(鳴き声)東日本大震災から3年と4か月が過ぎました。
しかし原発事故によって復旧を阻まれてきた福島県の沿岸部はいまだに津波の爪痕をさらしたままです。
時が止まってしまったかのような福島。
今震災関連の自殺が増えています。
内閣府自殺対策推進室による震災関連自殺の集計です。
この3年間を見ると岩手宮城に比べて福島の増加傾向が顕著です。
2011年10人。
2012年13人。
2013年23人と増加の一途をたどっています。
相馬市のクリニックで被災者と向き合う精神科医蟻塚亮二さんです。
ここに来られた方で別にうつ病って診断もつかないし単なる不眠だっていう人がいてね。
私たまたま聞いてみたんだけど。
「もしかして死にたいなんて思った事ありますか?」って聞いたら「あるんだ」って。
そういう人がとっても多いんです。
震災に原発事故が重なった福島。
なぜ多くの人が自ら命を絶っているのでしょうか?五十崎栄子さんは浪江町から避難し二本松市で暮らしています。
この日故郷の墓を参りました。
栄子さんの夫喜一さんは2011年7月自ら命を絶ちました。
享年67。
原発事故から4か月後の事でした。
放射能に汚染された浪江町には容易に入る事ができず喜一さんの遺骨を納骨したのは去年7月の事でした。
浪江に帰りたくて帰りたくていたから…だからね。
まあお骨になって浪江に帰るようにはなっちゃったけど。
まあこうやって帰ってきただけでもいいのかなって。
これいつもおとうさん飲んでたコーヒー。
決まったコーヒーしか飲まなかったから。
ねえ。
喜一さんと栄子さんが暮らした町は福島第一原発からおよそ8km。
今も避難指示が出たままです。
この家には喜一さん栄子さん夫妻喜一さんの母そして夫妻の孫が一緒に暮らしていました。
孫は35歳で亡くなった長男の息子でした。
近所には次男家族それに喜一さんの妹と弟の家族も暮らしていました。
ここには祖父母の代から続く時間と子どもたちの未来につながる時間が流れていました。
(取材者)これはお仕事されていた頃からのですかね?そう。
よく何か集まりあったりとかなんかするとよく着てたのがやっぱりね。
その時期その時期ありますけど。
これとこれをよく着てたんですよね。
お気に入りだったもの?うん。
これですね作業服は。
喜一さんは福島第二原発の資材管理を請け負う会社に勤めていました。
制服だったんですけど。
65歳で仕事を辞めてからは看護師として働く栄子さんを支えていました。
これなんかだってね震災の時の3.11のままなんですよ。
私がお昼に戻ってきてお昼ごはん食べるじゃないですか。
それをおとうさんが準備しててくれてそのままなの。
ここんとこにあるのは全部おとうさんの釣り道具です。
喜一さんは釣りが趣味でした。
避難する前散乱した釣り道具だけは戻った時にすぐ使えるように元の場所に戻していました。
釣り仲間と撮った写真です。
大会の前は遠足の時の子どものように眠れませんでした。
夜中から港に行って車の中で仲間が来るのを待っていたそうです。
だからいつもお盆になると毎年子どもたちとか兄弟集まっておとうさんが釣ってきた魚とかあとは川で釣った鮎とかそういうのでバーベキュー庭でやってたんですよ。
お盆は毎年決まって。
喜一さんが子どもの頃から親しんだ浪江の海です。
家族親類仲間たちに囲まれた平凡でも穏やかな日々。
原発事故はその全てを奪いました。
「あの煙突の下では今やどんな事になってるの?」みたいな。
3月12日朝浪江町の住民に避難命令が出ました。
栄子さんと喜一さんは母や孫兄弟家族と共に浪江町北西部の津島地区に逃れました。
たどりついた小学校の校庭は避難してきた人たちの車でいっぱいでした。
体育館での不安な夜。
喜一さんは小さな子どもたちのために奔走しました。
「子どもら腹減った腹減ったって騒いでんのにそんなんやったらこんなお握り1つ2つでどう間に合うんだ?とか言ってきた!」とか言って。
津島も安全な場所ではありませんでした。
13日栄子さんたちは郡山に向かいました。
これですかね?これが体育館ですね。
落ち着いたのは市内の高校の体育館でした。
3月13日の…そうだね。
