近代日本最大のクーデター未遂。
その襲撃現場に居合わせた人物の肉声テープが見つかりました。
銃弾を浴び死にひんした男。
妻は叫びます。
襲撃されたのは…そして鈴木の妻たかは天皇の幼い頃の養育係。
昭和20年首相となった鈴木。
昭和天皇の信頼のもと太平洋戦争末期重大局面に臨みます。
降伏か戦争継続か鈴木は天皇に異例の決断を仰ぎました。
後に天皇はこう述べています。
国家存亡の危機に天皇と歩みを共にした鈴木貫太郎。
苦悩と葛藤の軌跡です。
千葉県野田市関宿。
鈴木貫太郎が晩年を過ごした地です。
(取材者)ごめんください。
はい。
こちらのお宅にこれまで知られる事のなかった録音テープが残されていました。
鈴木の妻が夫との思い出を語った肉声。
(上原)これですね「二・二六事件」。
(取材者)えっ!?
(上原)「二・二六事件」。
「二・二六事件」の襲撃現場の生々しい証言がありました。
戦後の昭和40年に鈴木の妻たかが近所で交流のあった農家の上原さんの要望に応じ録音したものです。
ふだんは冷静で物事に動じないたかがその時ばかりは様子が違ったといいます。
2月26日未明に起きた…9人が殺害されます。
首相官邸や警視庁など東京の中枢を僅か数時間で占拠しました。
天皇親政を目指し国家改造を実現しようとしたこの行動は近代日本史上最大のクーデター事件といわれます。
この事件で鈴木貫太郎が襲われた時その状況はどのようなものだったのでしょうか。
鈴木の家の跡地に建つ記念館にはそれを物語る絵画が展示されています。
既にその職に7年間就いていました。
(たか)パンパンパンパン。
毅然たる態度の…もともと鈴木は生っ粋の海軍軍人。
幾多の死線を乗り越え任務を全うしていきます。
日本軍の勝利に貢献しました。
その後鈴木は…海軍トップにまで上り詰めます。
40年に及ぶ軍人としての人生。
その中で鈴木には揺るがない信念がありました。
ところが昭和4年61歳の時思いがけなく天皇との縁が生まれます。
宮中の重要な役職である「侍従長」に推挙されたのです。
見込まれたのは「君側の忠」。
私利私欲なく天皇に仕えるであろう誠実な人柄でした。
「侍従長」とは天皇の身の回りの世話をするのが役目。
でもそれにとどまらず公私両面で天皇の相談相手になったり首相や大臣が拝謁する場に同席したりするなど重要な職務を担いました。
鈴木は天皇の側近中の側近となっていきました。
しかし「二・二六事件」の首謀者たちは「君側の奸」天皇のそば近くで悪政を行う者と見なします。
鈴木は国家体制を破壊する重臣の一人として標的とされたのです。
たかは鈴木の胸や頭に手を当て無我夢中で止血にあたりました。
しかし鈴木は血の海につかっているよう。
駆けつけた医者が流れ出た血で滑って転ぶほどで…一方でたかは宮中に鈴木の大事を告げました。
昭和天皇は陸軍部隊の暴挙に怒りをあらわにします。
「信頼する老臣」とは鈴木らの事でした。
天皇はこれらの部隊を反乱軍と見なし…「二・二六事件」は4日で収束しました。
鈴木貫太郎は妻たかの素早い処置のかいもあってか奇跡的に一命を取り留めました。
しかし鈴木はこの年長く務めた侍従長を退く事になったのです。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
千葉県野田市の鈴木貫太郎記念館には鈴木の妻たかが生涯大切にしていたものが残されています。
それは幼い昭和天皇とたかが着用していた衣服。
残されていたテープには幼い昭和天皇との親密な関係をしのばせる話もありました。
昭和天皇自身も……と懐かしむほど。
天皇にとって鈴木とたかは信頼あつい特別な夫婦だったのです。
さてその鈴木貫太郎ですが後に再び昭和天皇と日本にとって極めて重大な局面を共にする事になります。
それは何かというと…こちらをご覧下さい。
「耐え難きを耐え忍び難きを忍び…」。
昭和20年8月15日。
アメリカなど連合国を相手に太平洋戦争を戦った日本は「ポツダム宣言」を受諾し終戦を迎えました。
この終戦に至る大変な時期に総理大臣となったのが鈴木貫太郎でした。
でも鈴木自身は首相就任の要請があった当初再三固辞します。
既に77歳で過去に例がないほどの高齢であり耳も遠い事。
そして……という信念が理由でした。
その鈴木に対してじきじきに懇願したのが昭和天皇でした。
天皇に「頼む」とまで言われた鈴木はついに承諾。
そのころもはや日本の敗北は決定的。
