
弘前の田舎には兄さんがいるきりで親を早くに亡くしている。
常務の僕はいわば親も同然。
常務夫人なら君は母親代わりだ。
ひとつ面倒を見てやってくれ。
おおべっぴんじゃないか。
(恭一)お父ちゃまお帰りなさい。
おっ。
お帰り。
タキちゃーんお腹すいたー!はーい!今度の日曜日あたり板倉君呼んでおくからお前話をしてやってくれ。
いいな?はい。
おいおいで。
お土産がある。
次の日曜日ひどく蒸し暑い日の午後に板倉さんはシャツの袖をまくり上げてやって来た
(セミの鳴き声)
(男の子)行こう。
タキちゃん。
はい。
あとで廊下拭いて。
はい。
なんだかベタベタして。
(恭一)お兄さん見て。
うん。
(恭一)また失速だ。
(恭一)お母ちゃまお兄さんにもらったグライダー。
そう。
(恭一)それっ。
(恭一)ああまたやっちゃった。
(恭一)お兄さん取って。
うん。
ねえ板倉さん。
はい。
私あなたにお見合いの写真預かっているのよ。
ねえ。
(板倉)恭一君。
(板倉)重心がずれてるんだよ。
いくぞー!おおすごい!力入れない。
うん!飛べー!まだその気はありませんよ。
駄目よそろそろよ。
まだですよ。
おもらいなさいよ。
(恭一)飛んだ!そんな事言われると思わなかったな。
だって…社長さんに頼まれたんですもの。
そうですか。
社長に頼まれたから嫁をもらえと言うんですね。
そればっかりじゃないわ。
そろそろもらうべきだと思うわ。
奥さんにそんな事言われるとは思わなかったな。
だってそんな歳でしょ。
まだですよ。
おもらいなさいよ。
(ため息)そんな事なぜあなたが言うんですか?
(恭一)よしやったやった。
お兄さん見て見て。
写真ご覧になってどちらか一方お気に召したほうの方とお会いになってちょうだい。
嫌です。
見たくありません。
(恭一)お兄さん取って。
(板倉)貸してごらん。
(恭一)おお取れた。
(板倉)投げてみろ。
(板倉)上手上手上手。
(恭一)あんまり力入れないほうがいいんだね。
(板倉)そう。
早く切って早く早く。
おお〜。
駄目!駄目だって。
(平井)強いなあドイツは。
向かうところ敵なしだ。
よしんばアメリカが参戦するとしてもまずはヨーロッパ戦線で英国を支援するのが先決でとても太平洋までは手が回らんだろう。
日本は敵に回したら強い国だという事は向こうだってわかっているからな時子。
じゃあ戦争にならないの?うん。
結局は和平の方向にいくだろうというのが社長の意見だけどね。
ただアメリカは支那からの日本軍撤退を要求しているらしい。
そんな馬鹿な事出来るわけないじゃないか。
スイカですよー。
タキちゃんそこの見合い写真持ってきて。
はい。
来たのか?板倉君。
ええ。
でどっちが気に入ったって?それがねまだ結婚する気はないってそうおっしゃるの。
なんだいい年をして。
社長が言うんだから素直に受ければいいじゃないか。
まるで子供だなそれじゃ。
この縁談には我々の仕事が絡んでいるんだからグズグズしてもらっちゃ困るんだよ。
君あいつのとこ行って少し意見してきなさい。
しょうがない奴だなまったく。
その次の日曜日奥様は板倉さんの下宿にお出かけになりました
あちい…。
ごめんください。
(おかみ)はーい。
板倉正治さんはこちらでしょうか?ええ。
いらっしゃいますよ。
板倉さーん!
(板倉)はい。
お客さんですよ。
あっ。
こんにちは。
突然お邪魔しまして。
(板倉)ああ…びっくりした。
何事ですか?一体。
ちょっとお話が。
この間の続き。
ああ…そっか…。
じゃあお上がりになりますか?汚い部屋だけど。
じゃあそうさせて頂くわ。
タキちゃんどうもありがとう。
帰りは大丈夫だから。
(板倉)帰るの?ごめんください。
いいの?
