地震発生の翌日2万人を超す住民が孤立していた。
その命を救うためかつてない闘いが始まっていた。
全国各地から駆けつけた緊急消防援助隊。
空と陸合わせておよそ4,700の部隊から成る人命救助のプロだ。
阪神・淡路大震災をきっかけに生まれたこの隊が全国規模で運用されるのは初めての事だった。
その最前線を記録した映像が4年間ほぼ未公開のままそれぞれの隊に保管されていた。
精鋭たちの瞬時の判断が救った数多くの命。
一方津波による溺死を免れながら助けが間に合わず失われた命もあった。
隊員たちは今も4年前の悔しさに向き合い続けている。
史上最大の救出に挑んだ緊急消防援助隊。
あの時何ができ何ができなかったのか。
隊員たちの証言と未公開映像で迫る。
あそこにいるよ1人。
いる?がれきの上に。
この人からいきましょう。
了解。
あの日午後2時46分。
6分以上続く激しく長い揺れが東北各地を襲った。
宮城県ではすぐに災害対策本部が立ち上がった。
最初の対策会議を開こうと集まった幹部たちの目に信じられない映像が飛び込んできた。
あらすげえ!あ〜いや…。
すごいな!すぐに被害状況を把握しようとした。
しかし沿岸部の町とは電話も無線も通じなくなっていた。
そのころ沿岸部には10メートル前後の巨大津波が押し寄せていた。
多くの町が壊滅的な被害を受けていた。
自分たちだけでは捜索も救助もできない。
小松たちは国へ電話をかけた。
ある部隊に応援を要請するためだ。
全国各地の消防に所属する75機のヘリとおよそ4,600の陸上部隊から成る人命救助の精鋭たちだ。
隊が結成されたきっかけは20年前の阪神・淡路大震災。
地元の消防だけでは対処しきれなかった反省から生まれた全国組織だ。
大きな災害の際被災した自治体の要請に応じて出動する。
全国規模で隊が一斉に動く事態は東日本大震災が初めてだった。
被災地から遠く1,000キロ以上離れた…当時熊本県の航空隊副隊長だった…津波の映像を見て隊員たちは出動を確信。
準備に取りかかった。
宮城県の出動要請から45分後熊本の航空隊に国から出動の指示が出た。
機材を積み込み9人の隊員がヘリに搭乗離陸した。
このころヘリ部隊の第一陣15機が全国から被災地に向かっていた。
被災地では日暮れ前から雪が降っていた。
多くの命が危険にさらされていた。
津波に襲われた膨大な数の人たちがあちこちで孤立。
身動きがとれなくなっていた。
自らも被災した地元の消防や自衛隊の隊員などが懸命の救助を続けていた。
一刻も早く現場へ。
各地の緊急消防援助隊は被災地へと急いだ。
熊本県隊が首都圏上空にさしかかった時の映像が残されている。
それから間もなく国の指示で埼玉の飛行場に着陸。
西村たちはなんとかその日のうちに被災地に入りたかった。
しかし現地の飛行場が被災しどこへ行けば安全に着陸できるのか情報がなく動けない。
ほかのほとんどの隊も足止めを食っていた。
雪による視界不良などに阻まれ出発の指示が出ない。
夜が更けた被災地で深刻さを増していたのが寒さだ。
氷点下になっていた。
病院に運び込まれた重症患者の中で最も多かったのが…寒さで体温が奪われ死に至る事もある。
体温が重症の…30度近くまでどんどん下がってくるとやっぱり意識が悪くなるとか。
最重症の方の場合にはほとんど刺激をしても反応がないし…いわゆる心肺停止状態という状態にはなる。
ここにも寒さで命の危険にさらされている人たちがいた。
住職の佐藤文仙さんとその家族。
暖をとるすべはろうそくしかなかった。
とにかく寒くて寒くて。
上に4本ありますね?ろうそく。
あれを全部ここに立てたんです。
そしてろうそくに手を…かざしながら暖をとった感じです。
暗闇の中近所の住民たちが水をかき分け寺に逃れてきた。
3歳の孫娘を抱きかかえた高齢の男性。
すぐに意識を失った。
更に数時間後もう一人寺に避難してきた女性がいた。
厳しい寒さの中女性は朝を待たず亡くなった。
本当に生死を分ける寒さだったと思いますあれは。
本堂の中に避難してても寒くて寒くてしょうがなかったのにその状況の中でぬれるという事はどれだけの事かと思うと。
おつらかったと思いますよ。
このまま孤立が続けば残された者の命も危ない。
一刻も早い救助が必要だった。
地震発生の翌朝。
埼玉などの飛行場で一夜を明かしたヘリが飛び立とうとしていた。
この日被災地へ向かった救急消防援助隊のヘリは38機。
その半数近くが最大の救助現場となった宮城県に入った。
2万人以上が孤立していた。
ほかにも自衛隊や警察海上保安庁のヘリが集結した。
その運航を統括したのが…どこでどれほどの人が救助を待っているのか。
