東京スカイツリーの開業以来観光客でにぎわう東京の下町
今から70年前ここは10万人もの命が一夜にして奪われた場所でした。
東京大空襲に代表される都市への無差別爆撃にはアメリカ軍の中でも否定的な意見がありました
「民間人に戦争を挑む事になる絨毯爆撃はかえって敵の抵抗を強めるおそれがある。
そもそも我が国の国家理念に反するのではないか」。
しかし日本への無差別爆撃は実行に移されたのです
戦後70年の今年間もなく3月10日の東京大空襲の日を迎えます。
今日の「NHKアーカイブス」は一般市民に多くの犠牲者を出しました都市への爆撃について考えてまいります。
ゲストご紹介致します。
作家の早乙女勝元さんです。
早乙女さんは12歳の時に東京大空襲を体験されました。
その空からの無差別の爆撃ですね。
はい。
どのようなものだったんでしょうか?あの日…あの時ですけどもおやじがどなるような声で「大変だ起きろ〜!」って言うんですよね。
目覚ました時には東西南北真っ赤っか。
「とにかく逃げるんだ」と言うんですね。
出たらもう突風に火の粉があおられて激流のような火の粉をかき分けていくという感じになってました。
ですから生きるも死ぬももう紙一重という感じでしたね。
そういう体験をされた訳なんですね。
また早乙女さんには番組ご覧になったあとお話を伺います。
よろしくお願い致します。
今日ご覧頂くのは…東京大空襲をはじめとする日本各地への爆撃がどのような判断で行われたのか。
克明に追った番組です。
(爆発音)無防備な都市の住民が爆撃の恐怖にさらされた第2次世界大戦。
世界で100万人を超える市民が空襲の犠牲となりました。
何にもその…手向かいも何にもしない。
何でそういう人間たちが殺されなきゃなんないのかなって。
今世紀に入ってなお空爆による市民の犠牲が後を絶ちません。
都市爆撃の原点となった60年前の戦争を人々は改めて問い直そうとしています。
一般市民を狙う爆撃は本当に許される行為だったのか。
最悪の都市爆撃とされるのが日本の66都市を焼き払った大空襲です。
アメリカ軍は倫理的な葛藤を抱えたまま事実上の無差別爆撃へと踏み切りました。
戦後60年。
新たな資料と証言から日本を焦土に変えた都市爆撃の全貌に迫ります。
(爆発音)1世紀に及ぶ機密資料が保管されています。
私たちは新たに見つかった第2次大戦中の資料から日本を焦土にした爆撃作戦の詳細を追う事にしました。
1945年3月10日の東京大空襲に始まり8月15日の終戦当日までの5か月に40万人もの市民が犠牲となった日本焦土作戦。
標的は都市の住民でした。
街を火の海にする空からの集中攻撃。
後のアメリカの戦争の基準となると記されていました。
日本全国の都市を撮影した膨大な偵察写真。
いずれも街の真ん中に奇妙な黄色の円が描かれています。
B29は半径1,200メートルのこの円の中に焼夷弾を全て投下するよう命令されていました。
ここに住む人々を目がけ5万発もの焼夷弾が降り注いだのです。
米軍資料から焦土作戦の実態が明らかになりました。
B29は北太平洋のサイパンテニアングアム3島から発進します。
日本まではおよそ2,400キロメートル。
7時間の飛行距離です。
硫黄島で針路を変更の後目標上空へと侵入します。
アメリカ軍の作戦記録。
「目標番号90−25KOBE。
攻撃目標は東海道線南北の人口密集地域。
各隊は複数のエリアで同時に攻撃せよ」。
6月5日530機のB29が神戸に襲いかかりました。
各目標エリアで発生した火の手は巨大火災となって市街地の56%を焼き尽くしました。
「目標番号90−17YOKOHAMA。
市街地は工業商業住宅地などを合わせた特徴を持つ。
ヨーロッパでは試せなかった攻撃となる」。
横浜には517機のB29が4波に分かれて侵入しました。