(板倉)どうぞ。
きれいな人だね。
いいとこの奥さんだな。
女中さん連れて。
吹くなっつーの!ごめんごめん。
(板倉)おばさん!はい!すいませんお茶をください。
(おかみ)はいはい。
見合いの世話ぐらい出来なくて重役の妻が務まるのか?2人も候補者を立ててやったのに両方とも断るなんて非常識だよ。
なんで君はおめおめ帰ってきたんだ。
だって全くその気がないっておっしゃるんですもの。
親でもないのにそれ以上の事言えません。
会社には他にも以前うちにお見えになった橘さんとか赤木さんとか若い方いらっしゃるじゃないの。
2人ともとっくに兵隊に取られていないよ。
若くて残っているのは板倉君だけだよ。
今頃何を言っているんだよ。
もういい写真は僕が直接渡す。
今度の見合いは業務命令だ。
待って。
なんだ?業務命令だなんて…。
お見合いはそんなふうに頭ごなしにやるもんじゃないわ。
私もういっぺんお話ししてみます。
「よろしくお願いします」と返事をさせられるんだな?はい。
最初から任せてあるんじゃないか。
タキちゃん風呂。
はい。
タキちゃん。
はい。
明日の朝起きたらすぐこのはがきポストに入れてちょうだい。
はい。
暑いわねこの部屋。
だんだんつらい話になってきた
でも書かなければならない
いったんそう決めたのだから
(軍歌の演奏)
(子供たち)バンザーイバンザーイ。
(子供たち)バンザーイバンザーイバンザーイ。
ご苦労さま。
(軍歌の演奏)
次の日曜日奥様は「1人で出かけるから」とおっしゃいました
お草履はこれで?うん。
それじゃあ私行ってくるわ。
いってらっしゃいませ。
ごめんください。
(おかみ)はーい。
あらいらっしゃい!まあお暑い中…。
板倉さんですね?よいしょ…。
(おかみ)板倉さん。
(板倉)はーい。
お客さんだよ。
おっおお…。
どうぞお上がりください。
誰だい?あれ。
2階の男のこれじゃねえかと思うんだけど…。
どっかで見た女だなあ。
あれ?うちのお得意か?支那の戦線で兵隊さんが汗だらけになって戦ってるというのにいい気なもんだよまったく。
姦通罪で恐れながらと訴えてやるか。
偉そうな口利いて…馬鹿。
誰だっけな…。
(戸の開く音)
(板倉)おばさん。
はーい。
お茶は結構ですから。
(おかみ)はい。
(ドアの開く音)ただいま。
おかえりなさいませ。
うん。
今でもはっきり覚えている
後ろ姿の帯の一本独鈷の筋が今朝とは逆になっていた
廊下がベタつくわね。
拭いてちょうだい。
はい。
タキちゃんシャボンがないのよ。
どこかで手に入らないかしら?順天堂のおじさんに頼んでみます。
嫌ね。
物がどんどんなくなって。
奥様の帯が解かれるのがその日初めてではないのではないかと思うと私の心臓は妙な打ち方をした
はあ…気持ち悪い。
それから二度奥様は板倉さんの下宿に出かけた
二度とも洋装だった
近頃お菓子がさっぱり手に入らなくて。
すみませんこんなもので。
(松岡睦子)いいのよ。
私タキちゃんが漬けた梅干し大好き。
睦子さんは奥様の親友で男のような人でした
時子さんどちらへお出かけ?板倉さんのところに。
板倉さんってご主人の会社の若い人?ええ…。
どうしたの?何かあったの?奥様この頃少し変なんです。
変ってどこが?こんな事旦那様の耳には入れられません。
旦那様に話せない事を私が聞いてしまっていいのかしら。
(ため息)私どうしたらいいか…わからないんです。
どうしちゃったの?タキちゃん。
板倉さんってその若い人がどうかしたの?私…こんな事…。
どんな事だっていうの?ああ…そうか。
その板倉さんは時子さんを好きなのね。
(泣き声)こういう事だわ。
好きになっちゃいけない人を好きになってるのよ。
そうなんです。
(泣き声)
(睦子)女学生の頃そりゃあきれいだったのよ時子さん。
あんなきれいなお嬢さんいなかったわ。
みんな好きになっちゃうのあの人の事。