3月13日の夕方にここの体育館に入って4月13日までちょうど1か月いたんですけど。
栄子さんたちが入った3月13日の映像が残っています。
既に支援物資の搬入が始まっていました。
喜一さんは当初は家族の食事を受け取りに行ったり周辺を散歩したりそれまでどおりの様子でした。
変わり始めたのは1週間が過ぎた頃でした。
原発事故は最悪の事態に陥っていました。
夜は休まれてたんですか?休むっていうよりもストーブのそばに椅子を2つ合わせてそこにもたれかかるようにして脚伸ばしているっていう方が多かったんですね。
布団にも入らないで?はい。
「お布団に寝たら?」って言っても「後で後で」って言って結局寝てなかった方が多かったですね。
原発に何かが起こったらばもう駄目だぞっていうのはそれは生前から言ってたので。
事故の前から?はい。
だからそういう事が分かってたからなおさらの事浪江にもう帰れなくなったというのがあって。
もうばあちゃんとおとうさんはやっぱり毎日のように「浪江に帰りたいな」って。
ばあちゃんはばあちゃんで「いつになったら浪江に帰れんだ?」って。
でそれが一日何回も言うしね。
だからおとうさんも苛立ってくると「俺だけでももう浪江に帰るから!」。
4月半ば郡山の避難所は閉鎖され栄子さんたちは二本松市内にアパートを借りました。
そのころから母シズイさんに異変が生じました。
避難生活の中で認知症を発症。
ほどなく徘徊が始まりました。
母の発病孫の進路浪江の家のローン。
喜一さんは頭の中がいっぱいいっぱいの様子だったといいます。
最初は少しはよかったのね。
何となく落ち着いた気持ちがあるのかなっては思ってましたけどそのうちほらばあちゃんがいなくなったりとか保護されたりとかってなってきたらもうまたそこからおとうさんは沈み込み始まって。
部屋の中にいる時はほとんど横になってテレビをつけっ放しで。
テレビも原発の事故の事しかやってないじゃないですか。
だから目つぶってるから寝てるのかなと思って私はテレビ消そうかなと思うと「消すな」。
だから多分見てはいなくとも聞いてはいたんだと思うんですね。
テレビつけっ放しでいるという事は。
終わりが見えない沈鬱な日々。
そんな中でも喜一さんが元気を取り戻す時がありました。
小澤是寛さんは6月下旬のある日喜一さんと一緒に新潟に釣り旅行に行きました。
浪江の釣り仲間たちが一緒でした。
浪江の海で撮った写真です。
仲間たちは各地にばらばらになっていました。
あの時は原発の事故の話避難先はどこに避難してるぐらいの話でもう皆さん思い出したくもないというせめてこの一日だけでも思い出したくないという気持ちであったと思います。
仮設に落ち着くとかどこに落ち着くとかいう問題で。
ましてや家族もばらばらになってるという事聞いてますのでまあこういう事態は発生するだろうなという事は私はうすうす感じてました。
ただこれだけ楽しんでいる仲間の五十崎さんがまさかこういう道を選んでしまうとは夢にも思わなかったです。
7月10日高校で野球部だった孫の最後の試合がありました。
本当に初めて先発で。
喜一さんは孫が小学生の時から野球の試合には必ず足を運び応援していました。
しかし最後の晴れ舞台の日喜一さんは「俺はいいよ」と腰を上げようとしませんでした。
おとうさんはあんまりすぐれない表情だったんだけどやっぱり一緒に最後の野球だからっていうので行こうって言って連れてきたんですけど。
でも連れてきてもやっぱり…。
うちらは同じお母さん同士でこの辺にいても何かおとうさんはそっちの方に行ったりあっちの方に行ったりウロウロしていたんですけど。
いつもと違った?う〜ん…。
先発投手を務めた孫は9回を投げきりチームは勝ちました。
だからおとうさんにとっても子どもにとっても最後のいい思い出にはなったんじゃないですかね。
その2週間後にさそういう形になるなんて誰も思ってなかったし。
7月23日朝6時ごろ栄子さんは隣の寝床に喜一さんがいない事に気が付きました。
散歩にでも行ったのだろうと思いました。
喜一さんは夕方になっても帰りませんでした。
携帯電話が食卓の下に置かれたままでした。
栄子さんは捜索願いを出しました。