工業地や商業地などタイプの違う街がどのように燃えるかが関心の焦点でした。
「目標番号90−20の名古屋」。
人口密集地域を狙った爆撃は5回に及び毎回2,000トン余りの焼夷弾が投下されました。
大都市に続いて地方都市が破壊されました。
静岡では137機による夜間爆撃が行われました。
富山への攻撃は最も徹底的なものとなります。
市街地の破壊率は実に99%にも達しました。
攻撃対象としてリストアップされた都市は180に及んでいました。
地方都市の一つ一つまで市民もろとも焼き尽くそうという日本焦土作戦。
米軍資料はその詳細を克明に記録していました。
あの日に亡くなられた十何万の方。
あの光景は60年たっても70年たっても消える事はありません。
なぜ無防備な市民がこれほどまで殺されたのか。
空襲の被災地では米軍の資料公開をきっかけに改めて60年前の爆撃に対するやり場のない思いが広がっています。
目の前に焼夷弾がザザザ〜ッと雨のように落ちてくるんです。
私の下の妹がやはり…空襲に遭いまして…。
3月の東京と8月の富山2度の空襲を体験し肉親を失いました。
なぜ軍事目標もない地方の市街地が空襲されたのか。
中山さんはその理由を探ろうとしてきました。
1945年8月2日未明。
182機のB29が富山市街を襲いました。
2時間で3,000人近い市民が犠牲となりました。
当時中山さんは15歳。
東京大空襲に遭った後疎開で身を寄せた富山で再び悲劇に見舞われました。
避難するさなか幼い妹と母親のゆきさんを見失い翌朝2人の変わり果てた姿を目にしました。
顔の半分は真っ黒焦げで骨も焦げたような要するに目なんかいわゆる骸骨みたいな感じの骨のあれで死んでまして。
米軍資料の中から発見された…住宅密集地に設定され中山さんの家もその中に含まれていました。
外側にあった軍需工場は狙われる事なく市街地だけが徹底的に焼き払われていました。
この下で生身の人間がここで死んでってる最中なんだよね。
どうしても…何て言うんでしょうね…。
(中山)何にもその…手向かいも何にもしない。
何でそういう人間たちが殺されなきゃなんないのかなって。
一般市民が初めて都市爆撃の猛威にさらされた第2次世界大戦。
今年それに至る道筋を明らかにしようという動きがヨーロッパでも高まっています。
ドイツ東部の都市ドレスデンでは3万人近い市民が連合軍の爆撃の犠牲となりました。
ドレスデンへの空襲はドイツの敗北が決定的となったあとで実施されました。
当時街には避難民が流れ込み70万人があふれていたといいます。
(爆発音)最初の空襲から3時間後防空壕から出てきた人々に500機を超える第2波が襲いかかりました。
時間差をつけた攻撃が被害を大きくしました。
ナチスの加害責任の下に埋もれてきた市民の被害。
去年戦後初めて全国の歴史家と行政が一体となり空襲の実態調査が始まりました。
イギリス空軍に宛てたチャーチル首相からの極秘指令書が見つかりました。
「爆撃のねらいは市民を恐怖に陥れその士気を挫く事にある」。
事実上の無差別爆撃ともとれる内容でした。
第2次大戦はナチスとドイツ人が犯罪的な目的を持って始めた戦争でした。
ドイツ人が受けた攻撃はその当然の報いと承知しています。
しかし市民を狙った空襲は明らかに残酷ではないでしょうか。
なぜそのような事が起きたのか。
私たちはそれを知りたいだけなのです。
市民を戦争に巻き込んではならないというルールは第2次大戦以前から存在していました。
多くの国際規約が協議されてきたオランダ・ハーグ。
1922年この部屋に軍事大国だったイギリスやアメリカ日本など6か国の代表が集まり戦争のルールが話し合われました。
この時合意された空戦法規です。
「攻撃は軍事目標だけに限る。
市民を爆撃してはならない」。
