――OUTのパロディーマンガが載ってからしばらく、アニメ雑誌にアニメパロディーの読み切りをいくつか描かれていましたよね。それからしばらくタイムラグがあって、『週刊少年サンデー』で連載を始めるまでに、どんないきさつがあったんでしょう。同人的なパロディーから、メジャーな少年誌でやろうと決心された理由は?
いや、決心ということでもないんですけどね。これもまた、いろいろな人と知り合う中での"流れ"なんですよ。
OUTをやっているときに、『月刊アニメック』(※5)というアニメ雑誌の編集部にも出入りするようになったんです。その編集部に僕と同じように出入りしている出渕裕(※6)という人がいましてね……。なんと、僕のデビュー前の同人誌を買ってくれていたんです。
※5 『月刊アニメック』
1978年から1987年にかけて発行されていたアニメ雑誌。評論・批評に特化した誌面が特徴で、「評価に値しない番組には沈黙を以て応える」というスタンスに共感するファンも多かった。期待される新進クリエイターを積極的に登用したことでも知られ、ゆうきさんもその一人だった。
※6
出渕裕
漫画家・イラストレーター・アニメ監督などの顔を持つクリエイター。特にメカニックデザイナーとして著名で、代表作に『聖戦士ダンバイン』『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動警察パトレイバー』などがある。
――あの出渕さんとは、同人誌つながりだったわけですか!
そう、そこで知り合いになって。出渕くんが下北沢の「パラレル・クリエーション」という、豊田有恒さん(※7)が若いクリエータ—のたまり場として作った事務所に遊びに来ないかと誘ってくれたんです。そのときちょうど出渕くんが、島本和彦さんがサンデー増刊で連載していた『風の戦士ダン』(※8)のメカデザインをやっていたんですね。
※7
豊田有恒
SF作家、推理作家。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原案、設定にも携わった。1980年代を中心に、創作集団パラレル・クリエーションを主宰。出渕裕などのクリエイターが在席した。
※8
『風の戦士ダン』
現代に生きる忍者組織・恐車一族と神魔一族の闘いを描く、痛快アクション&パロディーマンガ。原作を『美味しんぼ』の雁屋哲、作画を『アオイホノオ』の島本和彦が手がけた。
――つまり『風の戦士ダン』つながりでサンデーの方と知り合った?
それもありますし、出渕くんはサンデーでも、里見桂さんや池上遼一さんのマンガのメカデザインをやっていたんですよ。だから、サンデーの編集者がパラレル・クリエーションにしょっちゅう出入りしていたんですね。
僕は当時、パラレル・クリエーションに籠もって「ヤマトタケルの冒険」(※9)という作品の原稿を描いていました。それで、僕のどこが気に入られたのか分かりませんが、サンデー編集者の方が「サンデーで描きなさい」と。
でも、僕はその時、「OUTとアニメックの仕事が手一杯なので、サンデーで描いているヒマがありません」って断っちゃったんですよ(笑)。
――それって断り方として変ですよね!(笑)メジャー誌デビューへの、願ってもないお誘いでしょう!?
その編集者の方も「俺は、サンデーで描けと言われて、こんなに嫌がる漫画家を見たのは初めてだ」って(笑)。
――それは、気持ち的には、サンデーで王道のマンガを描くよりも、OUTやアニメックでパロディーやってるほうが楽しかったとか、そういうことだったんでしょうか?
いや、そういうわけじゃないです。ただ、僕は怠け者で、仕事が非常に遅いものですから……。本当にOUTやアニメックでいっぱいいっぱいだったんです(笑)。
――でもそこからまた口説かれて、最終的にサンデーで描くわけですよね。
とにかく一度小学館に来いと言われまして。「でも、持っていく原稿がありませんよ」と言ったら、「ネームでもなんでもいいから持ってこい」と。
ちょうど描き溜めていたネームがあったので、それを持っていったんです。そしたら、「サンデー25周年の記念増刊号がでるから、君はそこに描くんだ。もう台割切ってるから」と言われて!
――ああ、もう決まってたんだ! 作家の承諾などは別に、見切り発車的な……(笑)。 締切とページが既に決定していたんですね!
そう。それで増刊号で短編を描いて、サンデーデビューです。
――なるほど、いつの間にかチャンスがうまいこと繋がって……という感じがします。ゆうきさん自身が「絶対サンデーでトップを取るんだ!」というのではなく、はじめは趣味が高じて、気づいたら少年誌に……という。
アイドルが後に「私はオーディション受ける気なかったんですけど、友達が勝手に応募して~」みたいに言うことがありますよね。今、それが浮かびました(笑)。
あれは「でもそれ嘘なんじゃないの~?」と思わないこともないけどね(笑)。