時子さんの結婚が決まった時自殺しかけた人もいるの。
嫌だったのあの人が結婚するのが。
独占したかったの。
わかるでしょ?タキちゃん。
苦しいわねあなたも。
私よくわかる。
でもこんな話私たちがした事内緒よ時子さんには。
はい。
絶対に内緒よ。
はい。
(ドアの開閉音)ただいま。
あら睦子さんいらしてたの?しばらくね。
(ため息)駄目よ…もう駄目。
こんな事してたって埒が明かないもの。
いけないわ絶対にいけないわ。
もうこれきりにしましょうと私言ったの。
もう二度と参りませんそう言ってきたのよ!どうしたの?時子さん。
これきりって何がこれきりなの?えっ?何って…。
もうこんな事駄目よ。
無理なのよ。
いけないに決まってるじゃないの。
無理ってなんの事?見合い話に決まってるじゃないの!絶対に見合いはしないと板倉さんが言うからそんなに意地を張るのなら結構です。
もう参りませんと言ってきたのよ。
なんだそういう事?そうよ。
そういう事よ。
熱っ…。
どうしてこんなお湯でお茶を淹れるの!?淹れ直して!はい。
かわいそうに。
(鼻をすする音)
(泣き声)
それからひと月ほどの間に奥様は目に見えてお痩せになりました
11月の土曜日の夜久しぶりに板倉さんがおいでになりました
実は今朝の新聞に出ていましたがこの度の聖戦では僕のような丙種合格者も召集される事になりました。
えっ…?
(板倉)お見合いの条件が会社員で若くて戦争に行かない者という事でしたから僕は該当者でなくなりました。
(平井)それはね君その条件は先方が外すんじゃないかな。
今時そんな事を言ったらお婿さんなんか見つからないよ。
いいえ僕のほうが納得出来ないんです。
家族を待たせたり泣かせたりしたくないんです。
お国へのご奉公が終わってから身を固めたいというのが今の僕の気持ちです。
(ため息)わかった。
そりゃ立派な覚悟だ。
写真は戻してください。
せっかく来たんだ上がって酒でも飲まないか?そうしてください。
何もかも配給で大したごちそうは出来ませんけど。
ありがとうございます。
仕事が残ってますから…。
(平井)そりゃあ残念だな。
まあともかく大変な事になってきたよ。
万策尽きたというとこだな。
去年以来アメリカの経済封鎖でくず鉄も石油も来ない。
来たところで玩具業界に回るわけがない。
輸出のほうはヨーロッパもアメリカも日本製品はボイコット。
支那との戦争が片付かないからまだまだ購買力はない。
どうしようもないな。
いよいよ戦争だよアメリカと。
それじゃあ僕これで。
そうか。
わざわざご丁寧に。
じゃあ奥さん…。
(ドアの開閉音)さあメシだ。
はい…。
(警笛)
(電車の走行音)
まもなく私たちは開戦の日を迎えました
真珠湾の日12月8日
(ドアの開く音)ごめんください。
酒屋のおじさんかしら?バンザーイ!バンザーイ!どうしたの?おじさん。
どうしたもこうしたもあるもんか。
ついにアメリカとの戦争が始まったんじゃねえか。
これですっきりしたぞ。
戦争が?
(酒屋)なんだラジオ聴いてねえのか?今日は聴いてなかったから…。
へえ〜大変ね。
(酒屋)そんな事言ってる時じゃないんだよタキちゃん。
この際徹底的にやっつけたほうがいいんだよアメリカなんて生意気な国は。
この間みりんが欲しいって言ってたろ。
手に入ったから持ってきてやったよ。
何もかも配給制で当分は物がなくなるから欲しいもんがあったら言いな。
タキちゃんのためならなんとかしてやるから。
どうもありがとうおじさん。
お宅の奥さん永原にこれがいるんじゃねえか?こういうご時世だから気をつけたほうがいいよ。
たまたまた見たのが俺だからいいようなもんだけどさ。
なっタキちゃん。
毎度!
(ドアの閉まる音)あっ坊ちゃん。
やりましたね日本は。
(恭一)うん。
バンザーイ!
(恭一)バンザーイ!バンザーイ!
(一同)バンザーイ!