無差別爆撃の禁止がはっきりとうたわれていました。
1930年代後半このルールを最初に2つの国が破りました。
ナチス・ドイツと日本です。
1937年ドイツ軍は新型爆撃機の威力を試すためスペイン北部の小都市ゲルニカを空襲しました。
町は3時間で壊滅。
死傷者の数は2,000人に上りました。
その3か月後日中戦争が勃発。
日本軍は長距離爆撃機による中国都市への空襲を開始します。
爆弾が市街地へ落下し重慶では1万人を超える人が犠牲になりました。
日本もドイツも市民を狙ったものではないと弁明しましたがアメリカをはじめ世界は無差別爆撃だと激しく非難しました。
しかし第2次大戦末期にはアメリカが史上最悪の都市爆撃といわれる日本焦土作戦に踏み切る事になります。
日本に対する焦土作戦はいつどのように計画されたのか。
当のアメリカでも検証が始まりました。
元空軍将校で戦略史の研究者ケネス・ウェレル博士。
ウェレル博士は第2次大戦の米軍爆撃戦略を研究しその行き過ぎを指摘してきました。
結果から見れば日本への爆撃は無差別だったというそしりは免れません。
アメリカ人が学ぶべきだったのは戦争というものは本来計画どおりにはいかぬ事。
むしろ計画より悪い方向に進むという事です。
第2次大戦における日本空襲はまさに当初の計画から大きく食い違っていったケースでした。
日本焦土作戦への出発点は1944年9月ペンタゴンの一室で開かれた戦略分析委員会でした。
大規模な爆撃によって戦争を決着させようという前例のない試み。
委員会には軍の幹部のほか科学経済心理学などさまざまな専門家が集められていました。
「どの攻撃目標を優先するかは我が国がいかなる戦争を意図するかによります。
もし長期の地上戦も視野に入れるならば日本の鉄鋼業を潰しておくべきです」。
「確かにこれまでは日本との長期戦を想定してきました。
しかし今や戦争をより短期化する戦略を考えるべきでしょう」。
空軍の参謀は日本の防衛力の壊滅が先決だと主張しました。
「私は航空機工場こそ最も重要な攻撃目標だと確信している。
ドイツでも航空機産業をたたいた結果上陸侵攻が早まった。
日本も同じはずだ」。
この時期太平洋ではまさにアメリカの爆撃作戦が実現しつつありました。
44年夏サイパンに続いてグアムテニアンを占領したアメリカ軍はそこに巨大な飛行場を建設します。
新型の長距離爆撃機B29で11月には日本への直接攻撃を開始する事が決められました。
攻撃開始まで残り2か月。
戦略分析委員会では後の焦土作戦へつながる議論が提起されます。
「結局問題はジャップにどんな戦争を仕掛けるかです。
日本の消耗を早めるなら6大都市への絨毯爆撃こそ有効でしょう。
ドイツの都市より燃えやすくはるかに効果的だと推測されます」。
都市への…それは目標を限定する事なくその地域を丸ごと破壊するもので事実上ハーグの空戦法規で禁じられた無差別攻撃でした。
しかしアメリカ軍がヨーロッパ戦線で実戦していたのは精密爆撃という手法で軍事目標だけを破壊するものでした。
空軍は国際ルールを逸脱する事になる絨毯爆撃には批判的でした。
「我々は相手国民を殺したいのではなく自ら降伏するようしむけるべきなのだ。
民間人に戦争を挑む事になる絨毯爆撃はかえって敵の抵抗を強めるおそれがある。
そもそも我が国の国家理念に反するのではないか」。
絨毯爆撃を巡って議論は空軍全体に広がっていきました。
ハロー。
アイムガイ・ヒューズ。
ナイストゥミートユー。
ガイ・ヒューズさんの父親は戦時中航空作戦の立案に関わっていました。
航空軍情報部大佐リチャード・ヒューズ。
絨毯爆撃に反対した一人です。
(ガイ)私の父は絨毯爆撃はいわば邪道で野蛮な行為だと考えていました。
目的さえ正しければどんな手段を使っても構わないという考えには反対でした。
