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【戸津井康之のメディア今昔(2)】
日本映画を救った「仁義なき戦い」…“起死回生”の陰に「映画づくりの情熱」
抗争くすぶる広島…必死の説得
日下部さんは新たな路線を開拓しようと躍起になっていた。
そんなころ、全幅の信頼を置いていた脚本家、笠原和夫さんと、大阪・吹田に住む元新聞記者の作家、飯干晃一さんに会いに出掛けた。飯干さん宅で「こんな話があるんだが」と見せられたのが、昭和47年から『週刊サンケイ』(当時)で連載される小説「仁義なき戦い」の原稿だった。広島の暴力団抗争の渦中にいた元組長、美能幸三(みのう・こうぞう)さんの獄中手記を元にした小説だ。日下部さんは読んだ瞬間、「これは凄い映画になる」と確信したという。
会社から映画化の了解を得るが、「現地取材はするな、美能さんにも会うな」と指示された。しかし、笠原さんは「それじゃ、いい脚本は書けない」と主張。日下部さんは2人で広島へ行き、美能さんへの取材を敢行した。
まだ抗争がくすぶっている中、「どうなっても知らんぞ」と渋る美能さんを、日下部さんは必死で説得。社内外の圧力を受けながらも、「この企画だけは絶対に投げない」と決死の覚悟で臨んだ。
「もっと前へ!」誰もがギラギラした現場
人選は二転三転したが、深作欣二監督、主演は菅原文太さんに決めた。「撮影現場は活気にあふれていた。深作監督は、斬られ役で目立たなかった川谷拓三さんら悪役にも光を当て、『もっとカメラの前へ出ろ!』と発破をかけていた。当時、監督は42歳、私は38歳。誰もがギラギラしていました」