その翌日の朝刊の胸のすくような文字を見た時私はああ新しい時代が始まるのだと思ってわけもわからず嬉しくなった事を今は苦々しく思い出します
おばあちゃん自叙伝書いてるんだって?健史が言ってたわよ。
真珠湾のところまで読んだとか。
退院するまでにたくさん書いておいてくださいって。
入院は長引くのか?2週間くらいでしょ。
あの子が悪いのよ。
乱暴な運転するんだから。
痛かっただろうねこんな包帯して。
(康子)何か書いてあるの?「孤独なボク」だって。
寂しくしてるのかい?嘘ばっかり。
毎日毎日とっかえひっかえ大学生の女の子が見舞いに来るのよ。
花だのお菓子だの持って。
看護師さんに文句言われちゃった。
他の患者さんに迷惑だって。
やっぱりモテるんだねえあの子は。
やさしいもの。
(康子)何言ってるの。
私の買い物と一緒よ。
あの子にしようかこの子にしようかと目移りがしてるうちに結局最後はかすをつかんじゃうのよ。
(笑い声)ひどい事言うね自分の弟に。
じゃあおばあちゃん。
車の鍵。
卵とバターは冷蔵庫。
野菜類は下のカゴに入ってるから。
わかったわかった。
お米はまだあったわね?じゃあ何かあったら電話して。
ありがとう。
(ドアの閉まる音)くたびれるなああの子は。
(ため息)
昭和18年になると生活物資が全て配給制になり「総力戦」とか「決戦」とか「勝ち抜く」とかいう言葉が隣組の標語に使われるようになりこの国は大きく変わり始めたがあの小さなおうちでも大変な事が起きていた
タキちゃん先週の金曜日私どうしてたっけ?金曜日は確か新宿でマーガリンの売り出しがあるとおっしゃって…。
そうだったわ。
確か新宿に行ったわ。
それがどうしたの?お姉さん。
中村屋でお茶飲んだでしょ?確かに飲んだわ。
あなた1人じゃなかったでしょ?誰が見たっていうの?
(貞子)誰だっていいの。
あなたをよく知ってる人よ。
あなたの前に若い男の人がいた。
それも芸術家風の。
ゲートルもしないでネクタイなんかした人。
板倉さんよ。
主人の会社の部下。
芸大出た人。
ばったり会ったのよ。
それがいけないの?
(貞子)ばったり会ったのがいけないんじゃなくて2人差し向かいでひそひそ話をしてたのがいけないと言ってるのよ。
今どういう時代だと思ってるの?ガダルカナルやニューギニアでは何万人もの兵隊さんたちが飢えと戦って死んだりしてるのよ。
あらお姉様いつから国防婦人会になったの?まあこの人は…。
あなたがそんな事をしてるところを見られて私まで恥ずかしい思いをしてるの!今にね「非国民」なんて言われるから。
知らないわよ私。
帰るわ。
せっかくお紅茶淹れたのに。
ぜいたくよあなたのところは。
今戦時中なのよ!お前時子の毎日をよく監視しててよ。
もし変な事したら私にこっそり言うのよ。
麻布の奥様は叔父様に告げ口をなさり奥様は本郷のお屋敷へ呼び出された
貞子がここに来てねお前の事を厳しく叱ってくれと言うんだ。
でもなあ別に腕組んで歩いてたわけじゃなし喫茶店でお茶を飲んだぐらいでそう目くじら立てなくてもと思うんだが。
お前まさかその若い男の事が好きなんじゃないだろ?いいえとんでもない!主人の部下で時々うちにお見えになる方よ。
ばったり出会ったんだからお茶ぐらい飲むだろうって言ったらそれがいけないのよ!ってヒステリーみたいな声出すんだよ貞子は。
だからまあ私が悪うございましたと謝っといてくれよ。
かなわないよそんな事で…。
ごめんない。
叔父様にまでご迷惑かけて。
(ため息)まったく窮屈な世の中になったもんだよ。
僕のようないい加減な人間まで非難する奴が出てくる。
みんな人を見てものを言うようになる。
そしてやさしい言葉で勇ましく叫ぶ奴がのさばる。
嫌な時代だよ。
(小中夫人)時子。
はい。
お話済んだ?ええ。
あなたにあげるものがあるの。
ちょっといらっしゃい。
(小中)お前はいいじゃないか。
はい。
しばらく見ないうちにいい娘さんになったね。
時子のとこへやるんじゃなかったなあ。
足をお踏みしましょうか?