ヒューズ大佐が軍の上層部に提出した意見書が残っています。
「アメリカは世界に率先して人道とは何かを追求してきました。
たとえ日本人が捕虜を処刑しようとも私たちが同じ事をしてはならないのです。
これまでどおり攻撃は軍事目標に限定すべきです」。
この意見は空軍内に波紋を広げ翌日には反論が出されています。
「アメリカ国民は無益な人殺しなどしたくはない。
敵とはいえ民間人の苦痛を考えると気が沈む。
しかし戦争それ自体が非道なのだ。
残虐な敵に対しいつまでもフェアルールにこだわる必要があるのだろうか」。
アメリカで激しい議論が交わされていた頃日本では空襲への準備が始まっていました。
国民は隣組への参加を義務づけられ工場の近くでは熱心な消火訓練が繰り返されました。
しかし数か月後にはその想定の甘さを思い知る事になります。
日本への爆撃方針を巡って揺れるアメリカ軍。
しかし既にヨーロッパではハーグの戦争ルールは崩れだしていました。
ヨーロッパの爆撃戦の主役となったのはイギリス空軍でした。
当初はイギリスドイツ両軍とも精密爆撃を試みていました。
しかしドイツ側の誤爆をきっかけに絨毯爆撃の応酬が始まります。
(サイレン)
(爆発音)大々的な爆撃を仕掛けたのはドイツでした。
イギリス側の死者は初めの1年で4万人を超えました。
イギリスは爆撃隊を増強し反撃を開始します。
ケルンエッセンハンブルクなどの都市が報復として次々と爆撃されました。
犠牲者はハンブルクだけで3万5,000人。
ほとんどが一般市民でした。
イギリスは市民ではなく軍事目標に対する爆撃だと説明してきました。
しかし軍の方針を決定づけた内部資料が公表され新たな波紋を広げています。
一人の物理学者から首相のチャーチルに送られた提言。
「ドイツの58都市を絨毯爆撃し2,000万人の家を奪えば市民の士気は挫かれ戦争は早期決着する」というものでした。
空軍内部の疑念を退けチャーチルはこの提言を受け入れたのです。
あれは市民を狙った爆撃だったのか。
重い問いが個々の兵士にのしかかっています。
イギリス第10爆撃隊の航法士としてドイツ爆撃に参加したハロルド・ナッシュさん。
1943年から延べ13回の作戦に参加しました。
炎がきらきらと光ってまるで黒い布にダイヤモンドをまいたようでした。
人がそこにいるとは思ってもいませんでした。
私たちは人間を標的にしていたのではなく照明弾の明かりを狙ったのです。
地上からの距離が私たちの感覚をまひさせていたのです。
ナッシュさんは13回目の出撃の時ハノーバー上空で撃墜され捕虜となりました。
連行される列車の中から絨毯爆撃の現実を初めて目の当たりにします。
(ナッシュ)何マイルも続く廃虚でした。
見えているのは人の足だろうか手だろうか。
私は恥ずかしくなりました。
列車の中で黒い服を着た3人の女性と一緒になりました。
兄弟か息子父親を亡くしたのか喪に服していました。
突然その一人がかばんの中からパンを1切れ私に差し出しました。
私はハッとしました。
私はこの女性を殺そうとしたのだ。
この人とヒトラーに一体どんな関係があるというのか。
このような慈悲深い人々をどうして私は殺そうとしたのか。
ナッシュさんの葛藤は60年の時を超え更に深まっています。
絨毯爆撃の犠牲となったドイツの市民は30万人以上に上りました。
イギリスはアメリカにも絨毯爆撃への参加を要請します。
しかし精密爆撃を貫くアメリカはこれを拒否していました。
一方の太平洋戦線。
アメリカ軍は日本軍との戦いにひときわ過酷な姿勢で臨んでいました。
降伏を拒否する日本軍の常軌を逸した戦いぶりに加えアジアにおける残虐行為の情報が影響を与えていました。
対日戦の早期終結への道を探り爆撃開始を目前にして戦略分析委員会ではこれまで邪道としてきた絨毯爆撃がにわかに現実味を帯びてきました。