しかし戦争を継続し本土決戦に臨むべきだという動きもありました。
そうした中戦争をどう終わらせるかという事は非常に重く難しい問題でした。
戦争終結を実現させていった過程で誰がどんな働きをしたかについてはさまざまな証言や見解があります。
ですが今回の番組では昭和天皇自身が……と語った鈴木貫太郎を軸にして終戦の決断を見ていきます。
話は敗戦6日前の8月9日から始まります。
昭和20年8月9日の朝鈴木貫太郎は皇居の地下防空壕で開かれた緊急の会議に臨んでいました。
議題は2週間前に連合国側から突きつけられた「ポツダム宣言」を受け入れるか否か。
口火を切ったのは議長役の鈴木でした。
連合国側による「日本占領」や「軍隊の武装解除」「戦争犯罪人の処罰」などを強く求めていました。
日本はこの会議の3日前8月6日広島に原爆を落とされ一瞬にして多くの人が命を失いました。
更に会議の日の未明にはソ連が満州に攻め込んでいました。
国家の命運を担い決断を迫られていたのは首相の鈴木をはじめこの6人。
政府と軍部を代表する最高戦争指導会議のメンバーでした。
今や鈴木を含め出席者は「ポツダム宣言」を受諾するしかないという点では一致していました。
ただ問題は受け入れるにあたって日本側から条件をつけるかどうかでした。
まず東郷茂徳外務大臣から出されたのが条件一つだけに絞るべきだとする意見。
その一つとは「国体護持」。
「国体」を守る事でした。
一条件だけに限るとした東郷。
それに反対する中心人物が陸軍大臣の阿南惟幾でした。
阿南は「国体護持」は当然の事。
それに加えて「占領は短期間かつ小範囲」そして「武装解除」と「戦争犯罪人の処罰は日本側が行う」という条件を主張します。
こうした条件をつけてこそ「国体」を守る事が可能だという考えでした。
しかしその情報が入っても議論は延々と続きました。
鈴木は最高戦争指導会議で結論を導く事はできませんでした。
しかしここでも…他の閣僚の意見も割れました。
閣議が始まって…鈴木は積極的な発言をしませんでした。
終戦への道を閉ざしかねない内閣の瓦解。
鈴木には大きな懸念材料がありました。
それは陸軍の存在です。
周到に事を進めなければあの「二・二六事件」のような軍部の反乱そしてクーデターさえ引き起こしかねません。
鈴木は閣議で決着をつけないまま散会します。
頼みの綱は「二・二六事件」でも反乱軍の鎮圧に動いた昭和天皇でした。
この膠着した事態を打開するため鈴木は御前会議を開き天皇臨席の下で方針を決定しようとします。
日付が変わった8月10日午前0時過ぎ。
異例の時刻に御前会議が始まりました。
しかし審議を続けますが…ついに鈴木は天皇に決断を仰ぎました。
本来天皇は大日本帝国憲法体制の下では政府の決定事項に対して「裁可」を行う存在でした。
決定された事柄の責任は政府が負うと定められ天皇は「無答責」つまり責任を負わないとされていたのです。
天皇に判断を委ねる事はまさに異例でした。
沈黙を守り議論を聞いていた天皇は鈴木に促される形で発言しました。
それを受け…その確認を求めました。
こうして天皇と鈴木の深い関係をもとに一つのハードルは越えました。
しかしこのあとも数々の困難が待ち受けていたのです。
日本の通告に対して2日後の8月12日連合国側からの回答がありました。
しかしそれは「国体護持」について具体的に答えず判断に迷う文章を含んでいました。
この「Subjectto」という文言を記した回答文に対し…陸軍は不満をあらわにします。
「天皇の上に統治者がいる事になってしまう」。
「之国体ノ根本的破壊ナリ」。
こうした状況で鈴木は…連合国側から回答がきた翌日の8月13日朝。
再度最高戦争指導会議が開かれました。
この日鈴木首相はそれまでになく明確に自らの意見を述べました。
「ポツダム宣言」受諾に反対する意見を「非常識」とし強い言葉で非難。
宣言の受け入れを主張しました。
実は会議に先立ち海外からの一通の緊急電報が鈴木のもとに届いていました。
そこには日本が人民主権に基づく西洋流の立憲君主制をとるべき事が記されていました。
つまりその制度ならばたとえ日本が降伏しても…電報の内容は昭和天皇にも伝えられたと考えられています。
天皇は陸軍大臣の阿南を呼び出しました。
「国体護持」に不安があると主張する阿南に対し天皇はこのように述べたと伝えられます。
13日午後臨時閣議が開かれます。