(小中)本当かい?ああありがたいなあ。
頼むよ。
お前がいた頃は3人いたのにな女中が。
今じゃ1人しかいないんだよ。
(小中)やれやれ…。
(小中)ああ〜。
タキちゃんの足はあったかくて気持ちいいな。
うちの奥さんは冷たいんだよ。
ヒヤッとするんだ。
あっそうだ。
トンカツ食わせてくれる店があるんだ。
おーい時子!はーい!トンカツごちそうしてやるよ。
トンカツ。
あら嬉しい!トンカツなんか食えるわけないだろう。
昭和18年の暮れにはほらあの有名な神宮外苑の出陣学徒の壮行会。
雨の中の行進。
あれがあった時だよ。
日本中から食べるものなんかなくなってる時じゃないのか?嘘を書いちゃ駄目だよ嘘を。
闇商売っていうのがあったんだよ。
店の表は閉まってても裏から入ってなじみの客にはこっそり食べさせたりして。
そういう事をするのは特権階級だろ?困ったもんだなおばあちゃんも。
そんなに悪口言うんならもう書かないよ。
いや怒っちゃ駄目だよ。
ねえ。
いいよ。
全体としてはとても評価してるんだよ。
まあいいよ。
書き続けてよ。
(ノック)
(ユキ)ごめんください。
はい。
ユキちゃんだ。
どうぞ。
(ユキ)こんにちは。
こんにちは。
おばあちゃんこの子俺の事車で送ってくれるんだ。
今度トンカツごちそうしてやってよ。
うまいんだこのおばあちゃんのトンカツ。
へえ〜。
あれ?車は?
(ユキ)すぐそこ。
そしてついにあの日が来た
(雨音と雷鳴)
(雨音と雷鳴)いらっしゃい。
どうしたの?こんな時間に。
主人は藤沢に出張でまだ帰らないんだけど。
僕さっきまで会社にいたから知ってます。
あっそう。
どうぞ。
ありがとう。
そういえばいつかもこんな事あったわね。
主人が出張であなたが今夜は帰れないと言って嵐の夜に来てくれたじゃないの。
今夜もあんな用事?そうじゃないんです。
じゃあ何?何かあったの?実は召集令状が来たんです。
今温かいお茶を。
いついらっしゃるの?本籍地の軍隊に入営する事になるからあさっての夜には上野を発たないと…。
僕の故郷の弘前までは一昼夜かかるから。
その先どうなるの?多分戦争に行く事になるだろうな。
支那か南方かわからないけど。
似合わないわ兵隊なんて。
僕もそう思うよ。
お宅の前まで来て随分迷いました。
お会いしないほうがいいんじゃないか。
会ってもますますつらくなるだけでどうにもならないんじゃないか…。
もし黙って行っておしまいになったら私恨んだわ。
じゃあ来たほうがよかったのかな。
いやあひどい目に遭った。
(平井)タキちゃんタオル!はい!おかえりなさいませ。
(平井)いやあかなわんな灯火管制は。
まるで暗闇だ。
誰か来てるのか?板倉さんがついさっき。
(平井)板倉が?おかえりなさい。
おうどうしたんだ?こんな時間に。
あなた板倉さん召集令状が来たのよ。
(ため息)そうか…ついに来たか。
お国に尽くすなら君など兵隊より絵を描いたり漫画を描いたりしたほうがよっぽど役に立つと思うけどね。
一番つまらない使い方だな君に人殺しをさせるというのは。
(ため息)しかしそんな事も言っておれないか。
とにかく時子祝杯をあげようじゃないか。
配給のまずい酒で。
はい。
奥さん結構です。
雨がひどくならないうちに帰ります。
でも…。
本当に結構です。
色々支度もありますから。
恭一呼んできて。
はい。
で出発は?あさっての夜です。
明日は一日部屋の片付けをしてあさってお昼前に会社に伺います。
みんなで送りにいくよ上野駅に。
バンザーイバンザーイ旗を振ってな。
ありがとうございます。
それじゃあ。
あっ…。
あさって会社で皆さんにご挨拶しますけども平井さん本当にお世話になりました。
奥さんタキちゃん散々ごちそうになってなんのお礼も出来ずにすいません。
(平井)その分戦争で頑張ってくれよ。
はい。
(板倉)恭一君。
ん?しっかり勉強して賢い人間になれよ。
うん…。
それじゃあ。
(平井)足元に気をつけて。
道は真っ暗だからな。
はい。
(雨音)あっ…タキちゃん懐中電灯差し上げて。
うちにはもう一つあるからって。
はい。
板倉さーん!