「ご意見を伺いたいのですが絨毯爆撃によって日本政府の統治能力を崩壊させ日本人の士気を挫く事はどの程度可能でしょうか」。
「日本人は確かに並外れて勇敢な側面を持っているがパニックになりやすい。
私は日本人の精神的支柱である東京横浜大阪を地獄と化し混乱を作り出すべきと考えている。
日本の都市は火災にもろく日本人は火を恐れている。
一旦攻撃したあと避難民が戻ろうとしたところを再び狙えば彼らの恐怖心は更に増すはずだ」。
「それで日本の陸軍や海軍まで降伏するでしょうか」。
「1度では無理だろう。
2度3度と繰り返すうちに争乱が起こる。
政府への不満勢力が生まれ政治的な分裂につながるはずだ」。
一方空軍の現地部隊からはなおも国際ルールを守るべきだとする意見が相次ぎました。
「絨毯爆撃を実行すれば我々はナチスが言ってきたとおりの野蛮人だったと証明する事になろう。
民間人を狙う攻撃となる事は明らかで犠牲者の95%が一般市民となる」。
「装いを変えて繰り返し提案されてくるがどれも功名心にはやった心理学者たちの殺りく計画にすぎないではないか」。
攻撃開始を翌月に控えた10月半ば。
戦略分析委員会がまとめた対日爆撃の方針です。
優先目標は航空機産業および絨毯爆撃を想定した工業市街地。
精密爆撃と絨毯爆撃2つが両論併記されたまま攻撃開始の日を迎える事になりました。
日本爆撃という重責を担う事になったのはヨーロッパ戦線で名をはせた2人の指揮官でした。
中国・成都基地の司令官にはカーチス・ルメイ少将。
中国大陸や九州の日本軍基地への攻撃を担当します。
本土攻撃の主軸となるマリアナ基地の司令官はヘイウッド・ハンセル准将。
精密爆撃の権威で市民を巻き込む無差別爆撃には否定的でした。
精密爆撃か絨毯爆撃か…。
空軍はその選択をまずはハンセルの手腕にかけました。
11月末100機を超えるB29が集結。
日本爆撃が始まりました。
第一目標は東京の中島飛行機製作所でした。
しかしハンセルの攻撃は失敗します。
これは中島飛行機製作所を爆撃した時の映像です。
画面左下爆弾は工場と全く違う場所に落ちていました。
11月27日。
12月3日13日。
作戦は期待した成果を上げられませんでした。
爆撃の障害となったのは日本上空のジェット気流でした。
日本での精密爆撃を軌道に乗せるには時間が必要と判断されました。
この直後空軍内部に異変が起こりました。
精密爆撃を見限るべきだという声が一気に強まったのです。
B29の大量生産がその背景にありました。
30億ドルもの開発費をかけたB29を空軍は2,000機も発注していました。
一刻も早くこの爆撃機で成果を上げねばならないという重圧がかかっていたのです。
それに拍車をかけたのがもう一つの新兵器でした。
兵器開発局が石油会社と共同開発した…ゼリー状のガソリンを詰めた小爆弾が辺り一帯にばらまかれ広い範囲を焼き尽くします。
日本軍の中国での焼夷弾攻撃などを参考に開発され日本の都市に使用すれば住民の60%を殺傷するという強力兵器でした。
開発者はこの焼夷弾が6,000トンもあれば日本の6大都市を壊滅させ戦争終結を早める事ができると主張しました。
B29と新型焼夷弾。
2つの新兵器はワシントンの絨毯爆撃支持者たちを勢いづかせました。
市民の命を奪う爆撃に大義はあったのか。
60年前のアメリカ空軍に生じた葛藤は今に至るまで重い課題としてのしかかっています。
私たちが望んだのは兵器や飛行機の工場を精密爆撃で破壊し日本の戦争継続能力を奪う事でした。
決して市民を殺したかった訳ではありません。
日本人は我々にとって本当に手ごわい敵でした。
やっかいで執ような敵でした。
日本の市民には本当に同情します。
しかし私たちの憎しみはとても深かったのです。
攻撃開始から3週間。
