徳永英明の「イヤな人がいたから今の自分があるんだよ。」という言葉が沁みたので、思わずメモした

 最近すきなテレビ番組のひとつに『ミレニアムズ』*1 っていうお笑い系のバラエティ番組があって、今週のカスママ(オードリー・春日俊彰)のコーナーのゲストが、徳永英明だったんだけど。
 山里亮太扮する番組ADにゃんちゅうからの「誰か爆破したい人とかいます?」という質問に対し、徳永英明の回答が良すぎて、思わずメモしてしまった。

たとえばさ過去に裏切られた人とかさ、あのー、すごく、こういじめた人とかそういう人がいるじゃない。みんな何か色んな人たち。でもねー、それがあっての今だって思うと、何かどうでもよくなるんだよね。
だってほら、それがあったから今があるじゃん。

イヤな人がいたから 今の自分があるんだよ。

あの、俺もそうなんだけど、気にしちゃだめよ。いや、俺も気にすんのよ。うん、俺も気にして、何か俺悪いこと言っちゃったかなとか逆にそういう風に思って、寝れなくなっちゃったりすることあるんだけど、結局それは、その人の何か悪い部分までもらっちゃってるわけじゃない。なんか自分のほうに来ちゃってるわけじゃない、何か嫌なものが。それ思っちゃった瞬間に、もう正気じゃなくなるんでしょ。

嫌いな人で頭がいっぱいになるのは 損してるから気にしちゃダメ。

 というように、普段ならこじらせエピソードや暴露話で盛り上がるコーナーが、一気にカウンセラーのような空気に。


 うわー、それにしても沁みました。何周回ったら、英明ちゃん(番組でカスママがそう呼んでた)のようなそんな次元までたどり着けるでしょうか?


 そもそも、「○○さんのおかげで、今がある」と言う場合に、わざわざ嫌いな人を当てはめることってなかなかないじゃないですか。
 お世話になった人とか、優しくしてくれた人とか、厳しい人だったとしてもちゃんと叱ってくれた人とかを大抵は思い浮かべるわけで。


 でも、自分の周りが温厚で無害な人ばかりだったら(友人と呼べる人はだいたいそういう子が多いんだけど)、わがままに自分が大好きなだけの人間になってたかな、とか。
 小学校が楽しくて楽しくてたまらなかったら、そのまま中学高校と進んで、今自分が趣味だと思っているものにはすべて触れずに生きてしまったのかな、とか。

 そう考えると、何かを避けるように生きてきたことで、自分を形成するきっかけになったことや気づけたことは少なくないなと思ってみたりする。
 

 けれども、気にしないことと、許すことは違う気がする。逃げた時も、全力で逃げた時のほうが、自分のためになった気がするし。

 忘れないし、許しもしない。でも、あんな奴の為に心をいっぱいにしたりしない。そんな風に生きていけたらいいと思う。

VOCALIST 6

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