(ドアの閉まる音)散々世話してやったんだから酒ぐらい飲んでいけばいいのに。
変な奴だなあ。
おい風呂沸いてるか?はい。
それじゃあタキちゃん色々ありがとう。
はい。
忘れないよ君の事は。
もし僕が死ぬとしたらタキちゃんと奥様を守るためだからね。
駄目です。
死んじゃいけません!さよなら。
タキちゃんちょっと出かけるわ。
どちらへ?ちょっとね。
お戻りは何時頃に?ちょっとよ。
奥様がなさろうとしていた事があの時瞬時にわかった
私の頭は混乱した
私の中に2人の私がいて1人は会わせてはいけない何が起きるかわからないからいけないと言う
もう一人の私はもうこれきり会えないのだから何が起きようと会わせて差し上げたいと言う
私は迷いに迷った
奥様およしになったほうがよろしゅうございます。
なんの事言ってるの?板倉さんとお会いになるのおよしになったほうが…。
お餞別をお渡しするだけよ。
それなら私が参ります。
今日のタキちゃんは意地悪だわ。
どいてちょうだい。
どきません!タキちゃん私に指図するの?いつそんなに偉くなったの?こうしましょう!お手紙をお書きくださいまし。
今すぐ私が届けに参ります。
「今日のお昼過ぎお会いしたいのでお出かけください」そうお書きくださいまし。
どうしてそんな事しなくちゃいけないの?
(自転車のベル)板倉さんの下宿のご主人は酒屋のおじさんの囲碁仲間なのです。
酒屋さんは奥様の姿を板倉さんの下宿で見かけた事があるというのです。
私はもちろんそんなのは人違いだと言いましたけど…。
この事が旦那様や坊ちゃんに知られたりしたら大変な事になります。
板倉さんがここに来られる分には何も不都合がないのですからそうなすってくださいまし。
お願いです!お手紙書いたわ。
タキちゃんと一緒に来てくださってもいいしお昼過ぎになっても構わない。
私お待ちしてますからってそう申し上げて。
はい。
行って参ります。
(ドアの開閉音)
しかし板倉さんはその日おいでになりませんでした
日の暮れるまで待ち焦がれる奥様に私は声のかけようもありませんでした
そして坂の上の小さなおうちの恋愛事件が幕を閉じました
(泣き声)
(ノック)こんにちは。
(すすり泣き)おばあちゃん?どうしたの?
(泣き声)なんで泣いてるの?私ね…。
うん。
長く生きすぎたの…。
(泣き声)
その日からしばらく奥様は生気を失ったようにぼんやりされていました
戦争はますます厳しくなり女中を置くというぜいたくは許されなくなってきて私は山形の田舎へ帰る事になりました
それじゃあ奥様。
戦争が終わって何もかも片付いてそしてあなたがまだお嫁に行ってなかったら帰ってきてちょうだいね。
戦争はいつか終わるのでしょうか?そりゃそうよ。
始まったものはいつかは終わるわよ。
それじゃあ…必ず戻って参りますから。
待ってるわ。
(すすり泣き)
(すすり泣き)
昭和20年5月25日に東京山の手の大空襲があった事を田舎で知りましたが奥様一家の消息を知る手立てもなく私はひたすらご無事を祈り続けました
(空襲警報のサイレン)
(飛行音)
(男性)退避!退避!退避!
(赤ん坊の泣き声)
(爆発音)
(女性)お母さん!嫌ーっ!!
(女性)嫌ーっ!助けてーっ!!