ハンセルは絨毯爆撃へと傾くワシントンに警戒感を抱き意見書を送っています。
「我々が取り組むべきは精密爆撃であると今も信じています。
そこに本質があり何より確実な方法なのです」。
空軍内部でも最後の抵抗が試みられていました。
それは将来の戦争の在り方を問うものでした。
「私たち空軍は相手の国民が全て家を失い流浪の民となる事を本当に望むのでしょうか。
戦後の復興もできないほどに追い込む事を望むのでしょうか。
航空兵器の持つ威力を見定めるべき時に責任ある者が根源的な問いに目をつむってひたすら突き進んでよいのでしょうか」。
状況は絨毯爆撃に反対していた父にとって難しくなっていきました。
最初はまっとうだった人まで意見を変え数の上でも劣勢となっていきました。
やがて父は重要な話し合いの場から外されました。
正論を語る声を人々は邪魔と感じるようになったのです。
そうした人が軍の中で昇進していったと父は話していました。
ハンセルが直訴してから3日後。
空軍司令部から決定的な指令が届きました。
「名古屋の市街地に対して焼夷弾爆撃を実行せよ」。
まさに絨毯爆撃への変更を指示するものでした。
ハンセルは即座に司令部に返電しています。
「目標を確実に捉える精密爆撃にこそ爆撃の理念があるのです。
もしここで絨毯爆撃に変更すれば過去アメリカが積み上げてきた信頼は地に落ちる事となるでしょう」。
しかしハンセルが電文を送った同じ日ワシントンにもう一つの情報がもたらされていました。
中国の成都基地から飛び立った84機のB29が漢口の日本軍基地を焼夷弾で絨毯爆撃し日本人街もろとも焼き払ったのです。
この戦果はワシントンに焼夷弾の威力を確信させるものでした。
漢口攻撃には6年前の日本軍の重慶爆撃を間近に見たアメリカ軍将校の助言が生かされていました。
絨毯爆撃を指揮したのは…焼夷弾の効果を知りたいと望むワシントンの期待に応えた結果でした。
「爆弾を落とす者はさまざまな想像を思い巡らすだろう。
眠っている子どもががれきに押し潰されたり3歳の少女が炎に包まれお母さんと悲しい目で泣き叫んだりする光景にさいなまれるかもしれない。
しかし国家が望む任務を全うしたいのならそうした事は一切忘れるしかないのだ」。
追い詰められたハンセルは12月22日27日と司令部の指示を無視して精密爆撃を行います。
しかしまたしても攻撃は失敗。
それはハンセルにとって致命的となりました。
1月ワシントンの空軍司令部はハンセルの解任を決定しました。
後任となったのはカーチス・ルメイ。
漢口への焼夷弾攻撃で一気に評価を上げた結果でした。
マリアナ基地の作戦将校だったコリン・ライネックさん。
ハンセルを最後まで補佐しました。
ハンセル将軍の意見は正しかった。
しかし爆弾は当たっていませんでした。
結局我々に弁解の機会は与えられませんでした。
一方ルメイは現実主義者でした。
自分が何を望まれているかよく分かっていました。
マリアナの部隊を引き継いだルメイに司令部から正式命令が下りました。
「日本の都市に対する焼夷弾作戦の詳細は貴官の責任において具体化せよ」。
絨毯爆撃への転換を確認するものでした。
国際ルールとの兼ね合いはどうするのか。
ワシントンの空軍司令部は対処を迫られる事になります。
ルメイへの指令の翌日ドイツのドレスデンに対し英米軍共同での大規模な絨毯爆撃が実施されました。
無差別攻撃と報じるメディアにアメリカ軍は極秘で説明方針を取り決めました。
2月下旬司令部から絨毯爆撃の指示を受けたルメイは具体的な実行計画に取りかかります。
日本の都市に爆撃目標エリアを選定する作業が始まりました。
人口密度が高い地域はどこか。
そこを焼き尽くすのにどれだけの焼夷弾が必要か。
都市の密集地区を完全に焼き払う空前の焦土作戦でした。
ルメイは作戦文書にこう付け加えています。