その席でも…当時陸軍内部には戦争の継続を唱える主戦派がおりクーデターによる軍部主導の政権樹立も辞さないかまえでした。
中堅将校たちは阿南のもとに押しかけ突き上げたといいます。
天皇に説得されても強硬な姿勢をとり続けた阿南。
しかし異なる一面をうかがわせる証言が残されています。
こうした証言を裏付けるかのように阿南は不可解な行動をとっています。
「ポツダム宣言」は受諾しない事になりそうだと告げた阿南。
でも実際の閣議では阿南の立場は劣勢でした。
阿南が主戦派の暴発を抑えるためにとった行動だと考えられます。
一方事態は切迫していました。
この日アメリカ軍が日本上空から宣伝ビラをまきます。
「日本の皆様」と題したビラにはあの「Subjectto」天皇と日本政府の権限を連合国の下に置くと記した回答文が記されていました。
天皇は危惧しました。
鈴木ももはや時間はないと決意を固めました。
「聖断」は天皇自身が意思決定を行う特別な行為です。
それを一度ならずも二度までも求める異例中の異例の行動に鈴木は出ようとしたのです。
翌8月14日朝。
天皇は承諾。
更に軍部によるクーデター計画を防ぐため…昭和天皇と鈴木の考えは一致していました。
天皇の命で閣僚や最高戦争指導会議のメンバーなどが集められたのです。
鈴木は天皇に対し「閣僚の大部分が連合国側の回答を受け入れる事に賛成だが全員一致には至っていない。
再度の『御聖断』を仰ぎたい」。
そう述べました。
鈴木の発言を受け昭和天皇は…。
こうした内容の言葉を発し…陸軍将校たちの怒りは爆発します。
しかし阿南の意思は揺らぐ事はありませんでした。
「終戦の詔書」に阿南も含めた閣僚全員が署名しました。
実は阿南は鈴木内閣の一員として陸軍大臣となったあとその胸中をこう語っていたといいます。
その夜阿南は一人鈴木のもとを訪れました。
阿南は一礼し静かに去っていきました。
鈴木はつぶやきます。
阿南は翌朝天皇のいる宮中に向かい割腹自決しました。
残された遺書にはその時流れ出た血が染み込んでいます。
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。
鈴木は阿南を除く閣僚全員の辞表をとりまとめて昭和天皇に奉呈。
その鈴木を天皇はこうねぎらいました。
昭和天皇は自らの「聖断」で戦争が終わった事に触れこう述べたといいます。
日本はようやく「終戦」を迎えました。
しかし指導者たちの決断までの間に国内外で多大な犠牲が生まれた事は紛れもない事実でした。
終戦から3年たった…鈴木は死の床でたかに背中をさすられながらこうつぶやいたといいます。
今鈴木はたかと一つ小さな墓で眠っています。
鈴木は生前自らの戒名を決めていました。
その中にこの文字が。
「忠を尽くす」。
死してなお昭和天皇に対して誠心誠意を尽くすという思いが込められているかのようです。
昭和の大転換期首相を務めた鈴木貫太郎。
だびに付された後その灰の中には「二・二六事件」の時に撃ち込まれた銃弾が残っていました。
2015/03/04(水) 00:40〜01:25
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「天皇のそばにいた男 鈴木貫太郎 太平洋戦争最後の首相」[解][字][再]
二・二六事件で九死に一生を得た鈴木貫太郎は、太平洋戦争末期、内閣総理大臣に就任。国のかじ取りを担うことになる。いかに戦争を終わらせるのか。鈴木が賭けたのは…
詳細情報
番組内容
近代日本史上最大のクーデター未遂「二・二六事件」。この時、昭和天皇の側近の侍従長だった鈴木貫太郎は九死に一生を得る。その後、太平洋戦争末期に、天皇の強い懇願もあり、鈴木は内閣総理大臣に就任。戦争終結を目指して指導者たちの合意を模索することになる。軍部の反乱やクーデターによる国家崩壊の危機をもはらむ中で、いかに戦争を終わらせるのか。そこで鈴木が賭けたのが、天皇自らが下す決断、いわゆる「聖断」だった。
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ
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ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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