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【放送芸能】

「僕は軟派なエロじじいだけど…」 平和だけは譲れない なかにし礼 創作生活50周年

創作生活50年を振り返るなかにし礼=東京都港区で

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 「天使の誘惑」(黛ジュン)、「今日でお別れ」(菅原洋一)、「北酒場」(細川たかし)で日本レコード大賞に三度輝いた昭和歌謡界を代表するヒットメーカー、作詞家なかにし礼(76)が、創作生活五十周年を迎えた。平成の到来とともに作家に“転身”したが、創作活動の原点にあるのは少年時代の過酷な戦争体験である。五十年の足跡、平和への思いを聞いた。 (安田信博)

 幼少期を過ごした旧満州(中国東北部)の黒竜江省牡丹江市。戦後五十年のテレビ番組取材で訪れた生家跡は、公園とビルに生まれ変わっていた。ビルの一室のカラオケボックスでは、少女が中国語で歌う。すぐに若者の切ない別れを描いた自作「グッド・バイ・マイ・ラブ」と気付いた。劇的な巡り合わせに感極まり、棒立ちとなった。

 今も、来し方に思いをはせ、歌、人生とは何かを考えると、必ず「土地に魂が宿った」牡丹江での体験がよみがえり、「胸にこみあげるものがある」という。三千を超す作詞から三つ選べと言われれば、必ずアン・ルイスがヒットさせたこの曲を入れる。

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 立教大学在学中からシャンソンの訳詞を手掛ける。一九六三年、新婚旅行先の伊豆・下田のホテルで、映画「太平洋ひとりぼっち」のロケ中だった石原裕次郎さんと偶然出会い、「日本の歌を書きなよ、俺が歌うような歌をさ」と勧められたことが作詞家への契機となった。完成した映画で、村田英雄の「王将」が大海原を漂うヨットの短波放送から流れるシーンを見て、歌謡曲の良さを再認識したことも決断を後押しした。

 二十余年後。公私にわたって深い関係となった裕次郎さんから「人生の歌を書いてほしい」と依頼された。フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」のように自らの人生を得々と歌うようなものにはしたくない。大スターを太陽のように仰ぎ見て、懸命に生きた同世代の男たちの人生を肯定するような内容であれば…。そんな思いを込めたのが「わが人生に悔いなし」だった。

 静養先のハワイでのレコーディングから五カ月。裕次郎さんは八七年七月、五十二歳の若さで逝った。「とりたてて師匠もいない僕の人生を導いてくれた、唯一といってもいい大恩人でした」

 その死から一年半。昭和が終わるとともにほどなく作詞活動を休業し、念願だった小説の世界に足を踏み入れた。特攻隊帰りの兄との確執を描いた自伝的小説「兄弟」で一躍脚光を浴び、「長崎ぶらぶら節」は直木賞に輝く。

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 小説はドラマや映画、舞台の原作となり、出演俳優らと交流した。こうして築いた人脈を生かし、自身の曲を女優が歌うアルバム「なかにし礼と12人の女優たち」を出した。「石狩挽歌(ばんか)」(泉ピン子)、「時には娼婦(しょうふ)のように」(水谷八重子)、「愛のさざなみ」(浅丘ルリ子)、「人形の家」(大竹しのぶ)、「グッド・バイ−」(桃井かおり)…。「女優として培った芸の深さ、人生経験から出てきた表現、観察、洞察力が声ににじみ出ている。歌手のカバーではこうはいかない。これほどすてきで楽しいアルバムになるとは想像もしていなかった」

 アルバムに込めたのは平和への強い思いである。二十代で訳詩した「世界の子供たち」。平和の尊さ、世界共生を呼び掛けるこの曲は、中国残留孤児支援活動の同志、黒柳徹子に依頼した。発売当初、放送禁止とするテレビ局も出た「時には娼婦−」を入れたのも、「エロスも不道徳も許されるのが平和であることの象徴」との信念からだ。

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 旧ソ連軍の侵攻で牡丹江から一家で脱出途上の列車内。機銃掃射を浴び、目の前で次々に人が撃たれ死体が窓から投げ捨てられた。線路際にごろごろ転がる死体の山。なかにし少年が目撃した地獄絵図である。

 昨年十一月、集団的自衛権の行使を容認した閣議決定を糾弾する詩集「平和の申し子たちへ−泣きながら抵抗を始めよう」を出版。絵本詩集「金色の翼」も出した。

 「詩集を出してからまじめなイメージがついて回り、オピニオンリーダー的な扱いを受けそうになったけど忌避した。僕は相変わらず軟派なエロじじい。でも、平和だけは誰にも譲れません」

 

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