警察から飯舘村のダム湖付近で遺体発見の電話が入ったのは翌24日早朝の事でした。
月命日のこの日栄子さんは喜一さんの妹と一緒に現場を訪ねました。
この辺だったよね?だから今車運転しながらおとうさんここの道走ってきたんだよねって。
でも何を考えて走ってきたのかなって今話してたとこだったんですけど全然見当つかないですね。
「なぜここで?」っていうのが。
福島県相馬市に被災者の心の健康を支えるために作られたクリニックがあります。
精神科医蟻塚亮二さんは2013年4月から診察に当たってきました。
原発事故の影響の大きさを痛感しています。
つらいけども目の前で津波で破壊されてしまったんだったらなんとかしてまた家建てようかとか借りようとかって考えつくけども家残ってる訳だから。
やっぱりそこに帰りたいという気持ちもあってだけど帰れない。
しかも帰れないんじゃなくていつか帰れるかのようなニュアンスで政府も言う訳だね。
だけど実際は放射能高いと。
なかなか帰れない。
だから帰れないんだったら「帰れない」と言ってもらった方がいいんですよね。
だけど帰れるかも分かんない。
でも帰れないって。
この緊張関係っていうのがつらいですね。
曖昧な喪失っていうのがね。
で住居っていうのは人間の心が安定するための基盤だから。
だからあっち転々こっち転々というの避難してるって事は自分のよりどころがなくなるんですね気持ちの。
人と人のかみ合った関係にならないんですよ。
そういうはかなさ。
人に支えられてないっていう感じ。
それがやっぱり人のメンタルな抵抗力を弱くしますね。
それはやっぱり死ぬ自殺に近づくと思います。
夫を失ってから1年と2か月。
五十崎栄子さんは夫の自殺の原因は原発事故にあるとし東京電力に損害賠償を求める裁判を起こしました。
相次ぐ自殺が栄子さんの背中を押していました。
裁判を起こす3か月前にはよく行っていた浪江町のスーパーマーケットの店主が自殺していました。
避難先から妻と一緒に一時帰宅した時ふっと姿を消し翌日近くで首をつっているのが発見されたのです。
またこういう犠牲者が出てるのかみたいな。
でも何かそういう人の気持ちって分かるような気がしますね。
自分の夫がこうなったからっていうのもあるかもしれないけどでもやっぱりもともと浪江で生まれ育った人だったら分かるような気がしますね。
帰れないっていうのもあるし自分たちの生活設計だってあるし。
そういう事に悲観したって私は思いますけど。
どうしようもない孤独。
抑えようのない怒り。
胸をよぎる自殺。
「いのちの電話」は相談者の悩みや苦しみに耳を傾けています。
「福島いのちの電話」では震災原発事故の影響を把握するために相談内容の分析を続けてきました。
震災や原発事故関係の相談内容の内訳を2011年度と2012年度で比較しています。
どの項目も大きな変化はなく心理的不安・心の病を訴える相談は減っています。
(渡部)震災の直後はやはりどうしても心理的な不安というのが高まってた時期だと思うんですよね。
それが一定の落ち着きを取り戻したという事を反映はしてると思うんですけれども。
やはり相談の中身を一つ一つ見ていきますとね深刻なものも増えてきてますから件数だけではなかなか判断できないのかなとそんなふうに思ってますけどもね。
生きがい・人生観・社会観に関する相談件数を見てみます。
2011年度と2012年度で差はありません。
この項目を更に細かく分けて集計したものです。
自殺念慮つまり自殺を考えるという声が倍以上に増えていました。
喪失感孤独を訴える声も大幅に増加していました。
震災の直後は「人のつながりを感じた」。
「改めて命の大切さを実感した」。
そんな前向きの話もありましたけれども時間の経過とともにですね「絆って聞くと腹が立つ」とか「孤独だ」「死にたい」。
そういう否定的あるいは悲観的な声が増えてきているのかなというふうに感じますね。
いろんな障害があると思うんですね。
ですから何か絆という言葉でいかにも復興が進んでいるんだという事に対して少し腹が立つと。
・はい「福島いのちの電話」です。
原発事故関連の相談は年々通話時間が長くなっています。
