当時の日本のエネルギー事情はどうだったのでしょうか?
1940年の1年間の日本の原油輸入は3716万バレル、一方、1941年の日本の国内原油生産は310万バレルという記録があります。つまり国内生産は年間消費量の12%のみ。逆の見方をすれば日本の石油輸入依存度は88%ということになります。このうち80%がアメリカからの輸入でした。
なお上の輸入データでは日本は開戦を見越して備蓄をすすめようとしていたため、実際の年間消費量は2,600バレル程度だったと思います。
つまりアメリカからの石油がストップすれば、早く代替供給元を確保しない限り、1年くらいで海軍は動けなくなってしまうわけです。日本海軍が開戦の判断に慎重を期していた理由は、ここにあります。
なお、当時日本の海軍と陸軍との関係は、冷たいものでした。中国では揚陸作戦における抵抗は殆ど無かったため、陸海軍の共同の必要は殆どありませんでした。また陸軍と海軍ではカルチャーや、世界を見る目に大きな隔たりがあったと思います。
当時の海軍のリーダーシップは、伏見宮博恭王元帥海軍大将ですが、彼は日独伊三国同盟(1940年9月締結)に反対でした。また山本五十六も反対派です。これに対して陸軍大将、板垣征四郎は日独伊三国同盟に賛成派でした。
このように日本の軍部内で意見が割れる中、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップらと日独伊三国同盟の交渉が進められるのですが、当初この交渉が不調だったので、ヒトラーとリッベントロップは独ソ不可侵条約(1939年8月)を締結、日本へのさやあてとしたわけです。
このニュースがもたらされると、日本には「ソ連がヨーロッパの兵力を極東にシフトするのではないか」という懸念が走りました。1941年4月13日に日ソ中立条約を結んだのはこのためです。
1941年7月26日、ルーズベルト大統領が日本の資産の凍結を発表します。日本への原油の輸出も禁止されます。ちょうど現在、アメリカなどがイランに対して経済制裁しているのと同じようなカタチで、アメリカに預金されていた日本の資金にもアクセスできなくなりました。日本がボルネオでシェルから買いつけようとしていた石油も、代金の支払いのための預金がアメリカにあったので買えなくなってしまったのです。
当時、アジアにおける権益は、主にイギリスとフランスが持っていました。第二次世界大戦の火ぶたを切ったドイツが、イギリスやフランスに勝利すれば、アジアに権力の真空が生じます。とうとうアメリカから石油の輸入を止められてしまったわけだし、代替ソースを確保するには今しかない! という判断に至ったのは、このためです。
そういうわけで、当時の日本の戦争の目的は(少なくとも海軍に関する限り)フィリピン、ボルネオ、英領マラヤ(シンガポールを含む)、スマトラ、ジャワを占領することでした。特にジャワが重要でした。そして、2年間、持ちこたえて、アメリカはじめ列強に現状を認知させるのが狙いでした。
それではなぜわざわざ真珠湾まで出て行ったのか?
1940年までは日本の計画は連合艦隊を日本の近海にとめおくという方法でした。一方、米国はマーシャル諸島、カロリン諸島を経てフィリピンまで取りに行くという作戦計画を持っていました。両国が、これをその通りに戦っていれば、多分日本が勝っていたと思います。
当初、空母は戦艦の防衛のためという考えが主流でした。しかし1938年頃から、敵陣奥深くへ攻撃するために空母を使うという方法が編み出されました。翔鶴は、そういう考えから建艦されました。つまり、「先ず叩いておいてから、守る」というわけです。
開戦時の日本の保有空母数は10、一方アメリカは8、そのうち太平洋には3隻が配備されていました。
数の上でも、質の上でも、士気も面でも、さらに訓練という面でも連合艦隊の方がアメリカより優れていました。特に航空機の性能はアメリカ側を「あっ」と言わせました。作戦に先立ち、日本の海軍は常に天候の悪いところ、条件の厳しいところを選んで軍事演習を行いました。これはひとつには秘密裏に演習するためです。これと対照的に米国海軍は主に南方の、気候の良いところを選んで訓練しました。つまりやっている事がヌルいわけです。そのへんにも両者の緒戦の準備には、大きな差があったと言えます。
真珠湾攻撃には全部で423機の航空機が投入されています。そのうち30機は空母の上空をパトロール、40機は温存されたので353機が真珠湾を目指しました。97式艦上攻撃機(中島B5N)の場合、真珠湾では100機が高高度爆撃、40機が魚雷攻撃に投入されました。99式艦上爆撃機(愛知D3A)の場合、真珠湾では131機が急降下爆撃に参加しています。また零式戦闘機は79機が投入されました。
これらの攻撃機、爆撃機のターゲットへの命中率を見ると、冒頭に紹介したイギリス対ドイツのユトランド沖海戦のときよりはるかに効果的であり、空母を利用した空からの攻撃が戦艦を主体とした大艦巨砲主義より勝っていることがわかります。言い換えればこの時点で戦艦というコンセプト自体が、時代遅れになったのです。
なお様々な戦術のうち、最も確実なやり方は急降下爆撃でした。のちにミッドウェー海戦で帝国海軍が「魔の四分間」に三隻の空母を失ったのも、やはり急降下爆撃でした。
総括すれば、連合艦隊は、数の上でも、質の上でも、士気も面でも、さらに訓練という面でもアメリカ海軍を圧倒していました。しかし燃料確保の見通しに関しては、甘かったと言う他ありません。また開戦後の工場のアウトプットが日本だけ極めて低かったのは、「資源が無かったから」だけでは済まされないと思います。
シビリアン・コントロールは、産業界を含めた「民間からのインプット」をも意味します。開戦後、日米間で急速に差が付いてしまったのは、このへんも関係しているのではないでしょうか?
(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack)
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- 2015年03月02日 04:58
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