「これは市民に対する無差別爆撃ではない。
重要産業戦略目標への攻撃である」。
歴史を変える3月9日。
300機を超えるB29が東京へ向けて発進準備を終えました。
用意された新型焼夷弾。
焦土作戦の開始です。
日本側に対策を立てる間を与えぬため徹底的な集中攻撃となりました。
東京名古屋大阪神戸。
10日間で連続的に300機の大編隊が襲いかかりました。
「短期間に6大都市を焼き払えば必ず大混乱が起こり戦局は決するはずである。
遠からず内部から降伏を求める声が沸き起こるであろう」。
ルメイは戦略分析委員会での議論を具体的に実行に移していきました。
10日間で1万トンの焼夷弾が降り注ぎました。
6大都市さえ潰せば日本が降伏すると読んだアメリカ軍。
しかし多大な犠牲にもかかわらず日本は徹底抗戦の姿勢を崩しませんでした。
6大都市に焼き払う標的はもはや残されていませんでした。
しかし前線には膨大な数の飛行機が送り込まれてきます。
ルメイは確実な勝利のためには更にほかの都市も焼き尽くすしかないと考えるようになったのです。
新たな攻撃目標がリストアップされました。
めぼしい軍事目標の存在しない地方都市です。
増強された1,000機近いB29で人々が逃れた疎開先も攻撃する計画でした。
6月17日地方都市への爆撃が始まりました。
都会から焼け出された人々に再びB29が襲いかかります。
1晩で4都市ずつが焼き払われていきました。
7月空軍司令部にある調査報告が寄せられました。
ドイツ爆撃を分析した結果は日本に対する絨毯爆撃に疑問を投げかけるものでした。
「絨毯爆撃は軍需産業への打撃とはならず戦争終結に決定的な影響を持たない。
最優先目標から外すべきである」。
しかし航空機や焼夷弾兵員など絨毯爆撃を軸に膨れ上がったシステムを変更する事は現実的には困難でした。
攻撃は更に大きく過酷なものとなって市民の頭上に降り注いだのです。
8月6日9日。
B29が2つの都市に原子爆弾を投下しました。
この6日後戦争は終わりました。
アメリカ軍のリストにあった180都市のうち66都市が焦土となっていました。
しかし戦後都市への爆撃が無差別殺りくだったのかどうか連合国側枢軸国側とも問われる事はありませんでした。
戦後60年アメリカは爆撃が戦争を早期終結に導いたとしてきました。
しかし市民を巻き込む戦いに疑問の声が上がり始めています。
戦争が長引けば苦しみも続くだから更に恐ろしい手段を使って早く終わらせる。
果たしてこれは人道的な考え方でしょうか。
戦争で何が正しいかを口にするのはむなしい事です。
効率を優先するあまりその時は合理的だと思えた判断がかえって多くの命を奪う事もあるのです。
富山の空襲で母親と妹を亡くした…あの日から60年母親の死の意味3,000人の市民が犠牲になった意味を探し続けてきました。
母親にも妹にも…安らかにって口では言っても本当に安らかに眠れたんだろうかって。
もうそれはとてもある意味でそうは思えないですね。
もう断ち切られたんですから。
どうしてっていう事はずっと付いて回るんじゃないかなと思いますよね。
イギリス空軍の爆撃隊員としてドイツ攻撃に参加した…かつて空襲を体験したドイツの市民と対話を試みています。
私はドイツを爆撃した結果罪を負い赦しを求めています。
彼らも罪を負い赦しを求めています。
赦しとは何でしょうか。
過去を忘れてしまう事でしょうか。
いや違います。
過去と向き合う事にしか私たちの道はないのです。
空からの攻撃は空軍将校たちが予測したとおりその後の戦争の主役となりました。
市民の犠牲の前に攻撃は軍事目標だったという釈明が繰り返されました。
今改めて都市爆撃の正当性を問う声が世界中から上がっています。
無防備な市民を襲う空からの脅威。
世界は何を学んだのか。