まずは被害情報の収集を指示した。
熊本県隊の西村たちは埼玉の飛行場を離陸し午前9時30分宮城県の石巻に到着した。
現地の状況は想像を超えていた。
その辺私は運航指揮者としてすごく最初…判断に迷った次第です。
情報収集をしたあと本部からの指示を待って救助していては命が失われてしまう。
本部に熊本県隊から連絡が入った。
「現場判断ですぐ救助に取りかかりたい」。
小松たちは現場を信じ託した。
救助が必要な人を見つけ次第すぐに助ける作戦だ。
西村たちは到着から5分後には救助を開始した。
ヘリの姿勢が少しでも崩れると隊員に危険が及ぶ。
パイロットには高い技術が求められる。
助けを求めてきた人の家のベランダに隊員を滑り込ませる。
安否を確認し金具を取り付けつり上げる。
その間僅か3分ほど。
1晩寒さに耐えていた住民をヘリに収容し始めた。
救助は時間との闘いだった。
4〜5人収容してはすぐ近くの公園などへピストン輸送を続けた。
ほかの隊も必死だった。
はいOK。
子どもやお年寄り重症患者がいれば最優先でつり上げた。
寺で寒さに倒れた高齢男性たちと助けを待っていた佐藤住職。
寺の周囲は依然として水に覆われていた。
この町に真っ先に入ったのが山梨県隊。
南アルプスで活動する全国指折りの救助隊だ。
海沿いは根こそぎ流され人影はない。
建物が多く残った内陸の集落に向かう。
ゴミが散らかってるから気を付けて。
はい大丈夫です。
機長もうちょっと高度下げても大丈夫ですよ。
了解しました。
とりあえず今降下してますからここで維持しときますね。
了解です。
降下率が増えちゃうと危ないから。
その調子です。
合図出ました。
はいゆっくりいきます。
到着まで3…2…はい1。
はい到着します。
OK。
お願いします。
地上に降りた隊員がつり上げを準備する3分ほどの間に次に救うべき人を捜す。
はい行きます。
救出の準備が整うと元の場所に戻ってつり上げる。
男性は寒さで衰弱していた。
死と隣り合わせの一夜を過ごした住民たち。
そんな事を思いましたね。
夕方までに49人を救助した山梨県隊。
だが長徳寺には手が届いていなかった。
寒さに倒れた男性と孫娘がもう一晩夜を越すのは危険だった。
佐藤住職はある行動に出た。
ちょっと分からんな。
OK。
はい降下開始。
午後4時31分。
屋根の上に書かれた「5人」という文字を発見。
そばには佐藤住職の姿も見えた。
つり上げられているのは3歳の孫娘。
はいだっこしてます。
そしてこのあと祖父も無事救出された。
地震発生の翌日。
宮城県で緊急消防援助隊のヘリが救出したのは650人。
一日でこれほど多くの人を救助したのは隊の発足以来初めての事だった。
だが隊員たちは歯がゆい思いを抱えていた。
もっと助けられたんじゃないのかと。
私たちが活動してる中で亡くなられた方もいらっしゃると考えた時にもっと効率のいいやり方はなかったのかなと。
思わぬ事に救助の時間を奪われていた。
燃料の補給だ。
国や県は4か所の空港を拠点にヘリの給油や整備を行い救助を進める事にしていた。
しかしそのうち3か所が水没。
重要な拠点が失われた。
給油のため往復1時間かけて県外の空港まで飛ばなければならなかった。
県は急いで現場近くに給油拠点を作ろうとした。
沿岸部に程近い総合運動公園。
ところがまた壁が立ちはだかった。
肝心の燃料を備蓄していた場所が水没し代わりの燃料の手配もすぐにはつかない。
朝から石巻で救助を続けていた熊本県隊。
日没が迫ってもまだ目の前には助けを求める人がいた。
夜は危険なため救助はできない。
燃料の供給体制が整ったのはこの2日後の事だった。
数十機のヘリが一斉に活動する大規模災害の現場。
救助活動に欠かせない給油や整備の体制をいかに維持するかが課題として浮かび上がった。
(サイレン)朝津波警報が注意報に切り替わり津波の水も引き始めていた。
この日から地上部隊の活動が本格化し始めた。
緊急消防援助隊の地上隊2,500人が最大の救助現場となった宮城県に入っていた。
全国から自衛隊や警察の地上部隊も駆けつけていた。
人海戦術で浸水域に残された建物から次々と住民を助け出した。
一方のヘリ部隊。
緊急消防援助隊には更に4機が加わった。
ほかの組織のヘリも特性を生かし救助に全力を挙げた。
自衛隊は複数の大型ヘリで学校などの避難所から大人数を一気に運び連日1,000人以上を救助。
地元宮城県警は土地勘を生かし迅速に現場を発見した。
海上保安庁のヘリは得意とする海で漂流した船から乗組員を救った。
その活動を支えていた人たちがいた。
どこだろう?水やがれきに囲まれ孤立した人々が自分より危険な状態にある人を先に助けてほしいとヘリに伝えていた。