(悲鳴)
8月6日広島9日長崎の原爆投下
そして15日お寺のラジオで玉音放送を聴きました
「始まったものはいつかは終わるわよ」という奥様の言葉どおりようやく戦争は終わったのです
その年の暮れつてを頼ってやっとの思いで手に入れた切符で東京に出た私はあの赤い屋根のおうちは燃えてしまってお庭の防空壕の中で奥様と旦那様が抱き合った姿で…
抱き合った姿で…お亡くなりになっていたという事を…
(泣き声)
おばあちゃんの自叙伝はそこで終わっている
(荒井)この美人が奥さんでちびが坊ちゃんか。
焼け跡に子供の遺体はなかったっていうからどこかで生きてるかもしれねえな。
おばあちゃんから聞いた事なかった?この子の事。
何も。
奥様や旦那様が焼け死んだというところでおばあちゃんワーワー泣いちゃうからいつもそこで終わるの話が。
何?その封筒。
封が切ってないな。
まあ形見だと思ってお前その箱大事にしろよ。
さてそれじゃあ片付けるか。
「立つ鳥跡を濁さず」といってなあ…。
冷えてきたわね。
その翌年僕は大学を卒業して東京の土木建築関係の小さな会社に就職した
バージニア・リー・バートンの有名な絵本『ちいさいおうち』の事を僕は彼女からプレゼントされて初めて知った
いい本でしょう。
ささやかなプレゼント。
どうして?今日誕生日じゃないの健史君の。
あっそっか!全然忘れてた。
ハハハ…。
有名な本よ。
知らなかったの?健史君みたいにビルやマンションを建てる仕事をしてる人は読んでおいたほうがいいのよこういう本は。
(ユキ)プレゼント用にしてください。
何見てるの?うん…。
(ユキ)ああこのポスター!私大好きなのこの人の絵本。
イタクラ・ショージ…どこかで聞いた名前だよ。
だって有名だもんこの人。
あっそうだ!おばあちゃんの…。
ほら美味しいトンカツ作ってくれたおばあちゃん。
あの人の恋人…じゃなくておばあちゃんが仕えた若奥さんの恋人が同じ名前だよ。
じゃあこの人の事じゃないの?まさか〜。
出征したんだよ?だからって戦死したとは限らないでしょ。
今調べてあげる。
「イタクラ・ショージ1944年出征」「ニューギニアで敗戦1946年帰国」生きてたのよ。
出身地は?青森県弘前市。
じゃあその人なんだ…。
翌週僕たちは練馬区にあるイタクラ・ショージ記念館に出かけた
この絵の事で何か?この絵にはモデルがあるんですか?東京の大田区にあった平井さんのお宅だという事はわかっています。
空襲で焼けてしまったそうですけど。
(ユキ)描かれたのは戦後ですね。
ええ。
ですから記憶の中にあるイメージなんです。
ショージの寝室にかかっていたそうですから特別な作品でしょうね。
イタクラ・ショージは結婚はしてたんですか?いいえ。
生涯独身でその辺りは謎になっています。
えっと…3年ほど前に平井さんの息子さんと連絡がついたのでお手紙で問い合わせましたが昔の事なのでよく覚えてないってご返事でした。
息子さんが生きてらっしゃるんですか?ええ。
あの…住所ってわかりますか?確か北陸の石川県じゃなかったかと…。
ちょっとお待ちください。
つまり坊ちゃんは生きてたって事?