60年前の戦争は今もそれを問いかけています。
早乙女さんはどのような点に注目されましたでしょうか?アメリカ軍の上層部に国際法を考慮してでしょうか。
実は無差別爆撃に至る道筋にさまざまなう余曲折があったという事なんですね。
上層部の無差別爆撃を批判する意見というのはかなり複数の人たちから出てるでしょ?はい。
大抵の場合は軍人っていうのはそういう時に思考停止のロボットになっちゃうんですけどもそうではなかったという事が分かり空襲の体験者としてはちょっとね救いをもらったような気が致します。
でも裏を返せば本当に個人の中では倫理観があっても大きなシステムといいましょうか国家利益ですよね。
その前にはやはりそれは封印されてしまったと。
まあその段階で問われるのはやっぱり想像力と言ったらいいでしょうか。
それはイギリスの兵の…。
ナッシュさん?ナッシュさんがさ移送されていく途中に列車の中でドイツの女性たちに会う訳ですね。
俺はこの人たちを殺そうとしてたんだという事が初めてその時分かる訳ですね。
だから空襲下における痛みといいますかうめきといいますか悲しみといいますか…それを初めて知ったというシーンはなかなかいいシーンだなと思って私もちょっと胸が熱くなりました。
21世紀に入って15年たつ訳ですけどもいまだに市民への空爆誤爆も含めてある訳ですけれども今この番組が私たちに問いかけているものといいましょうかそれはどういう事だと思いますか?やっぱり今現在も空襲空爆はもっと合理的な科学的なやり方で行われてますよ。
アフガンから始まってそれからイラクもそうですけどもいわゆる無人機攻撃ですね。
だからその痛みとかうめきとか悲しみとかっていうのがどんどん軽薄化してるという現実ですよ。
…でそれは結局のところ無人機攻撃の場合はなくなっちゃう訳ですね。
それがとてもこれからの世界にとって危惧すべき事のように私には思われます。
本当にまあ今年戦後70年ですけれども改めて今早乙女さんが伝えたい事どういう事でしょう?それはねこれまでずっと私はメッセージを送ってきたんですけども「知っているなら伝えよう。
知らないなら学ぼう」と言ってきたんですが伝えようという方はもう大変ご高齢でまあ私も例外じゃありませんけどもう時間がないんですね。
そうするというと「知らないなら学ぼう」という事がこれからの時代に特に大事になってくると思います。
ですからこの映像を含むところの歴史の事実と向き合ってそしてそこから世界の有り様を自分の生き方を問い直す事が問われているんではないのでしょうか。
平和は歩いてきてくれないんだという気がしてなりません。
そういう意味で過去の歴史の事実を今きちんと知る学ぶという事が恐らく戦争への道のブレーキになるかなという気がしみじみとしますね。
学ぶ事がブレーキになる。
そして平和は歩いてこないという事…。
はい。
今日はどうもありがとうございました。
今日は早乙女勝元さんと共にお伝え致しました。
(テーマ音楽)2015/03/01(日) 15:05〜16:10
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「戦後70年 東京大空襲はなぜ行われたか」[字]
東京大空襲から70年。市民に対する無差別爆撃について米軍内部でもその是非をめぐって議論が交わされていた。無差別爆撃はなぜ実施されたのか、その教訓は何かを考える。
詳細情報
番組内容
【ゲスト】作家…早乙女勝元,【キャスター】桜井洋子
出演者
【ゲスト】作家…早乙女勝元,【キャスター】桜井洋子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
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