13日に救助された人の数は宮城県で前日の倍近い1万人を超えた。
救われた人の数が最も多い一日となった。
ヘリ部隊の救助の方法が変化し始めていた。
サーチ&レスキューでは助けが必要な人を発見しにくくなっていた。
空から見て分かる範囲の救出をほとんど終えたからだ。
建物の中で動けない人がどれほどいるのかヘリからはうかがい知る事ができなかった。
このころからヘリと陸上の部隊の連携が救助の鍵になり始めた。
陸上部隊が助けを待つ人を見つけ出し機動力に優れたヘリに伝えて搬送する。
それが試された現場があった。
県北部気仙沼市。
海沿いの建物に孤立したままの人たちがいるという知らせが入った。
救出の要請を受けた地元消防の中隊長…14日午前9時。
10人の部隊を率いて徒歩で救出に向かった。
現場まで直線で1キロほど。
だが1時間過ぎても半分しか進めなかった。
出発から2時間後。
大津波が来るという情報が駆け巡った。
伊藤たちは建物の残骸の上に退避。
結局津波は来なかったが安全が確認できるまで1時間以上身動きがとれなかった。
ようやく現場に着いたのは出発から4時間後。
憔悴しきった80代の女性など3人がそこにいた。
担架に乗せ再びがれきを乗り越え戻らなければならない。
夜の移動は危険。
伊藤はなんとかヘリに応援を頼めないかと本部に訴えた。
だがヘリはなかなか来ない。
このころ通信手段が徐々に回復し始め救助や搬送の要請が宮城県の災害対策本部に殺到していた。
全国から集結したヘリの運航を統括していた…手が回りきらなかった。
ツイッターだったりフェイスブックだったり電話だったりあとはその他もろもろの情報が全ていろんな所から入ってくるのでヘリコプター要請に関する情報が集まり過ぎてそこがボトルネックとなってなかなか指示がしきれなかったというのがありました。
気仙沼の現場は間もなく日が暮れようとしていた。
伊藤たちがこの日の救助を諦めた頃上空に一機のヘリが現れた。
愛知県隊。
本部から指示を受け近くまで来たが現場を特定できない。
建物が軒並み流され地図も当てにならなかった。
伊藤たちの姿はがれきに紛れ確認できなかった。
陸上部隊と直接連絡を取り正確な位置を知りたかった。
しかし無線が役に立たなかった。
あまりに多くの部隊が無線を使ったため会話が入り乱れ聞き取りが難しかった。
無線が本当に輻輳しててどの無線が僕らに必要な情報なのかっていうのもなかなか分からない状態ですしヘリと隊員も実際僕らも無線でやるんですけどその周波数のものもいろんな所から入ってきてしまうので無線が輻輳するっていうのも活動障害にはなりましたし…。
直接連絡を取り合う手段がない中伊藤たちが屋上に飛び出し合図を送り続ける事でようやく発見された。
女性たちを搬送できたのは出動から6時間後の事だった。
実際我々はたどりついたけれども救出できなかったですしヘリの方も検索はほぼ難しい状態でしたので地上隊と航空隊の連携が今回の救助では功を奏したと思います。
全国から集まった異なる組織の部隊が空と陸でいかに連携するのか。
震災4日目を迎えた現場で浮かび上がった課題だ。
宮城県で3月14日までに助けられた人は県内全救出者の9割以上に及ぶ。
地震発生から72時間が経過した。
3月15日以降緊急消防援助隊のヘリの役割は大きく変化し始めた。
主な任務は病院間の患者の搬送や物資の輸送などになった。
だが陸上部隊は僅かな望みを託し捜索を続けていた。
(原科)下りれなくて。
愛知から駆けつけ宮城県の亘理町に入っていた原科享介。
まだ可能性はあると信じていた。
本当に針の穴を通すような確率の生存者なので生存できているんだったらどんな所に生存者として存在するかなっていうような事は考えながら捜してましたね。
3月20日の朝原科は建物の中などに人が取り残されていないかくまなく捜していた。
捜索を開始して40分。
民家の屋根に人の姿を見つけた。
亡くなっていたのは…地震のあと避難を始めたがその後行方が分からなくなっていた。
きみ子さんは空を向き手にあるものを握っていた。
(原科)手に携帯電話を握りしめてたんですよ。
携帯電話に何らかの望みを懸けてそこの上で待ってたのかなっていうような。
そんな状況も見受けられたのでこの人は確実に津波の被害からは逃れたんだなっていうふうに。
その上流れた漂流物にもしかしたら偶然乗る事ができてそこで助けを待ってたんじゃないかってそんな状況だったんですよね。
その手にあった携帯電話は今遺族のもとに戻っている。
やっぱりね4年近くたつんですけどもなるべく前向きにと思うんですけどもどうしても引っ掛かってる部分があるもんですから。