(恭一)そうですか…。
タキちゃんが自叙伝を書きましたか。
残念だな。
3年前まではまだ目も見えたし足も動きましたが今はもう使い物になりません。
随分長く生きました。
平井さんの少年時代の事が色々書かれています。
そう。
おふくろも出てくるの?きれいな人だったそうですね。
おしゃれでね…。
実は見てもらいたいものがあるんです。
あっいえ手にとって頂ければいいんですが。
(恭一)何?平井時子さんの手紙です。
おふくろの?未開封で宛名がないんです。
宛名がない以上差出人に返すべきなんだろうけど平井時子さんは亡くなっているのでご遺族にお返ししなくちゃと。
何が書いてあるの?いや黙って開けちゃいけないと思って…。
ハハハハハ…若いのに律儀な人だね。
ご遺族がいいと言っているんだから構わないだろ。
今開いてここで読みましょう。
はい。
ハサミお借りします。
読みます。
きれいな女の人の字です。
「今日のお昼過ぎ1時頃にお訪ねくださいませ」「どうしてもどうしてもお会いしたく思います」「必ずお訪ねくださいませ」「板倉正治様平井時子」どういう事なの?ああ…。
あっこれは板倉さんが出征する前の日に奥さんに頼まれた手紙です!おばあちゃんは届けなかったんだ…。
ほらここに「板倉さんはその日おいでになりませんでした」って書いてあるけど来なかったんじゃなくておばあちゃんが2人を会わせなかったんだよ。
その手紙をおばあちゃんは何十年も持っていたわけ?ああ。
あの…これはどういう事かと言いますとね平井さん…。
(すすり泣き)参ったなあ…。
この歳になって母親の不倫の証拠をまざまざと見るとはな。
おい…。
まあとっくに時効だけどね…。
どうもすみません。
いいんです君を責めてるわけじゃない。
僕たちはそれからたくさんの話をした
平井さんは若き日のタキちゃんの事をよく覚えていた
彼女がなぜ板倉さんに手紙を届けなかったのか
その事でどれほど苦しみ抜いたのだろうかという話をしながら平井さんは何度も涙を拭いた
海の近くに住みたくてね…。
子供の頃からの夢でした。
今何が見えますか?穏やかな波。
水平線は淡くかすんでいます。
タキさんとよく行きましたよ江の島の海に。
板倉さんも一緒の事がありました。
僕はあの2人はお似合いだと思っていたんだけどな…。
歩きましょうか。
そうか…。
タキちゃんはとうとう結婚はしなかったのか。
お会いになりたかったでしょうね。
一生懸命捜したんだよその昔。
でも山形出身しかわからないんだからどうしようもないんだ。
ああ…もし会えたら言ってあげたかったなあ。
どんな事を?タキちゃんそんなに苦しまなくていいんだよ。
君の小さな小さな罪はもうとっくに許されているんだからね。
それを聞いたらおばあちゃん泣いただろうな…。
きっと大声上げて。
今度は僕が涙を拭く番だった
嫌な時代だったな…。
日本人誰もが何かしら不本意な選択を強いられていたんだ。
いや強いられてする人もいれば自ら望む人もいてそれが不本意だったという事すら気がつかない。
そういう時代があったんだよ。
あれは確か秋の終わりだった
大学の帰りおばあちゃんの家に寄ってドアを開けた時の事を僕は強烈に覚えている
(泣き声)なんで泣いてるの?Dialogue:0,2:32:12.03,2:32:15.06,Default,,002015/03/01(日) 21:00〜23:39
ABCテレビ1
日曜洋画劇場 特別企画「小さいおうち」[デ][字]
原作は直木賞受賞作。ベルリン国際映画祭・銀熊賞受賞で話題となった山田洋次作品が地上波初放送!「家族の絆」を描き続けてきた名匠が初めて「家族の秘密」を描く。
詳細情報
◇番組内容
健史(妻夫木聡)の大伯母・タキ(倍賞千恵子)が遺したノートは自叙伝だった。昭和初期、小説家の小中(橋爪功)の屋敷に仕えたタキ(黒木華)は、東京郊外の平井家のお手伝いさんとして働くことに。赤い三角屋根の小さくモダンな家には主人の雅樹(片岡孝太郎)と妻の時子(松たか子)、幼い一人息子が暮らしていた。穏やかな彼らの生活を見つめていたタキだが、板倉(吉岡秀隆)という青年に時子の心が揺れていることに気付く。
◇出演者
松たか子、黒木華、片岡孝太郎、吉岡秀隆・妻夫木聡、倍賞千恵子
橋爪功、吉行和子、室井滋、中嶋朋子、林家正蔵、ラサール石井
あき竹城、松金よね子、螢雪次朗、市川福太郎、秋山聡、笹野高史
小林稔侍、夏川結衣、木村文乃、米倉斉加年
◇監督
山田洋次
◇原作
中島京子『小さいおうち』(文春文庫刊)
◇脚本
山田洋次、平松恵美子
◇音楽
久石譲
◇おしらせ
☆番組HP
http://www.tv-asahi.co.jp/nichiyou/
ジャンル :
映画 – 邦画
福祉 – 文字(字幕)
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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日本語
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