2011年度の平均は29分でしたが2012年度では46分に延びています。
悩みや苦悩が複雑化深刻化している表れだと考えられています。
苦しみ続けている人たちがすがるように受話器を握りしめています。
去年2年ちょっと過ぎた段階で最初「仮設は2年」って言われて自分たちは入ったんだと。
それが2年過ぎて3年目になったからもう限界だっていうのが去年の4月5月ごろ言ってましたね皆さんね。
最近は仮設も雨漏りするとか。
もう何か耐え難いですね。
気持ちまで雨漏りしてくる。
気持ちも何か行き場なくなってくるんですね。
約40歳の女性なんですけどね結婚して子どもさんもいる。
原発の時には大熊とか双葉とかあっちの方におられた。
今中通りの方に避難しておられる人ですね。
で彼女いわく…ここが私とっても印象的なんですけど毎日放射能の事考えて生活する事に疲れてしまったと。
たまに仙台に夫と共に行くとその時だけは気にしなくていいから気持ちがとっても楽になると。
ところが帰ってくる時に宮城県と福島県の県境を車で越して福島県に入るとまた気持ちが何て言うかな閉塞するっていうか憂鬱になるっていうか気持ちがつらくなるっていいますかね。
そういう人がそこだけで終わればいいんだけど複合的なストレスっていうかトラブルを抱える事がだんだんだんだん震災から2年たって3年たってって。
今4年目になって時間がたってくるといろんな問題が複合してくるの。
例えばね子どもが今度幼稚園に行きだす訳だね。
そうするとそこでの避難先の幼稚園だから仲間に入れてもらえるかもらえないとか。
子どもが幼稚園に行きたくなくなるとか。
幼稚園生同士のいじめとかという問題が発生するとそこでまたお母さんの心の痛みっていうのがまた引き裂かれる訳だね。
だから時間がたてばたつほど問題が過去形になって整理されて小さくなるんじゃなくて避難先にいればますます問題が複合化して複雑になって2世代にわたって深刻化してくる訳だね。
だから問題が雪だるま式に拡大していく。
難しいです。
今年はたんと難しくなりました。
「助けて」っていう感じ。
喜一さんが亡くなって3年。
栄子さんはなぜ夫は飯舘村のこの場所を選んだのか考え続けてきました。
夫は懐かしい海を見に行ったのではないか。
自殺したのはその帰り道だったのではないか。
今栄子さんはそう考えています。
当時故郷浪江は警戒区域となり立ち入る事ができませんでした。
浪江の海に近づくには飯舘村を抜けて浪江の北隣南相馬に行くしかありませんでした。
喜一さんが見たかもしれない南相馬の海。
そこは原発事故のため復旧工事の手も入らず無残な傷痕をさらしていました。
多分自分でもう一度見に行ってそこでまたショックを受けちゃってこっちに入ってきて自分でそんなふうに感じてしまったのかなって。
悲観的になって。
やっぱりあれじゃ帰れないみたいな。
今年に入って震災関連自殺は4月までに岩手県1人宮城県1人福島県は既に6人を数えています。
東日本大震災をきっかけに地元に戻り2015/03/01(日) 15:00〜15:30
NHKEテレ1大阪
ハートネットTV・選「曖昧な喪失の中で〜福島 増える震災関連自殺〜」[字]
福島で震災関連の自殺が増えている。それはなぜなのか。原発事故による避難生活の中で人はどのように精神的に追い詰められるのか。ある男性のケースを検証しながら考える。
詳細情報
番組内容
2011年7月、浪江町から二本松市に避難していた五十崎喜一さん(当時67歳)が自殺した。原発事故後、妻の栄子さんは、原発事故から自殺に至るまでの喜一さんの足取り、心の動きを今できる限り思い出そうとしている。原発事故による自殺をなかったことにしてはならないと考えるからだ。被災者の診療にあたる精神科医、蟻塚亮二さんは「家があるのに帰れない、この曖昧な喪失は人間にとって耐えがたい辛さをもたらす」と言う。
出演者
【語り】河野多紀
ジャンル :
福祉 – その他
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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