それはちょっとね。
何でっていう思いがずっとありますから。
もっと早く来れてればこの人は助けれたかもしれないなって正直に思いましたね。
もうちょっと何か作戦の方法とか現地へ着くたどりつくための僕ら自身が日頃の鍛え方がもうちょっとたくましくて水の上でもすぐさま行けるようなそういう状況ができてればもっと早くその人のところには行けたのかなっていうふうには思いました。
初めて全国規模で救助に動いた緊急消防援助隊。
その後3か月行方不明者の捜索などに当たり各地の消防へ帰還した。
今回緊急消防援助隊が投入したヘリは被災地全体で58機。
陸上を含めた総隊員数は3万684人。
そして救った人の数は5,064人。
隊の発足以来最大の救出活動が終わった。
あれから4年。
震災で79人を救い帰還した熊本県隊。
副隊長だった西村。
平時の現場に戻った今もあの時救えなかった命があった事を胸に刻んでいる。
あの現場でいろんな思いだったりいろんな活動をした中でこの手の中で多くの患者さんを救えたしでもまだまだやれたんじゃないかという気持ちもいつまでも忘れないようにとずっと持ってます。
またいつか必ずやって来る災害。
隊員たちは出動に備え訓練を続けている。
携帯電話を握っていた女性を見つけた愛知県隊の原科。
4年間もっと効率的な救助ができないか問い続けてきた。
(原科)人の命守るには早く助けに行く。
これに尽きます。
原科は災害対策技術の研究会に参加。
現場の経験を開発に役立ててもらおうとしている。
今原科が注目しているのが…災害後すぐに空中写真を撮影し災害前の画像データと比較。
被害の状況を解析し生存者のいる可能性がある場所を絞り込む技術だ。
昨年起きた広島の土砂災害でもこの地図が作成された。
津波の被災現場でも流された家屋のたまった先など人が多く取り残されていた場所があった。
その分布を地図で把握できれば優先して捜索すべき場所を割り出せる。
要救助者を救うとともに自分たちがなしえなかった事を実現させるための動きといいますか…。
一緒に考えようよっていうので輪を作っていきたいなって。
今度子どもです。
了解。
山梨県隊の武井。
地震が発生したその日のうちに現場までたどりつけなかった事を悔やんでいる。
夜雪による視界不良に阻まれ足止めを食っていた。
被災地まで飛び救助を始められていればより多くの命を救えたはずだ。
亘理町の寺から孤立した5人を救助したあの現場。
救う事ができなかった女性の事を今も忘れていない。
(武井)5名いるっていう事を確認して「1人亡くなっている人がいる」って言われてもし11日の日にそこに行ってたらもしかしたらこの人生きてたかもしれないって。
もう少し早く行けば助けられたんじゃないかっていう気持ちは今でもあります。
その思いをかなえる手段が今開発され始めている。
雪に視界を遮られてもヘリを飛ばせる仕組みだ。
位置や高度などを頼りに飛ぶ計器飛行。
専用のルートを整備し被災地に迅速に入る。
そして特殊なレーダーで夜雲があっても地上の詳細な画像を撮る技術。
熱を感知できる赤外線カメラの開発も進む。
暗闇の中助けを待つ人を救う事を目指している。
あの悔しさを二度と繰り返したくない。
東日本大震災。
全ての救助隊によって助けられた人は少なくとも2万7,577人。
犠牲になった人は1万8,480人。
史上最大の救出に身を投じた隊員たちは4年を経てなお命の現場に向き合い続けている。
2015/03/01(日) 21:00〜21:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「史上最大の救出〜震災・緊急消防援助隊の記録〜」[字]
震災直後、消防や自衛隊などによる救助活動を記録した未公開映像を独自に入手。見事な救出劇の一方で、救えなかった命の重み。映像を読み解き、次の災害への教訓を探る。
詳細情報
番組内容
震災直後、津波で1万人以上が孤立し最大の救助現場となった宮城県。自衛隊などと救助にあたったのが全国の消防に属する緊急消防援助隊だった。阪神・淡路大震災後に発足したこの隊が全国規模で動くのは史上初。見事な救出劇の一方で、津波による溺死を免れながら低体温症で亡くなった人など、救えなかった命もあったことを隊員たちは胸に刻んでいる。最前線を記録した未公開映像と隊員たちの証言から命を救うための教訓を探る。
出演者
【語り】松尾スズキ
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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